【#映画感想文】 ディズニーアニメーション一気に批評 その8 『#イカボードとトード氏』 まじで評価に困るオムニバス作品のラスト 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
なお番組の最新エピソードご聴取はこちらよりどうぞ↓
ディズニーアニメーション一気に批評 その8 『イカボードとトード氏』 まじで評価に困るオムニバス作品のラスト
第1章 異質な作品の筆頭 “ディズニーらしくない”と言いたくなる、後味の悪さが先に立つ
“There are more things in Heaven and Earth, Horatio, than are dreamt of in your philosophy.”
「この天地には、お前の哲学が夢にも思わぬことが多くあるのだよ。」(William Shakespeare)
1.1 私がつい「ディズニーらしくない」と言ってしまう理由——タッチより先に“気分”がズレている
「ディズニーらしさ」をどう定義するかで話は変わってくる。これは逃げではなく、ディズニーがあまりにも長い時間、あまりにも多様な顔を見せてきた会社だからこそ避けられない前提だ。
ただ、それでも私は本作を形容する時に、反射的に「ディズニーらしくない」と言ってしまう。なぜか。作画のタッチや構成の問題というより、“鑑賞後に残る気分”が、私がディズニーに求めてしまうものとズレているからだ。ディズニーの長編って、基本的に最後はどこかしら「まあ、人間ってそんなもんだけどさ、でも生きていくか」みたいな、観客の背中を押す終わり方を用意する。押し方が雑でも、とにかく押す。
ところが『イカボードとトード氏』は、押し方が弱いというより、押さない。押さないどころか、見終わった観客に「はい、以上。現実はそんなに甘くない」みたいな顔をしてくる。これが私にとっては妙に引っかかる。スッキリしない。救いが薄い。薄いのに、作りとしては妙に整っているから、余計に気持ちが宙に浮く。
私は普段、作品が暗いこと自体は全然平気だ。むしろ暗い作品の方が好きなことすらある。ただ、ディズニーでそれをやられると、期待とのギャップで変な笑いが出る。胃もたれしたあとに、さらに油を差し出される感じ。いや、私は油が嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、今このタイミングで?みたいなやつだ。
1.2 “物語の結末がスッキリしない”というより、“スッキリさせる気がない”感じがする
本作がスッキリしないのは、単に悲劇的だからではない。もっと厄介で、「スッキリさせる気がない」ように見えるところだ。普通の娯楽映画って、観客の感情にある程度の整理をつける。勧善懲悪でも、成長物語でも、恋愛成就でも、あるいはビターエンドでもいい。とにかく“落としどころ”を用意する。
ところが本作は、その落としどころが、観客に優しくない。優しくないだけならまだしも、「優しくなくてもいいだろ?」と開き直っているような顔をする。
私はここで、心理学でいう“予測誤差”の話を思い出す。観客はジャンルやブランドから「こういう気分で終わるはず」という予測を立てる。予測が外れると、驚きが生まれる。驚きは快感にもなるし、不快にもなる。本作の驚きは、私にとっては快感より不快に寄る瞬間が多い。
でも不快だからダメ、ではない。不快にも価値はある。問題は、価値がある不快か、ただの置き去りかだ。私はその境界でずっと揺れている。だから「評価に困る」と言うしかなくなる。困るけど、困ったまま放置できない。この感情の粘着性が、まさに本作の異質さだと思う。
1.3 掘り下げる価値があるのは、“ディズニー史の気分が変わる節目”が滲んでいるから
多少なりとも掘り下げてみる価値があるのは、作品単体の面白さ以上に、ディズニー史の“気分の変化”が滲んでいるからだ。オムニバス形式の長編が続いてきた流れの中で、本作がそのラストに位置する。ラストにして、この後味。
ここに私は、制作側の疲労や焦り、あるいは「もう一回、別の方向へ舵を切らないとヤバい」という空気を勝手に嗅ぎ取ってしまう。もちろん作品から“制作陣の心情”を断定するのは雑だ。雑だが、映画って雑に嗅ぎ取らせる力がある。完成品のはずなのに、作り手の息遣いが漏れてくることがある。
私は本作を観ると、そんな漏れを感じる。ディズニーが“夢の工場”である前に、“会社”であること。会社は疲れる。疲れた会社は、物語にも疲れが出る。出た疲れが、妙に面白い形で残ることがある。
本作は、私にとってまさにそのタイプだ。好きと言い切れないのに、記憶から消せない。
この異質さの正体を確かめるために、まずは箱を開けて中身、つまり二本立ての中身へ入っていく。
第2章 あらすじ 2本立てのくせに、どっちも後味が微妙に苦い
“A happy ending is just a story that hasn’t finished yet.”
