【#映画感想文】 ディズニーアニメーション一気に批評 その16 『#ジャングルブック』 名曲に彩られた迷作 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
なお番組の最新エピソードご聴取はこちらよりどうぞ↓
第1章 キプリングの代表作をアニメーション化
――そして、それは実質的にウォルトの遺作となった
ジャングル・ブックは、ディズニー長編アニメーションの中でも、どこか立ち位置が難しい作品だ。
名作と言い切るには引っかかりがあり、駄作と切り捨てるには、あまりにも魅力が多い。
だからこそ私は、この映画を「迷作」と呼びたい。
原作は、イギリス文学を代表する作家 ラドヤード・キプリング による同名短編集。
植民地主義的世界観や自然観を色濃く反映した、決して単純ではない物語群だ。
それを、ディズニーは大胆に、そしてかなり勝手に料理した。
結果として生まれたのが、この軽やかで、陽気で、どこか締まりのないアニメーションである。
1.1 ウォルトが見届けることのなかった最後の作品
本作は1967年公開。
つまり、ウォルト・ディズニー が1966年に亡くなった翌年に世に出た作品だ。
制作には関わっていたものの、完成形を目にすることはなかった。
その意味で本作は、実質的にウォルトの遺作と呼ばれることが多い。
ここが、この映画を語る上でどうしても無視できないポイントになる。
というのも『ジャングル・ブック』は、
それまでのディズニー長編に比べて、驚くほど“軽い”。
重厚なドラマ性も、道徳的なカタルシスも、あまり前に出てこない。
あるのは、キャラクターの掛け合い、歌、動き、そして間。
物語を強く前へ押し出そうという意志が、あまり感じられない。
これを欠点と取るか、
ディズニーが最後にたどり着いた一つの境地と見るかで、
本作の評価は大きく変わる。
1.2 原作を「忠実にやらない」という英断
ディズニーは、キプリング原作をそのままアニメ化しようとはしなかった。
というより、意図的に距離を取っている。
原作にある厳しさ、
自然界の掟、
人間と獣の越えられない境界線。
そうした要素は、かなり薄められている。
代わりに前面に出てくるのは、
動物たちのキャラクター性と、コメディとしてのテンポだ。
この判断は、当時かなり割り切ったものだったはずだ。
なぜなら、原作をそのままやれば、
子ども向け娯楽作品にはなり得なかったからだ。
ディズニーはここで、
「文学作品をどう翻案するか」ではなく、
「アニメーションとして何が一番楽しいか」を優先している。
この姿勢は、後年のディズニー作品にも通じる。
原作尊重よりも、映画としての快楽。
これは功罪両面あるが、
少なくとも本作においては、はっきりとした方向性として貫かれている。
1.3 物語よりも、ショーへ
『ジャングル・ブック』を観ていると、
しばしば「話が進んでいないのでは?」という感覚に襲われる。
だがそれは、作り手が物語よりも別のものを重視しているからだ。
この映画は、物語ではなく、
アニメーション・ショーとして設計されている。
一体一体の動物が現れ、
歌い、踊り、去っていく。
まるで舞台の出し物を次々と見せられているような構成だ。
これは、ウォルトが生涯愛した「ショービジネス」の感覚そのものだろう。
ディズニーランド的、と言ってもいい。
ストーリーは案内役であり、
主役は体験だ。
この割り切りがあるからこそ、
『ジャングル・ブック』は今観ても、
どこか古びない瞬間を持っている。
同時に、
だからこそ「物足りない」と感じる人がいるのも、極めて正直な反応だ。
第2章 あらすじ
――進んでいるようで、どこにも向かわない旅
物語の主人公は、人間の子どもモーグリ。
赤ん坊の頃にジャングルへ迷い込み、オオカミに育てられた少年だ。
人間社会ではなく、獣たちの世界で成長した彼は、
そのどちらにも完全には属していない。
だが、ジャングルに異変が訪れる。
人間を憎む虎シア・カーンが戻ってくるのだ。
彼にとって、モーグリは許容できない存在であり、
少年は安全のために「人間の村」へ返されることになる。
ここまで聞けば、
これは「帰るべき場所を探す成長譚」に見える。
