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【#映画感想文】 #ホラー映画『#聖なる鹿殺し』――罪を許すための最低条件 【#Podcast エピソード紹介】

Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。

毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。

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【#映画感想文】映画『#聖なる鹿殺し』――罪を許すための最低条件【#Podcast エピソード紹介】

第0章 ヨルゴス・ランティモスという「異端者」――不穏が支配する映画空間

0.1 2017年、カンヌが震えた夜

2017年5月22日。第70回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で、ある映画が上映された。『聖なる鹿殺し(原題:The Killing of a Sacred Deer)』。監督は、ヨルゴス・ランティモス。ギリシャ出身の鬼才だ。

上映後、劇場は静まり返った。拍手は起きた。しかし、その拍手は「賛辞」というより「困惑」に近かった。観客は、何を見せられたのか理解できなかった。いや、理解はできた。しかし、受け入れられなかった。

本作は、最優秀脚本賞を受賞した。脚本を担当したのは、ランティモス本人とエフティミス・フィリップ。彼らは、古代ギリシャ悲劇『アウリスのイピゲネイア』を現代のアメリカに移植した。心臓外科医の家族が、謎の少年によって呪われる。家族を救うために、父は一人を犠牲にしなければならない。

主演は、コリン・ファレル。心臓外科医スティーヴン・マーフィーを演じた。共演は、ニコール・キッドマン(妻アンナ)、バリー・コーガン(謎の少年マーティン)、ラフィー・キャシディ(娘キム)、サニー・スリッチ(息子ボブ)。

本作は、ホラー映画だ。しかし、お化けは出ない。ただ、不穏な空気が画面を支配する。その不穏さが、観客を締め上げる。息ができなくなる。そして、最後に、観客は問われる。「あなたなら、誰を選ぶのか」と。

0.2 ランティモスという「様式」――感情を排除した冷たい世界

ヨルゴス・ランティモスの映画は、独特だ。まず、俳優の演技が不自然だ。彼らは、感情を表に出さない。淡々と、機械的に、台詞を話す。これは、意図的だ。ランティモスは、「感情の排除」を演出の核にしている。

『ロブスター』(2015年)では、独身者が動物に変えられる世界が描かれた。『女王陛下のお気に入り』(2018年)では、18世紀イギリス宮廷の権力闘争が描かれた。『哀れなるものたち』(2023年)では、死んだ女性が蘇生され、新しい人生を歩む。

すべてに共通するのは、「様式化された不自然さ」だ。現実を模倣するのではなく、現実を歪めて提示する。この歪みが、観客を不安にさせる。なぜなら、人間は「自然さ」を求めるからだ。不自然さは、本能的に危険信号として認識される。

そして、『聖なる鹿殺し』は、この様式の極北だ。登場人物は、誰も感情を見せない。会話は、どこか噛み合わない。カメラは、異様なアングルで人物を捉える。音楽は、不協和音で不安を煽る。すべてが、「普通」から逸脱している。

0.3 私が本作を選んだ理由――「許し」という不可能性

私が『聖なる鹿殺し』を選んだのは、この映画が「許し」について語っているからだ。いや、正確には、「許しの不可能性」について語っている。

スティーヴンは、過去に過失で患者を死なせた。その患者は、マーティンの父だった。マーティンは、スティーヴンに復讐する。しかし、マーティンは暴力を使わない。ただ、「呪い」をかける。スティーヴンの家族は、次々と麻痺し、食事を拒否し、目から血を流し、死に向かう。そして、マーティンは言う。「一人を殺せば、残りは助かる」と。

ここで問われるのは、「許し」だ。スティーヴンは、マーティンに許しを請う。しかし、マーティンは許さない。なぜなら、許すための「最低条件」が満たされていないからだ。

その最低条件とは何か。それが、本作のテーマだ。そして、それは同時に、私たち観客への問いでもある。「あなたは、どうやって許すのか」と。

"An eye for an eye only ends up making the whole world blind."
(目には目をでは、世界中が盲目になるだけだ。)
―― マハトマ・ガンディー