「ハッピーエンドとは、まだ終わっていない物語にすぎない。」(Tom Stoppard)
2.1 『トード氏』——金遣いが荒い酔狂者が、周囲の制止を踏みつぶして突っ走る
本作はファンアンドファンシーフリーと同様に二本立て形式で、『トード氏』と『イカボード』が一本の箱に同居している。まず『トード氏』は、金遣いの荒い酔狂者、トードが主役だ。
この男、とにかく自由奔放で、周囲が何を言おうが止まらない。忠告はBGM。反省はエンドロールに流す予定すらない。欲しいものがあれば飛びつき、面白そうなら突っ込む。しかも行動力だけは妙にある。こういう人、現実にもいる。会社にいると最悪だが、映画の中だと一周回って面白い。
ただし面白さは、爽快感というより“眩暈”寄りだ。トードの暴走は、観客が共感して乗れるタイプの暴走ではなく、「お前ちょっと落ち着け」と言いたくなる暴走である。言いたくなるのに、画面は止まらない。止まらないから、観客はその暴走の尻尾を掴んだまま引きずられる。
この引きずられ方が、ディズニーの王道長編と違う。王道長編は観客を“連れていく”が、トード氏は観客を“引き回す”。私はこの違いに、早くも「ディズニーらしくない」気配を感じる。
2.2 『イカボード』——変わり者がコミュニティで浮き、嫌な予感がそのまま現実になる
対する『イカボード』は、気分がまるで違う。こちらの主人公イカボードは、変わり者で、どこかおべっかが多い。本人としては処世術のつもりなのかもしれないが、コミュニティの側からすると“鼻につくやつ”として扱われやすい。
そしてこの物語の嫌なところは、イカボードが致命的な悪事を働いたわけでもないのに、空気と噂と雰囲気に飲まれていく感じが強いところだ。私たちはここで、個人の倫理よりも共同体の気分が勝つ瞬間を見る。
恐怖や陰鬱が物語の推進力になるのだが、この推進力が、観客に優しくない。怖いから面白い、というより、怖いから気分が落ちる。気分が落ちるのに、話はちゃんと締まっていく。締まっていくから、後味が残る。
私はこの「後味の残り方」に、妙にアメリカ的な“共同体の冷たさ”を勝手に嗅ぎ取ってしまう。勝手に、だ。だが勝手に嗅ぎ取らせる力が、物語にはある。
2.3 二本の共通点——“いかれた主人公”と“救いの薄さ”が、箱の統一感になってしまう
面白いのは、この二本がテーマ的に繋がっているわけではないのに、結果として共通点が見えてしまうことだ。
トードは金遣いの荒い酔狂者で、周囲の制止を無視して突き進む。イカボードは変わり者で、コミュニティの中で浮き、爪弾きにされる。
両者とも、共同体と摩擦を起こす主人公だ。そして両者とも、物語の展開が「救いを厚めに盛らない」。ここが本作の気分を統一してしまっている。
つまりこの箱は、結果的に“共同体と合わない人間の顛末”を二本立てで見せてくる。いや、そんな企画書、普通は通らない。少なくとも私は通さない。家族向けアニメの企画会議でそれを出したら、たぶん空気が凍る。
それでも通ってしまったのが、この時期のディズニーの不思議だ。
2.4 当時のディズニーはフラストレーションでも溜まっていたのか——そう思いたくなる“意地の悪さ”
私はここで「当時のディズニーはフラストレーションでも溜まっていたのだろうか」と思いたくなる。いや、そうに違いない、と言いたくなる。
もちろん、作品から作り手の心理を断定するのは乱暴だ。だが、作品の“意地の悪さ”って、時々びっくりするほど正直に滲む。
この二本立ては、観客に優しい気分の逃げ道を用意しない。笑ってもいいが、笑い切らせない。不安になってもいいが、救いで抱きしめない。
こういう作品が、オムニバス形式のラストに置かれている。私はそこに「この形式、もう限界だわ」という無言のサインを勝手に読み取ってしまう。
次の章では、『トード氏』の中で私がどうしても語りたい“腹立つのに憎めない馬”の話をする。ストーリーの骨格というより、私の鑑賞体験の核の話だ。結局、映画ってそういうところで記憶に残る。
第3章 オムニバスシリーズの最後 “二本立て”が、終わり際にいちばん意地悪になる
“Hell is other people.”