実際、多くの物語はその構造を取る。
だが、ジャングル・ブックは、
その期待を、あっさり裏切る。
2.1 目的はあるが、切実さがない
モーグリの旅には、形式上の目的がある。
人間の村へ行くこと。
しかし、その目的は終始どこか曖昧だ。
モーグリ自身は、人間社会に戻りたいとは思っていない。
かといって、ジャングルに強く執着しているわけでもない。
彼はただ、流されている。
案内役の黒豹バギーラは真面目で理知的だが、
彼自身もどこか疲れている。
義務感で少年を連れて行っているだけで、
「こうあるべきだ」という理念が、強く語られることはない。
この時点で、物語の推進力はかなり弱い。
だが、それは失敗というより、
最初からそこを重視していないという印象を受ける。
2.2 出会いはすべて寄り道である
旅の途中、モーグリはさまざまな動物と出会う。
陽気な熊バルー、怪しげな蛇カー、
ジャズに酔った猿キング・ルーイ、
そして恐怖の象徴であるシア・カーン。
だが、これらの出会いは、
物語を前進させるためというより、
ショーとして配置されている。
誰かと出会い、
歌い、
軽くトラブルが起き、
気がつくと次の場面へ移っている。
連続性はあるが、因果関係は薄い。
積み上がっていくというより、横に広がっていく構成だ。
この作りは、後年の物語重視型アニメに慣れた目で見ると、
どうしても「ダレ」を感じさせる。
中盤が緩い、と言われる理由もここにある。
2.3 葛藤なき主人公という異質さ
モーグリは、あまり悩まない。
自分の境遇について、深く苦しむ場面はほとんどない。
人間でも獣でもないというアイデンティティの問題は、
真正面から掘り下げられない。
ここは、原作との大きな違いでもある。
原作のモーグリは、もっと過酷な立場に置かれている。
だが、アニメ版はそれを徹底的に軽くする。
その結果、
「人間社会とジャングルの狭間で孤独に苦悩する少年」
という図式は、ほぼ成立しない。
この割り切りが、
作品を観やすくし、
同時に、深みに欠ける印象も与える。
2.4 唐突な恋と、唐突な終わり
物語の終盤、
モーグリは人間の村で一人の少女と出会う。
そこで、ほとんど説明もなく、
彼は人間社会に留まることを選ぶ。
この展開は、今観るとかなり急だ。
積み重ねも、葛藤も、十分とは言い難い。
だが、ここにも作り手の意図が透けて見える。
この物語は、選択の重さを描きたいのではない。
場面の切り替えとしてのエンディングを求めている。
だから終わりは、あっさりしている。
余韻よりも、幕引き。
納得よりも、区切り。
この潔さが好きだという人もいれば、
肩透かしを食らったと感じる人もいるだろう。
どちらも正しい。
『ジャングル・ブック』のあらすじは、
物語として強固ではない。
だがその代わり、
アニメーションという表現媒体に、
別の重心を置いている。
第3章 音楽が凄まじい
――物語が迷っても、旋律だけは迷わない
3.1 この映画は、まず耳に残る
正直に言おう。
『ジャングル・ブック』を思い出すとき、私たちは物語を反芻しているだろうか。
否。
真っ先に脳内で再生されるのは、音楽だ。
歩くリズム。
体が勝手に揺れるテンポ。
意味もなく口ずさめてしまう旋律。
本作において、音楽は装飾ではない。
骨格そのものだ。
もしこの映画から音楽を引き算したら、
残るのは、かなり頼りないロードムービーである。
だが、音楽がある限り、この映画は立っていられる。
むしろ、音楽があるからこそ、物語の緩さが許容される。
3.2 「The Bare Necessities」という思想
まず外せないのが
The Bare Necessities。
これは名曲だ。
疑いようがない。
なんとなく日曜日に聴きたくなる。
いや、むしろ、
「やらなきゃいけないことに追われている平日」にこそ効く。
最低限でいい。
気にしすぎるな。
肩の力を抜け。
歌詞もメロディも、徹底して楽天的だ。
だが、安っぽくない。
なぜなら、これは怠惰の肯定ではなく、
過剰な文明への距離の取り方を示しているからだ。
哲学者ヘンリー・デイヴィッド・ソローはこう書いた。
“Our life is frittered away by detail.”