第1章 古代ギリシャ悲劇の亡霊――『アウリスのイピゲネイア』という原型

1.1 エウリピデスが描いた「犠牲」の物語

『聖なる鹿殺し』の原型は、古代ギリシャ悲劇『アウリスのイピゲネイア』だ。紀元前5世紀、劇作家エウリピデスによって書かれた。

物語はこうだ。トロイア戦争に向かうギリシャ軍の総大将アガメムノンは、狩りで女神アルテミスの聖なる鹿を殺してしまう。怒ったアルテミスは、風を止める。ギリシャ軍の船は、出航できなくなる。

預言者は告げる。「娘イピゲネイアを生贄に捧げよ。そうすれば、風は吹く」と。アガメムノンは苦悩する。娘を殺すべきか。戦争を諦めるべきか。そして、最後に、彼は娘を祭壇に連れていく。

この物語の核心は、「不可能な選択」だ。どちらを選んでも、何かを失う。娘を殺せば、父としての愛を裏切る。戦争を諦めれば、総大将としての責任を放棄する。つまり、正解はない。

そして、『聖なる鹿殺し』も、まったく同じ構造を持っている。スティーヴンは、家族の一人を殺さなければならない。妻を殺すべきか。娘を殺すべきか。息子を殺すべきか。正解はない。どの選択も、地獄だ。

1.2 神話から現代へ――「呪い」から「病」への翻訳

ランティモスは、この神話を現代に翻訳した。女神アルテミスは、謎の少年マーティンになった。聖なる鹿は、マーティンの父になった。そして、生贄の儀式は、家族の麻痺と死になった。

ここで重要なのは、ランティモスが「超自然」を「自然」に偽装していることだ。マーティンの呪いは、医学的には説明できない。しかし、映画は、それを「病」として描く。麻痺、食欲不振、出血。これらは、すべて医学的な症状だ。だから、観客は混乱する。これは、本当に呪いなのか。それとも、心因性の病なのか。

この曖昧さが、不気味さを生む。超自然現象なら、観客は「ファンタジー」として受け入れられる。しかし、本作は、現実と幻想の境界を曖昧にする。だから、観客は不安になる。

精神分析学者ジークムント・フロイトは、「不気味なもの(Das Unheimliche)」の概念を提唱した。不気味なものとは、「馴染みがあるはずなのに、奇妙に感じるもの」だ。例えば、人形。人形は人間に似ている。しかし、人間ではない。この「似ているが違う」という感覚が、不気味さを生む。

『聖なる鹿殺し』も、同じ構造だ。病院、家、学校。すべて馴染みのある場所だ。しかし、そこで起きることは、馴染みがない。この「馴染みがあるはずなのに、奇妙」という感覚が、観客を締め上げる。

1.3 悲劇の本質――「選択の不可能性」と「罰の必然性」

ギリシャ悲劇の本質は、「選択の不可能性」と「罰の必然性」だ。主人公は、選択を迫られる。しかし、どの選択も、破滅に繋がる。そして、一度選択してしまえば、罰は必然的に訪れる。

哲学者アリストテレスは、『詩学』で、悲劇の構造を分析した。アリストテレスによれば、悲劇の主人公は「ハマルティア(過ち)」を犯す。この過ちは、意図的ではない。無知、傲慢、運命。様々な要因が重なって、主人公は過ちを犯す。そして、その過ちが、破滅を引き起こす。

スティーヴンのハマルティアは、手術ミスだ。彼は、酔っていた。だから、患者を死なせた。これは、意図的な殺人ではない。しかし、過失だ。そして、この過失が、すべての破滅を引き起こす。

ここで重要なのは、スティーヴンが「悪人」ではないことだ。彼は、優秀な医者だ。家族を愛している。ただ、一度だけ、過ちを犯した。しかし、その一度が、すべてを壊す。これが、悲劇の残酷さだ。

"Tragedy is when I cut my finger. Comedy is when you fall into an open sewer and die."
(悲劇とは、私が指を切ることだ。喜劇とは、あなたが下水道に落ちて死ぬことだ。)
―― メル・ブルックス