「地獄とは他人である。」(Jean-Paul Sartre)
※この作品、地獄の種類が二種類用意されている。親切設計か?
3.1 “シリーズ扱いじゃない”のに、確かに終点の顔をしている
厳密には「オムニバスシリーズ」という公式の括りがあるわけではない。だが、オムニバス形式の長編(という名の詰め合わせ)が続いてきた流れの中で、『イカボードとトード氏』が事実上その最後に当たる、という位置づけはどうしても見えてしまう。
この「最後に当たる」という事実が何を生むかというと、観客側の勝手な期待だ。最後なら、何かしら締めてくれるだろう。最後なら、少なくとも“後味”を整えてくれるだろう。ところが本作は、その期待をきれいに外してくる。外し方が上品な実験ではなく、わりと露骨な「はい、現実」の出し方なのが困る。
オムニバス形式って、もともと感情の持続が難しい。短編ごとに気分が切り替わるからだ。だから普通は、短編それぞれに小さな救いや笑いを配置して、鑑賞体験を“明るい断片”で繋いでいく。ところが本作は、断片が明るくない。明るくない断片を二つ並べて「長編です」と言い張ってくる。私はここで初めて、ディズニーに「それ、言い張りすぎでは?」とツッコミたくなる。
3.2 二人とも“共同体と合わない”主人公——テーマ性があるように見えてしまうのが余計に重い
二本立ての主人公を見比べると、共通点が見えてしまう。トード氏は金遣いの荒い酔狂者で、周囲の静止を踏みつぶして突っ走る。イカボードは変わり者で、空気を読む方向がズレていて、共同体の中で浮く。
この二人、どちらも共同体との摩擦で物語が進む。つまり「社会とうまく噛み合わない人間」を連続で見せられる。これが妙に重い。重い理由は、二人が“悪党”として描かれていないからだ。
トード氏の奔放さは害にもなるが、同時に生命力でもある。イカボードの変さは鼻につくが、致命的な罪とは言い難い。なのに物語は、彼らにそこまで優しくない。優しくないのに、こちらに感情移入の逃げ道も用意しない。観客は「笑えばいいのか」「引けばいいのか」を決めきれないまま、気づいたら終わっている。
この“決めきれなさ”こそ、評価を難しくする芯だと思う。テーマ性があるように見えるのに、主張が綺麗に収束しない。収束しないから、鑑賞後に脳内で勝手に反芻が始まる。私は反芻が始まる映画が嫌いじゃないが、ディズニーでそれをやられると、なんか胃がびっくりする。
3.3 救いがない展開が、笑いを乾かす——フラストレーションが画面から漂う感じ
本作の展開はとことん救いが薄い。トード氏の方は、暴走の勢いで押し切るコメディの顔をしているのに、後味があまり爽快ではない。イカボードの方は、陰鬱さがむしろ主役で、嫌な予感が嫌な形で回収される。
ここで私は、ディズニー作品に対して勝手に抱きがちな「最後に抱きしめてくれるだろう」という期待が、いかにブランド依存かを思い知らされる。抱きしめないディズニーもある。あるのだが、抱きしめないなら抱きしめないで、もう少し“抱きしめない美学”が欲しい。ところが本作の抱きしめなさは、どこか投げっぱなしに見える瞬間がある。
もちろん、投げっぱなしに見える=投げっぱなし、とは限らない。寓話として、共同体の残酷さや、逸脱者のリスクを提示しているのかもしれない。だが、その寓話性を補強する語りが薄いせいで、観客は「ただ嫌な目に遭った人を見た」感覚を持ち帰りやすい。