「我々の人生は、些事によってすり減らされている」
バルーの歌うこの曲は、
この思想を、説教抜きで、
体に染み込ませてくる。
だからこの曲は、
子ども向けでありながら、
大人にこそ刺さる。
3.3 陽気すぎて、どこか怖い「I Wan’na Be Like You」
もう一曲、絶対に外せないのが
I Wan’na Be Like Youだ。
圧倒的な歌唱。
跳ねるビート。
止まらない高揚感。
観ているこちらのテンションも、
一気に持っていかれる。
だが、この曲は、明るいだけではない。
どこか怖い。
キング・ルーイは、陽気で魅力的だ。
だが同時に、
今にもこちらを飲み込みそうな圧がある。
文明を欲しがる猿。
火を手に入れ、人間になろうとする存在。
これは単なるギャグではない。
模倣への渇望、
力への欲望、
境界を越えたい衝動。
音楽は楽しい。
だが、歌詞の奥には、
「なってはいけないものになりたい」という危うさがある。
この二重構造が、
この曲を単なるショーナンバーで終わらせない。
3.4 音楽が感情のハンドルを握っている
『ジャングル・ブック』では、
感情の流れを制御しているのは、脚本ではない。
音楽だ。
シーンが唐突でも、
動機が薄くても、
歌が始まれば、観客は納得してしまう。
これは、かなり力技だ。
だが、アニメーションというメディアにおいて、
この力技は正しい。
ミュージカル的構造では、
論理よりも感情が優先される。
『ジャングル・ブック』は、
それを極端な形で実践している。
だから、物語を期待して観ると、
肩透かしを食らう。
だが、音と動きの快楽に身を委ねれば、
この映画は途端に輝き出す。
本作を支えている柱は、間違いなく音楽だ。
そしてそれは、
「名曲があるから許されている」のではない。
名曲があること自体が、この映画の存在理由なのだ。
第4章 モーグリの挙動
――「意味のない動き」を描けるという異常さ
4.1 なぜモーグリの動きは目に引っかかるのか
ジャングル・ブックを観ていて、
強烈なアクションシーンがあるわけでもないのに、
なぜかモーグリの存在感が残る。
その理由は、彼の挙動にある。
特別な芝居をしているわけではない。
感情を誇張したポーズを取るわけでもない。
むしろ逆だ。
・何もやることがないときに、なんとなく腕を振る
・目的もなく、体重を左右に移しながら歩く
・座ったかと思えば、すぐ姿勢を崩す
こうした動きは、物語的にはまったく意味がない。
だが、人間としては極めてリアルだ。
アニメーションは本来、「意味のある動き」を描くのが得意な表現だ。
怒る、走る、殴る、驚く。
目的と結果がはっきりした動作ほど、描写は簡単になる。
だが、モーグリの動きは違う。
何のためでもない動きが、延々と積み重なっている。
4.2 子どもは「合理的に動かない」
ここで描かれているのは、理想化された子どもではない。
ましてや、物語を前に進めるための駒でもない。
ただの、未成熟な身体だ。
子どもは、合理的に動かない。
最短距離を選ばない。
目的よりも、衝動が先に出る。
この「無駄」の塊のような身体感覚を、
ここまで正確に、しかも嫌味なく描写できているアニメーションは、
当時ほぼ存在しなかった。
いや、正直に言えば、
現代を含めても、ほとんど見当たらない。
意味のある芝居は、演出できる。
だが、意味のない挙動は、観察しなければ描けない。
4.3 生命感は、情報量の多さから生まれる
モーグリの動きには、常に余白がある。
一つの行動が終わっても、
次の行動へと即座に移行しない。
この「間」が、生命感を生む。
哲学者アンリ・ベルクソンは、生命をこう定義した。
“Life is not a thing, but a tendency.”