第2章 マーティンという「天使」――無表情な復讐者の正体

2.1 バリー・コーガンの異様な存在感――感情を見せない怪物

マーティンを演じたバリー・コーガンは、本作で一躍注目された。その後、『ダンケルク』(2017年)、『アメリカン・アニマルズ』(2018年)、『バットマン』(2022年)、『バンシーズ・オブ・イニシェリン』(2022年)に出演し、第96回アカデミー賞では主演男優賞にノミネートされた。

しかし、マーティン役ほど不気味な演技は、他にない。コーガンは、ほとんど表情を変えない。淡々と、機械的に、台詞を話す。笑わない。怒らない。泣かない。ただ、じっと見つめる。この無表情が、恐ろしい。

なぜ無表情が恐ろしいのか。それは、人間のコミュニケーションが、表情に依存しているからだ。私たちは、相手の表情を読み取って、感情を推測する。笑顔なら、友好的だ。怒り顔なら、敵対的だ。しかし、無表情なら、何も読み取れない。だから、不安になる。

心理学者ポール・エクマンは、「基本感情」の理論を提唱した。エクマンによれば、人間には6つの基本感情がある。喜び、悲しみ、怒り、恐怖、嫌悪、驚き。そして、これらの感情は、普遍的な表情で表現される。どの文化でも、笑顔は喜びを示す。

しかし、マーティンは、この基本感情を表現しない。だから、彼は「人間ではない」ように見える。悪魔なのか。天使なのか。それとも、ただの少年なのか。観客は、判断できない。

2.2 復讐か、正義か――マーティンの動機の曖昧さ

マーティンは、なぜスティーヴンを呪うのか。復讐か。正義か。それとも、単なる狂気か。映画は、明確な答えを示さない。

マーティンは、スティーヴンに言う。「あなたは、私の父を殺した。だから、あなたの家族を殺す」と。これは、復讐の論理だ。旧約聖書の「目には目を、歯には歯を」。タリオの法則だ。

しかし、マーティンの行動は、単なる復讐ではない。彼は、スティーヴンに「選択」を与える。一人を殺せば、残りは助かる。これは、ある意味で「慈悲」だ。全員を殺すこともできたはずだ。しかし、マーティンは、そうしない。

では、これは「正義」なのか。マーティンは、スティーヴンに罰を与えている。しかし、その罰は、公正なのか。スティーヴンの過失は、確かに重大だ。しかし、家族には何の罪もない。なぜ、彼らが苦しまなければならないのか。

ここで、マーティンの論理が明らかになる。彼にとって、家族は「等価」なのだ。マーティンは、父を失った。だから、スティーヴンも、家族を失うべきだ。これは、復讐の論理であり、同時に、歪んだ正義の論理でもある。

2.3 天使としてのマーティン――無慈悲な神の代理人

私は、マーティンを「天使」と呼びたい。天使は、神の使者だ。神の意志を実行する。しかし、天使には、慈悲がない。なぜなら、天使は、人間ではないからだ。

旧約聖書には、多くの天使が登場する。そして、彼らは、しばしば恐ろしい。例えば、ソドムとゴモラを滅ぼした天使。エジプトの初子を殺した天使。彼らは、神の命令を淡々と実行する。人間の感情など、考慮しない。

マーティンも、同じだ。彼は、感情を持たない。ただ、「正義」を実行する。スティーヴンが過ちを犯した。だから、罰が必要だ。それだけだ。

宗教学者ルドルフ・オットーは、『聖なるもの』で、「ヌミノーゼ(聖なるもの)」の概念を提唱した。オットーによれば、聖なるものは、畏怖と魅惑の両方を引き起こす。神は、美しく、恐ろしい。近づきたいが、同時に、恐れる。

マーティンもまた、ヌミノーゼだ。彼は、美しい少年だ。しかし、恐ろしい。スティーヴンは、彼に近づきたい。なぜなら、彼が呪いを解く鍵だからだ。しかし、同時に、恐れる。なぜなら、彼が破滅をもたらすからだ。