だからこそ、「当時のディズニー、相当ストレス溜めてたのでは?」みたいな下世話な想像が湧いてしまう。下世話だが、下世話な想像を誘発する時点で、画面の空気が少し荒れている。私はそう感じる。
3.4 それでも“最後”としては強い——オムニバス期の総決算が、皮肉にも一番締まっている
皮肉な話だが、本作はオムニバス期の中では地味に完成度が高い部類に入ると思う。なぜなら、少なくとも「よく分からないまま楽しく終わる」ではなく、「よく分からないまま妙に残る」という形で、鑑賞体験がちゃんとこちらに刺さるからだ。
興行的に振るわなかった、という話が出てくるのも理解できる。家族向けのつもりで観に来た観客に、これを出すのは勇気がいる。勇気がいるが、勇気を出した結果“方向転換を迫られる”のもまた、歴史のあるあるだ。
ディズニー史を追う視点で見るなら、この作品は「詰め合わせ時代の終わり」を一番くっきり刻んでいる。楽しいかどうかは別として、節目としての顔つきがはっきりしている。
そしてここからが本作の意地の悪い魅力で、節目として価値があるのに、観た人間を素直に気持ちよく帰さない。帰さないから記憶に残る。記憶に残るから、結局また語ってしまう。私みたいな人間が一番カモにされるやつだ。
第4章 トード氏の見どころ ストーリーを脇に置いてでも語りたい“腹立つのに憎めない馬”問題
“I can resist everything except temptation.”
「誘惑以外なら何でも抵抗できる。」(Oscar Wilde)
※私は今、馬の表情というくだらない誘惑に完敗している。
4.1 私にとっての主役は馬——あの顔が、最高に腹立つのに最高に良い
極めて個人的な話になるが、『トード氏』の見どころとして真っ先に挙げたいのは、主人公でも暴走でも教訓でもない。登場人物の“馬”だ。
こいつの表情が、最高に腹立つ。目つき、口元、微妙にわざとらしい間。こっちが一言でも言い返したら「え、なに怒ってんの?」って顔をするタイプの腹立たしさ。現実世界にいたら距離を取る。いや、距離を取るどころか、できることなら同じ部署に配属されたくない。
なのに、憎めない。ここが困る。腹立つのに憎めないって、人間関係だと一番やっかいだ。怒りが浄化されずに残る。残った怒りが、次の再生ボタンを押させる。私はこの作品で、まさにそれをやられている。
結局ストーリーなんてそっちのけで、私は今日もあの馬の腹立つ顔を見るためだけに『トード氏』を再生してしまう。私が何をしているのか自分でも分からない。だが分からないまま再生している時点で、もう負けている。
4.2 モーティマーマウス的な“嫌味の黄金比”——ムカつくのに視線を奪う
この腹立つのに憎めない感じ、何に近いかというと、モーティマーマウス的なあの空気だと思う。あいつ、まじでムカつく。ムカつくのに、画面にいると目が行く。
これはキャラクター造形の“嫌味の黄金比”みたいなものだ。
わざとらしい自信
余裕を装う間合い
こちらを下に見るニュアンス
でも決定的に悪党ではない
この配合が上手いと、観客はイライラするのに気になる。気になるから、記憶に残る。記憶に残るから、作品の中で一人勝ちする。
私は普段、映画の話をするとき「テーマが」「構造が」とか偉そうに言いがちだが、この馬の前では全部どうでもよくなる。結局、キャラの“顔と挙動”が勝つ。映画って本当にずるい。ずるいが、ずるさこそが娯楽の本領でもある。