「生命とは物ではなく、傾向である」
モーグリの挙動は、
完成されたキャラクターの動きではなく、
成長途中の傾向として描かれている。
だから、予測できない。
だから、目が離せない。
これは、技術力だけでは到達できない領域だ。
人間をどれだけ見てきたか、
子どもの時間をどれだけ理解しているか、
その総量が、そのまま画面に滲み出ている。
4.4 物語が弱くても、身体は嘘をつかない
『ジャングル・ブック』は、
物語構造としては正直、かなり緩い。
展開も唐突だし、感情の積み重ねも薄い。
だが、モーグリの身体だけは、最後まで嘘をつかない。
彼は、成長を語られない。
内面を説明されない。
だが、**動きだけで「子どもであること」**を示し続ける。
これは、アニメーションが最も誠実である瞬間だと思う。
言葉で説明しない。
物語で押し切らない。
ただ、動かす。
その結果、観客は無意識のうちに納得してしまう。
この少年は、本当にここにいる、と。
この一点だけでも、
『ジャングル・ブック』は、
アニメーション史の中で無視できない位置に立っている。
第5章 テンポの悪さ
――なぜ、この映画は「間延び」して見えるのか
5.1 今観ると、正直ダレる
これは擁護しない。
今の感覚で観返すと、『ジャングル・ブック』はどうしてもテンポが悪い。
中盤が長い。
目的が定まらない。
緊張感が持続しない。
「人間の村へ行かなければならない」という設定はあるが、
その切迫感が画面からはほとんど伝わってこない。
命の危険があるはずなのに、空気は終始のんびりしている。
この違和感は、現代の物語構造に慣れた目で見るほど強くなる。
5.2 旅なのに、進んでいないという感覚
ロードムービーの基本は、
移動することで状況が変わり、
主人公の内面も変化していく、という点にある。
だが、ジャングル・ブックでは、
移動しても、あまり何も変わらない。
モーグリは出会いを重ねるが、
性格が大きく変わるわけでもない。
価値観が揺さぶられることも少ない。
結果として、観客はこう感じる。
「話、進んでる?」
これは脚本の弱さでもあるが、
同時に、成長物語を本気で描く気がなかったことの表れでもある。
5.3 対立構造が弱いという問題
物語の軸となるはずの対立、
「人間社会」対「ジャングル」という構図も、かなり曖昧だ。
モーグリは人間社会を強く拒絶していない。
ジャングルに強くしがみついているわけでもない。
そのため、
「どちらを選ぶのか」という葛藤が生まれない。
シア・カーンは恐ろしい存在だが、
物語全体を支配するほどの圧力はかけてこない。
要所要所で現れるものの、
長期的な緊張を維持する敵ではない。
この結果、映画全体のテンポは、
どうしても平坦になる。
5.4 それでも成立してしまう理由
では、このテンポの悪さは致命的か。
私は、そうは思わない。
なぜなら、この映画は
物語で引っ張ろうとしていないからだ。
引っ張っているのは、
・音楽
・キャラクターの動き
・ショーとしての見せ場
一つ一つの場面は強い。
場面同士の接続が弱いだけだ。
これは、テーマパーク型の構成と言っていい。
次のアトラクションへ移動している間が長いが、
着いた先では必ず楽しませる。
テンポの悪さは、
その構造の副作用にすぎない。
5.5 「これでよかったのか?」という正直な感想
それでも、やはり疑問は残る。
これでよかったのだろうか、と。
唐突な恋。
唐突なエンディング。
積み重ねられなかった感情。
物語としての完成度を求めれば、
首を傾げたくなる部分は多い。
だが同時に、
もしここで無理にドラマ性を盛っていたら、
この映画の軽やかさは失われていただろう。