"The angel of the Lord encamps around those who fear him, and he delivers them."
(主の天使は、主を畏れる者の周りに陣を敷き、彼らを救い出される。)
―― 詩篇34:7

第3章 家族という「牢獄」――愛の不在と支配の構造

3.1 スティーヴンとアンナ――冷たい夫婦関係

スティーヴンとアンナの関係は、冷たい。彼らは、夫婦だ。しかし、愛し合っているようには見えない。会話は、事務的だ。身体的接触は、機械的だ。

映画の冒頭、スティーヴンとアンナは、性的なロールプレイをする。アンナは、麻酔をかけられた患者のふりをする。スティーヴンは、彼女を手術するふりをする。そして、性行為に及ぶ。

このシーンは、非常に不気味だ。なぜなら、ここには「愛」がないからだ。あるのは、「支配」と「服従」だ。スティーヴンは、アンナを支配する。アンナは、それに従う。これは、愛ではなく、権力関係だ。

社会学者ミシェル・フーコーは、『性の歴史』で、権力と性の関係を分析した。フーコーによれば、性は、権力の道具だ。支配する者は、性を通じて、相手を従属させる。

スティーヴンとアンナの関係も、この権力関係だ。スティーヴンは、医者だ。成功している。金を稼いでいる。つまり、家族の支配者だ。アンナは、眼科医だが、スティーヴンほど成功していない。だから、従属する。

そして、この冷たい関係が、後の悲劇を準備する。なぜなら、愛のない家族は、危機に対処できないからだ。

3.2 子どもたちの無個性――人形のような存在

娘キムと息子ボブも、奇妙だ。彼らは、子どもらしくない。感情を表に出さない。親に反抗しない。ただ、淡々と、指示に従う。

特に、キムは不気味だ。彼女は、マーティンに誘惑される。しかし、その誘惑は、恋愛ではない。むしろ、取引だ。キムは、マーティンに自分の身体を提供する。しかし、マーティンは拒否する。

このシーンは、非常に不快だ。なぜなら、キムは、自分を「商品」として扱っているからだ。彼女は、自分の身体に価値があると信じている。そして、その価値を交換しようとする。これは、資本主義の論理だ。すべてが、商品になる。身体も、愛も、家族も。

哲学者ジャン・ボードリヤールは、『消費社会の神話と構造』で、現代社会を「消費」の論理で分析した。ボードリヤールによれば、現代では、すべてが記号化され、消費される。人間関係も、記号の交換になる。

キムとマーティンの関係も、この記号の交換だ。キムは、身体という記号を提供する。マーティンは、呪いの解除という記号を提供する(はずだった)。しかし、交換は成立しない。なぜなら、マーティンは、資本主義の論理に従わないからだ。

3.3 家族という「システム」の崩壊――愛のない共同体の脆さ

スティーヴン一家は、家族ではない。システムだ。父は、支配者。母は、従属者。子どもは、部品。そして、このシステムは、効率的に機能している。しかし、愛はない。

心理学者マレー・ボーウェンは、「家族システム理論」を提唱した。ボーウェンによれば、家族は一つのシステムだ。そして、各メンバーは、システムの中で役割を果たす。しかし、システムが硬直化すると、家族は機能不全に陥る。

スティーヴン一家のシステムは、硬直化している。各メンバーは、役割を演じている。しかし、役割の外の感情は、抑圧されている。だから、危機が訪れたとき、システムは崩壊する。

マーティンの呪いは、このシステムの崩壊を加速させる。子どもたちが麻痺すると、システムは機能しなくなる。スティーヴンは、支配者として、解決策を見つけなければならない。しかし、見つけられない。なぜなら、彼は、家族を「愛」ではなく「支配」で動かしていたからだ。

そして、最後に、スティーヴンは気づく。このシステムは、誰も救わない。ただ、崩壊するだけだ。

"The family is the first essential cell of human society."
(家族は、人間社会の最初の本質的な細胞である。)
―― 教皇ヨハネ23世