4.3 “憎めなさ”の発動条件——倫理より先に、可笑しさが来る
ディズニーの強みとして何度も出てきた「憎めなさ」は、ここでも発動する。発動の条件はシンプルで、倫理より先に可笑しさが来ることだ。
この馬は、善人でもヒーローでもない。むしろ性格が悪そうに見える。なのに、可笑しい。可笑しいから、視聴者は裁く前に笑ってしまう。笑った瞬間、裁判は終わる。判決は「無罪」。いや、無罪というより「まあいいか」だ。
社会心理学的に言えば、これは感情が認知を上書きする典型でもある。人は「好き/嫌い」を先に決めて、理由は後から作る。私はこの馬を「嫌い」と言いながら、実は好きなのだと思う。嫌いと言うことで、自尊心を守っているだけだ。
腹立つのに憎めないキャラって、観客の心の中に“逃げ道のない居場所”を作る。そこに住み着く。住み着いたら最後、作品そのものの評価とは別に、キャラだけが何年も残る。私はその残り方を、映画の勝ち方だと思っている。
4.4 『トード氏』は、馬のためにある——と言い切りたくなるくらい、記憶の芯を持っていく
もちろん、『トード氏』には暴走コメディとしての見どころもある。スピード感、混乱、周囲の巻き込まれ方。だが私にとっては、馬が全部持っていく。
ここが本作の面白いところで、オムニバス形式の弱点である「全体の一本筋の弱さ」を、こういう“局所の強さ”が埋めてしまう瞬間がある。短編が束ねられた作品は、全体のドラマが薄い代わりに、刺さる部品が突出しやすい。馬はその突出だ。
突出があるから、私は評価に困りながらも、この作品を棚から捨てられない。捨てられないどころか、たまに引っ張り出してしまう。
次は『イカボード』側の見どころ、つまり“陰鬱の面白さ”と“救いのなさが持つ意味”を、私の嫌な確信込みで語っていく。
第5章 イカボードの見どころ “悪いことをした気がしない人”が、救われないまま終わる怖さ
“The world breaks everyone, and afterward many are strong at the broken places.”
「世界は誰もが壊れる。その後、壊れた箇所で強くなる者も多い。」(Ernest Hemingway)
※この話、壊れるところまではやるのに、強くなるところを省略して帰る。
5.1 イカボードはそこまで悪いことをしたのか——私の中で“量刑”が釣り合わない
『イカボード』の一番の引っかかりは、主人公がそこまで悪いことをしたように見えない点にある。
もちろん、好かれない要素はある。おべっかが多い。立ち回りが軽い。なんか変わり者?コミュニティにいると「なんか信用できない」と思われがちなタイプだ。だが、それは“鼻につく”というレベルであって、悲惨な顛末を迎えるほどの大罪には見えない。
ここで私が感じるのは、物語の中の量刑が釣り合っていない感覚だ。犯罪ドラマなら、罪を犯したから罰が来る。神話なら、傲慢だから天罰が来る。寓話なら、怠惰だからしっぺ返しが来る。
ところがイカボードは、せいぜい「いわゆる変なやつ」だったくらいだ。変なやつが変なやつとして扱われるのは、まあ現実でもある。でもこの作品の冷たさは、「変なやつ」への扱いが“当然のもの”として進むところにある。そこに反省も、躊躇も、フォローも薄い。
私はこの薄さにゾッとする。ゾッとするのに、物語は淡々と締まる。淡々と締まるから、後味が悪い。