迷作と呼びたくなる理由は、まさにここにある。
欠点が、そのまま個性になっている。
第6章 動物ショー
――物語が弱くても、アニメーションは裏切らない
6.1 この映画は「動物を見る映画」だ
ここまで読んでくれた人には、もうはっきりしていると思う。
『ジャングル・ブック』は、物語を期待して観る作品ではない。
では何を見る映画なのか。
答えは単純だ。
動物を見る映画である。
ジャングル・ブックに登場する動物たちは、
単なるマスコットでも、記号的キャラクターでもない。
一体一体が、主役級の存在感を持って画面に立っている。
熊、豹、猿、蛇、象、虎。
種類も性格も、リズムもまるで違う。
それぞれが「自分の映画」を一瞬ずつ持っていく。
これは、ストーリー主導型のアニメーションでは、なかなかできない芸当だ。
6.2 骨格とデフォルメの絶妙なバランス
本作の動物表現がすごいのは、
リアルと誇張の配分が、異様にうまいところにある。
骨格や重心は、一定程度リアルに押さえている。
だから、歩き方や立ち方に説得力がある。
だが、その上で大胆にデフォルメする。
表情は豊か。
身振りは人間的。
しかし、完全に人間にはならない。
このバランス感覚は、
スタジオ全体に蓄積された観察量の賜物だろう。
動物を「かわいくする」だけなら簡単だ。
だが、生き物として成立させたまま、コミカルにするのは難しい。
ここに、ディズニー手描きアニメーションの底力がある。
6.3 ストーリーを超えて残るもの
結果として、この映画は奇妙な後味を残す。
話の筋は、正直あまり思い出せない。
だが、シーンは残る。
バルーの歩き方。
キング・ルーイの歌い出し。
シア・カーンの低い視線。
象の群れの重量感。
それらは、物語の流れとは独立して、
記憶の中に沈殿している。
これは、映画としてはかなり特殊なあり方だ。
だが、アニメーションとしては、極めて健全でもある。
物語は時代とともに古びる。
だが、動きの快楽は、なかなか風化しない。
6.4 「見る価値がない」わけでは、決してない
テンポが悪い。
構成は緩い。
エンディングは唐突。
それでも、
『ジャングル・ブック』は、
「観る価値がない映画」では決してない。
むしろ逆だ。
ストーリー至上主義に慣れきった今だからこそ、
この映画の異質さは際立つ。
物語がすべてではない。
感情の説明がなくても、
キャラクターは生きられる。
ディズニー手描きアニメーションが到達した、
一つの極端な地点が、ここにある。
6.5 だから私は、この映画を「迷作」と呼ぶ
名作か、と聞かれれば、即答はできない。
欠点は多い。
構造的にも、完成度が高いとは言えない。
だが、忘れがたい。
何度も思い出してしまう。
名曲があり、
異様にリアルな子どもの動きがあり、
生き生きとした動物たちがいる。
それだけで、映画は成立してしまうのか。
この作品は、その問いを突きつけてくる。
だから私は、
『ジャングル・ブック』を、
名曲に彩られた迷作と呼びたい。
整理されていない。
だが、確かに輝いている。
その輝きは、今なお消えていない。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
語りたい映画なんて尽きることない!
エピソードの公開は毎週or隔週となります。
ご感想は是非 #リルパル #ReelPal でツイートをお願いします。
いただいたツイートは番組の中で取り上げることがあります。
テーマトーク投稿フォームはこちら↓
直接のメッセージを送る場合はこちらまで↓
yomoyamakobanashi@gmail.com
これからも番組をよろしくお願いします。