第4章 「選択」という拷問――ロシアンルーレットの倫理学

4.1 誰を殺すべきか――功利主義の地獄

スティーヴンは、家族の一人を殺さなければならない。妻か。娘か。息子か。これは、不可能な選択だ。しかし、選択しなければ、全員が死ぬ。

ここで、倫理学の古典的な問題が浮上する。「トロッコ問題」だ。暴走するトロッコがある。このまま進めば、5人が轢かれる。しかし、レバーを引けば、トロッコは別の線路に行く。そこには、1人しかいない。あなたは、レバーを引くべきか。

功利主義の答えは、明確だ。レバーを引け。なぜなら、5人の命より、1人の命のほうが「犠牲が少ない」からだ。功利主義の原理は、「最大多数の最大幸福」だ。つまり、犠牲を最小化せよ。

しかし、スティーヴンの問題は、トロッコ問題より複雑だ。なぜなら、「犠牲が少ない」選択肢がないからだ。妻を殺せば、2人の子どもが母を失う。娘を殺せば、まだ若い命を奪う。息子を殺せば、同じだ。どの選択も、等しく悲惨だ。

哲学者ジョン・スチュアート・ミルは、『功利主義論』で、功利主義を擁護した。ミルによれば、快楽には「質」がある。高級な快楽(知的、道徳的)は、低級な快楽(肉体的)より価値がある。

しかし、スティーヴンの選択に、「質」の差はない。妻の命も、娘の命も、息子の命も、等しく価値がある。だから、功利主義は、ここでは機能しない。

4.2 義務論の無力――カントが答えられない問いかけ

では、義務論はどうか。哲学者イマヌエル・カントは、『道徳形而上学の基礎づけ』で、「定言命法」を提唱した。カントによれば、道徳的行為は、「普遍的法則」に従うべきだ。つまり、「もしすべての人が同じことをしたら、どうなるか」を考えよ。

カントの有名な例は、嘘だ。嘘をつくべきではない。なぜなら、もしすべての人が嘘をついたら、誰も信用できなくなるからだ。だから、嘘は、普遍的法則に反する。

しかし、スティーヴンの問題に、カントは答えられない。「もしすべての人が家族の一人を殺したら、どうなるか」。この問いは、無意味だ。なぜなら、これは、普遍的な状況ではないからだ。

カント倫理学のもう一つの原則は、「人間を手段として扱うな、常に目的として扱え」だ。つまり、人間を道具として使うな。

しかし、スティーヴンの選択は、必然的に、誰かを「手段」にする。一人を殺すことで、他の二人を救う。つまり、殺される者は、「他者を救うための手段」になる。これは、カント倫理学に反する。

つまり、義務論も、ここでは無力だ。

4.3 ロシアンルーレット――「運命」に委ねる卑怯さと誠実さ

スティーヴンは、最後に、ロシアンルーレットを選ぶ。彼は、家族全員を袋で目隠しする。そして、ライフルを手に取る。一発だけ弾を込める。そして、無作為に撃つ。

最初は、妻を撃つ。空砲だ。次に、娘を撃つ。空砲だ。次に、息子を撃つ。実弾だ。息子は、死ぬ。

このシーンは、悲惨だ。しかし、同時に、奇妙な「公正さ」がある。スティーヴンは、選択しなかった。運命に委ねた。つまり、誰も「選ばれた」わけではない。ただ、「偶然」が決めた。

これは、卑怯なのか。それとも、誠実なのか。

卑怯だという見方もできる。スティーヴンは、責任を放棄した。選択を、「運」に押し付けた。だから、彼は、後ろめたさを感じなくて済む。「私が選んだのではない。運が選んだのだ」と。

しかし、誠実だという見方もできる。スティーヴンは、誰も差別しなかった。妻、娘、息子。すべて、等しく扱った。誰かを「より価値がある」と判断しなかった。これは、ある意味で、究極の公正さだ。

哲学者ジョン・ロールズは、『正義論』で、「無知のヴェール」の概念を提唱した。ロールズによれば、公正な社会を設計するには、自分の立場を知らない状態で考えるべきだ。金持ちか、貧乏か。白人か、黒人か。男か、女か。これらを知らない状態で、社会のルールを決める。