5.2 救いがないのに、救いのなさが“仕様”みたいに置かれている
この話の意地悪さは、「救いがない」だけではない。「救いのなさが仕様」みたいに置かれているところだ。
普通、救いがない話って、どこかで観客に“救いの欠如を意識させる”仕掛けが入る。例えば、語り手が哀れむとか、別の人物が手を差し伸べようとするとか、あるいは世界の残酷さを告発する視点が入る。
ところが『イカボード』は、その視点が希薄だ。誰も大きく悲しまない。誰も責任を引き受けない。共同体の空気が勝って、空気のまま終わる。
社会心理学でいう「集団同調」や「スケープゴート」の匂いがする。個人の性格や事実より、場の気分が評価を決める。気分が決めた評価は、一度固まるとひっくり返りにくい。ひっくり返らないまま物語が終わる。
この“終わり方の冷たさ”が、本作をディズニーとして観たときの異質さを生んでいる。私はここで、ディズニーに期待してしまう「最後に抱きしめてくれる」は、ただの願望だったと痛感する。
5.3 コミュニティに属さないことのリスク——地域柄や時代性で、重さが変わる
この物語が示しているのは、コミュニティに属さないことのリスクだと思う。属さない、というのは「反社会的」ではなく、「馴染まない」「空気を読めない」「好かれない」という、もっと曖昧なズレのことだ。
この曖昧なズレが、時代や地域によっては致命傷になる。共同体が小さく、価値観が同質で、噂が強い場所ほど、ズレは罰として返ってきやすい。
私はこの話を見ながら、「所属の安心」と「所属の残酷さ」が同じコインの表裏であることを思い出す。所属は守ってくれるが、所属は縛る。縛りから外れた瞬間、守りは消える。
この構造は、アメリカだけの話ではない。日本にもある。むしろ日本の方が“空気”が強い場面も多い。ただ、作品の空気がアメリカの田舎的な共同体の匂いをまとっているせいで、私は勝手に「やっぱりアメリカで暮らすのは無理だ」と確信してしまう。
確信してしまうが、これは半分冗談で、半分本音だ。私は“よそ者”に厳しい空気が苦手だ。苦手だから、この物語が余計に刺さる。
5.4 陰鬱さの見どころ——ディズニーが“怖い話”を普通の顔で置いてくる不意打ち
それでも『イカボード』に見どころがあるとすれば、この陰鬱さそのものだ。ディズニーが“怖い話”を、変に誇張せず、普通の顔で置いてくる。これが不意打ちとして効く。
恐怖って、派手に演出されると身構えられる。でも普通の顔で置かれると、日常の延長として忍び込む。忍び込む恐怖は長く残る。
私はこの話を、子ども向けの寓話として見るのが正しいのか分からない。だが少なくとも、大人が見て「共同体って怖いな」と思うだけの成分はある。
そしてこの成分が、『トード氏』の眩暈と並ぶことで、本作全体の異質さが完成してしまう。笑いと不安が、どちらも乾いたまま並んでいる。
次は締めとして、この作品が“オムニバス期のラスト”としてどういう価値を持つのか、そして興行的失敗が示すものを、歴史の節目として整理して終える。
第6章 オムニバスシリーズの異色作 地味に傑作、でも売れない——だからこそ“節目”になる
“Success is not final, failure is not fatal: it is the courage to continue that counts.”