スティーヴンのロシアンルーレットは、ある意味で、「無知のヴェール」だ。彼は、誰が死ぬかを知らない。だから、公正だ。

"In the long run, we are all dead."
(長期的には、我々は皆死んでいる。)
―― ジョン・メイナード・ケインズ

第5章 許しの条件――等価交換という残酷な論理

5.1 マーティンが求めるもの――「痛み」の等価性

マーティンは、何を求めているのか。彼は、スティーヴンに何度も言う。「あなたは、私の父を殺した。だから、あなたも同じ痛みを味わうべきだ」と。

ここで重要なのは、「同じ痛み」という言葉だ。マーティンは、スティーヴンの命を求めていない。スティーヴンの家族の命を求めている。なぜか。それは、「等価」だからだ。

マーティンは、父を失った。だから、スティーヴンも、家族を失うべきだ。父の命=家族の一人の命。これは、等価交換だ。

この論理は、旧約聖書の「タリオの法則」に基づいている。「目には目を、歯には歯を」。つまり、受けた害と同じ害を返せ。

しかし、現代の法律は、タリオの法則を採用していない。なぜなら、復讐は、連鎖するからだ。AがBを殴る。BはAを殴り返す。AはBを殴り返す。無限に続く。だから、現代の法律は、「国家による刑罰」という形で、復讐を制度化した。

しかし、マーティンは、国家の法律を信じていない。彼は、自分の正義を実行する。そして、その正義は、「等価交換」だ。

5.2 許しの「最低条件」――痛みを分かち合うこと

では、マーティンは、どうすればスティーヴンを許すのか。映画は、明確な答えを示さない。しかし、ヒントはある。

マーティンは、スティーヴンに何度も接近する。食事に誘う。家に招く。母親に会わせる。つまり、マーティンは、スティーヴンとの「関係」を求めている。

しかし、スティーヴンは、その関係を拒否する。彼は、マーティンを「危険な少年」として扱う。距離を置こうとする。そして、最後には、マーティンを縛り上げ、地下室に監禁する。

ここで、マーティンの怒りが爆発する。「あなたは、私の痛みを理解しようとしない」と。

つまり、マーティンが求めているのは、「痛みを分かち合うこと」だ。彼は、父を失った。その喪失の痛みを、誰かに理解してほしい。しかし、誰も理解しようとしない。スティーヴンも、理解しようとしない。だから、マーティンは、スティーヴンに「同じ痛み」を与える。

心理学者カール・ロジャーズは、「共感」の重要性を強調した。ロジャーズによれば、共感とは、相手の感情を「自分のことのように」感じることだ。これは、治療の基礎だ。

マーティンは、スティーヴンに共感を求めている。しかし、スティーヴンは、共感を拒否する。だから、許しは成立しない。

5.3 息子の死――等価交換の完成と呪いの解除

スティーヴンが息子を殺したとき、呪いは解けた。妻と娘は、回復した。マーティンは、満足した。なぜなら、等価交換が完成したからだ。

スティーヴンは、マーティンの父を殺した。だから、スティーヴンの息子が殺された。これで、バランスが取れた。マーティンの正義は、実現された。

しかし、これは、本当に「許し」なのか。私は、そうは思わない。これは、「清算」だ。借金を返した。だから、関係は終わった。しかし、和解はしていない。

宗教学者ミルチャ・エリアーデは、『聖と俗』で、「贖罪」の概念を分析した。贖罪とは、罪を償うことだ。しかし、償いは、許しを保証しない。償いは、負債を清算するだけだ。許しは、別の次元にある。