「成功は最終ではなく、失敗も致命ではない。続ける勇気こそが重要だ。」(Winston Churchill)
6.1 オムニバス期の中では“地味に最高傑作”——完成度が高いのに気持ちよくはならない
本作は、オムニバス形式の作品群の中では最後の一本でありながら、地味に最高傑作と言っていい仕上がりだと思う。ここで言う“最高傑作”はもちろん、ディズニー全体の中での頂点という意味ではない。あくまで「詰め合わせ期」という限定された箱の中で、妙に完成しているという意味だ。
完成している理由はシンプルで、二本とも“気分”がはっきりしているからだ。曖昧に楽しいのではなく、曖昧に嫌だ。曖昧に嫌なのに、物語としての運びは整っている。整っているから、見終わった後に「なんだったんだこれは」で終わらず、「なんだったんだこれは……」と余韻が残る。
娯楽としての快感は薄いが、鑑賞体験としての粘着性は強い。こういう映画は、好き嫌いを超えて記憶に残る。私はこの記憶の残り方を、作品としての“勝ち筋”の一つだと思っている。
ただ、観客の大多数が欲しいのは、この勝ち筋ではない。大多数が欲しいのは、気持ちの良い終わり方だ。だからこの作品は、完成度が高くても売れない。売れないのに残る。残るのに売れない。ここが厄介で、面白い。
6.2 興行的に振るわないのは当然——“家族向け”の顔で出すには胃が重い
興行収入的には失敗、という扱いになるのも理解できる。箱としての売りが分かりにくい。二本立てで、しかも両方とも後味が軽くない。
家族向けのつもりで映画館に来た人が、この二本を食らうとどうなるか。
子ども:怖い、よく分からない
親:気まずい、説明が難しい
ついでに来た恋人:別れ話の導火線になる可能性がある
冗談みたいだが、映画の“後味”は家庭の空気に直結する。だからディズニーの強みである「安心して見られる」が、本作では弱い。弱いなら弱いで、もっと尖って「これは異色作です」と宣言してくれればいいのだが、作品の顔つきはあくまでディズニーのままだ。
この“顔つきと中身のズレ”が、観客の期待を裏切り、裏切りが不快に寄りやすい。結果、ヒットしにくい。私はここに、ブランドの難しさを見る。ブランドが強いほど、外した時の反動も強い。
6.3 ディズニーは方向転換を迫られる——詰め合わせの限界が、ここで露呈する
本作がオムニバス期の最後になるのは偶然ではないと思う。詰め合わせ形式は、制作上の都合としては合理的でも、観客の満足度を安定させにくい。短編の集合体は当たり外れが出るし、一本のドラマの高揚を作りにくい。
そして本作は、その形式の弱点を一番はっきり見せてしまった。
二本とも気分が重い
一本筋の“救い”で持ち上げない
観客が気持ちよく帰れない
これをラストでやってしまった以上、会社としては舵を切らざるを得ない。方向転換を迫られる。
歴史を振り返ると、こういう“うまくいかなかった作品”が、次の時代の起点になることは多い。失敗が学習になる。学習が次の成功の前提になる。
私はこういう流れが好きだ。英雄譚より、失敗から立て直す話の方が人間の現実に近いからだ。ディズニー史も、ずっと英雄譚ではいられない。英雄譚ではない瞬間が、本作には刻まれている。
6.4 だからこそ“見る価値がある”——なんとも言えない気持ちになれる映画は、案外貴重だ
本作は、手放しで勧めにくい。誰にでも刺さる作品ではない。気分が良くなる作品でもない。
それでも、ディズニーの歴史を振り返る上では見る価値がある。理由は明確だ。
オムニバス期の終点としての節目が見える
ブランドと作品内容のズレが露呈する
共同体の残酷さと個人の脆さが、寓話として残る
方向転換の必然が、作品の後味として刻まれている
そして何より、「なんとも言えない気持ち」になれる。
人は、気持ちの良い映画だけでは育たない。嫌な映画や困る映画も、人の中に残って、その人の言葉を増やす。本作はそのタイプの映画だと思う。
ぜひ皆さんも、なんとも言えない気持ちになってほしい。ディズニーでなんとも言えない気持ちになる経験は、案外レアだ。レアだからこそ、記憶に残る。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
語りたい映画なんて尽きることない!
エピソードの公開は毎週or隔週となります。
ご感想は是非 #リルパル #ReelPal でツイートをお願いします。
いただいたツイートは番組の中で取り上げることがあります。
テーマトーク投稿フォームはこちら↓
直接のメッセージを送る場合はこちらまで↓
yomoyamakobanashi@gmail.com
これからも番組をよろしくお願いします。