スティーヴンは、償った。しかし、許されていない。マーティンは、復讐を果たした。しかし、癒されていない。だから、このエンディングは、悲劇だ。誰も、救われていない。

"To err is human; to forgive, divine."
(過ちは人の常、許しは神の業。)
―― アレキサンダー・ポープ

終章 不穏が残る理由――ランティモスが描く「救済なき世界」

終.1 ラストシーン――ダイナーでの沈黙

映画の最後、スティーヴン一家は、ダイナーにいる。妻と娘は、回復した。しかし、息子はいない。彼らは、食事をする。しかし、会話はない。ただ、沈黙がある。

カメラは、彼らを遠くから捉える。そして、映画は終わる。

このラストシーンは、非常に不穏だ。なぜなら、何も解決していないからだ。息子は、死んだ。その事実は、変わらない。家族は、生き残った。しかし、幸せではない。ただ、生きている。

映画理論家アンドレ・バザンは、「リアリズム」を重視した。バザンによれば、映画は、現実を「そのまま」記録すべきだ。ハッピーエンドも、悲劇的結末も、作為的だ。現実は、ただ続く。

ランティモスのラストシーンは、まさにこのリアリズムだ。物語は、終わらない。ただ、カメラが止まるだけだ。家族は、これからも生きる。しかし、どう生きるのか。それは、分からない。

終.2 救済のない世界――ランティモスの一貫したテーマ

ランティモスの映画には、救済がない。『ロブスター』では、主人公は逃げるが、幸せにはならない。『女王陛下のお気に入り』では、権力を手に入れた者は、孤独になる。『哀れなるものたち』では、自由を得た女性は、苦悩する。

そして、『聖なる鹿殺し』でも、救済はない。スティーヴンは、家族を救った。しかし、息子を失った。マーティンは、復讐を果たした。しかし、父は戻らない。誰も、幸せではない。

なぜ、ランティモスは、救済を描かないのか。それは、彼が「現実」を描いているからだ。現実には、ハッピーエンドはない。人生は、選択の連続だ。そして、どの選択も、何かを失う。

実存主義哲学者ジャン=ポール・サルトルは、『実存主義とは何か』で、「人間は自由の刑に処されている」と述べた。サルトルによれば、人間は、常に選択しなければならない。そして、選択には、責任が伴う。逃げることはできない。

スティーヴンは、まさにこの「自由の刑」を受けた。彼は、選択しなければならなかった。そして、選択した。その責任は、一生、彼につきまとう。これが、人間の条件だ。ランティモスは、その条件を、容赦なく描く。

終.3 私たちへの問い――あなたなら、誰を選ぶのか

『聖なる鹿殺し』は、観客に問いかける。「あなたなら、誰を選ぶのか」と。

この問いに、正解はない。誰を選んでも、地獄だ。しかし、選ばないという選択肢もない。なぜなら、選ばなければ、全員が死ぬからだ。

そして、この問いは、単なる思考実験ではない。私たちの人生も、選択の連続だ。仕事か、家族か。夢か、安定か。自由か、責任か。どの選択も、何かを犠牲にする。

倫理学者バーナード・ウィリアムズは、『道徳的運と人間性』で、「道徳的ジレンマ」を論じた。ウィリアムズによれば、倫理学の理論は、しばしば現実の複雑さに対応できない。現実には、「正しい選択」がない状況がある。

スティーヴンの問題は、まさにこの道徳的ジレンマだ。そして、私たちの人生にも、同じジレンマがある。だから、『聖なる鹿殺し』は、他人事ではない。これは、私たち自身の物語だ。

本作は、許しについて語っている。しかし、最後に、許しは成立しない。なぜなら、許しの「最低条件」が満たされていないからだ。その条件とは、「痛みを分かち合うこと」だ。相手の痛みを理解し、共感すること。これなしに、許しはない。

そして、これは、映画の外の私たちにも当てはまる。誰かを許したいなら、まず、その人の痛みを理解しなければならない。しかし、それは、非常に難しい。なぜなら、痛みは、個人的だからだ。他人の痛みを、完全に理解することはできない。

だからこそ、許しは、奇跡なのだ。

"The weak can never forgive. Forgiveness is the attribute of the strong."
(弱者は決して許すことができない。許しは、強者の属性である。)
―― マハトマ・ガンディー


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podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#ポケ沼⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。

語りたい映画なんて尽きることない!

エピソードの公開は毎週or隔週となります。


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