【#映画感想文】 #ディズニー アニメーション一気に批評 その14『#101匹わんちゃん』――動物表現の蓄積を、ここで見ろ。 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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ディズニーアニメーション一気に批評 その14
101匹わんちゃん――動物表現の蓄積を、ここで見ろ。
第1章 実写化もされた傑作
1.1 この映画が今も語られる、いちばん単純で恐ろしい理由
『101匹わんちゃん』が今なお評価され続けている理由は、実のところとてもシンプルだ。
犬の描写が異常だからである。
物語がどうとか、テーマがどうとか、まずその前に、
画面に映るワンコロたちがあまりにも生きている。
とくに子犬たちだ。
ころころとした体つき。
まだ身体の使い方を覚えきれていない、危なっかしい足取り。
止まったかと思えば、突然走り出し、転び、絡まり、また立ち上がる。
それを、
101匹同時に
画面の中で躍動させている。
正直に言っていい。
考えただけで、発狂しそうな仕事量だ。
“God is in the details.”
「神は細部に宿る」
――ミース・ファン・デル・ローエ
この映画は、ディテールに神が宿りすぎている。
1.2 手描きでやっていい仕事量じゃない
『101匹わんちゃん』は1961年公開の作品だ。
当然ながら、フルCGでもなければ、モーションキャプチャもない。
すべてが手描きアニメーションである。
つまり、
あの101匹の挙動は、
一匹一匹、人の目と手によって観察され、描かれている。
ここで重要なのが、
本作における**トレーシングマシーン(ゼログラフィ)**の導入だ。
これにより、
原画の線をそのままセルに転写できる
線のニュアンスが消えない
作画工程を爆速で回せる
という革命が起きた。
だが勘違いしてはいけない。
機械が楽をさせてくれたのは「写す工程」だけだ。
観察と作画そのものは、地獄のままである。
1.3 「可愛い」だけで片づけると、痛い目を見る
子犬たちは可愛い。
それは間違いない。
だが、この映画の犬描写は、
「可愛い」で終わらせるにはあまりにも情報量が多い。
親犬の疲労。
不安。
責任。
恐怖。
とくに、子を守る側の犬たちの表情には、
人間の親と同じだけの重みが乗っている。
アニメーションだから誇張されているのではない。
アニメーションだから、そこまで描けてしまうのだ。
“Animation is not the art of drawings that move but the art of movements that are drawn.”
「アニメーションとは、動く絵の芸術ではない。描かれた“動き”の芸術だ」
――ノーマン・マクラーレン
1.4 ヴィランが記憶をさらっていくという現象
この作品が今も話題に上がる理由の一つに、
ヴィランの存在感がある。
クルエラ・ド・ヴィル。
名前からして不穏だが、
見た目も思想も、もはや怪異の域に足を踏み入れている。
その異様さは、
後年になって彼女を主役に据えたスピンオフが制作されたことからも明らかだ。
それほどまでに、
この映画は「犬の映画」であると同時に、
「クルエラの映画」でもある。
この話は後で、腰を据えてやる。
1.5 まず言っておくと、これは「動物映画」ではない
誤解されがちだが、『101匹わんちゃん』は
単なる動物映画ではない。
これは、
ディズニーが長年積み上げてきた「動物を描く技術」の集大成だ。
ストーリーがどうこう言う前に、
まずそこを見るべき作品である。
この映画を観るときは、
可愛いとか怖いとか以前に、
「ここまで描くか」という驚きが先に来る。
そして、その驚きは、
今見てもまったく色褪せない。
第2章 あらすじ
2.1 驚くほど素直で、驚くほど機能的な物語
『101匹わんちゃん』のあらすじは、拍子抜けするほど単純だ。
ダルメシアンのポンゴとパディータ。
ごく普通の家庭犬として暮らしていた二匹のもとに、子犬たちが生まれる。
しかしその子犬たちは、
毛皮目当ての女・クルエラによって誘拐されてしまう。
親犬たちはロンドン中を駆け、
犬同士のネットワークを使って仲間を集め、
101匹の子犬を救い出す。
それだけだ。
運命論もなければ、
王子も魔法も出てこない。
あるのは、
奪われた子を取り戻すという、
極めて動物的で、極めて切実な動機だけ。
“The simplest story is often the strongest.”
「最も単純な物語こそ、最も強い」
2.2 この物語は「犬の論理」で動いている
この映画が面白いのは、
物語の意思決定が一貫して犬の論理で進むことだ。
危険を察知する
仲間を呼ぶ
群れで動く
子を守る
そこに、人間的な損得勘定はほとんど介入しない。
結果として、
観客は「犬を人間に見立てて感情移入する」のではなく、
犬の行動原理そのものを理解させられる。
この距離感が絶妙だ。
擬人化しすぎない。
だが、感情が読めないわけでもない。
“Animals are reliable, many full of love, true in their affections.”
「動物は誠実で、愛情深く、その感情に嘘がない」
――ウォルト・ディズニー
2.3 101匹という数字が持つ、物語的な圧
ここで改めて考えたいのが、
「101匹」という数字の異常さだ。
1匹でも大変なのに、
10匹でも画面は飽和する。
それを101匹。
この数は、
物語上のリアリティというより、
圧力として機能している。
守りきれるのか
本当に全員助かるのか
管理できるのか
観客は無意識に不安になる。
つまりこの映画は、
可愛い動物映画の顔をしながら、
終始「キャパオーバー」の緊張感を漂わせている。
2.4 クルエラはなぜ物語を引っ張れるのか
物語構造上、
クルエラは単純な悪役だ。
動機も分かりやすい。
倫理的にも完全にアウト。
だが、
彼女がここまで記憶に残るのは、
物語の外側を背負っているからだ。
毛皮。
大量生産。
欲望の肥大化。
つまりクルエラは、
個人でありながら、消費社会そのものの擬人化でもある。
この点については、
次章で腰を据えて扱う。
2.5 あらすじとして重要なのは、ここまで
『101匹わんちゃん』の物語は、
これ以上複雑である必要がない。
むしろこのシンプルさがあるからこそ、
後段で語るべきもの――
作画、線、動き、技術、蓄積――が、
純粋に立ち上がってくる。
この映画は、
ストーリーで勝負していない。
描写で殴ってくる映画だ。
第3章 斬新なアプローチ
3.1 線が語り始めた瞬間
『101匹わんちゃん』を一目見て、まず違和感を覚える人は多いと思う。
それまでのディズニー作品と、線の質がまるで違う。
キャラクターの輪郭線は、きれいに閉じていない。
太さも揺れる。
ラフスケッチのまま動いているような、不安定さがある。
これは失敗でも手抜きでもない。
完全に意図的な選択だ。
“Line is a dot that went for a walk.”
「線とは、散歩に出かけた点である」
――パウル・クレー
この映画の線は、まさに散歩している。
しかも101匹分。
3.2 ゼログラフィが生んだ「荒さ」という武器
この線の正体が、ゼログラフィ(トレーシングマシーン)だ。
原画をそのままセルに焼き付けるこの技法は、
作画効率の革命であると同時に、
美的価値観の革命でもあった。
従来のディズニー作品では、
原画は最終段階でクリーンアップされ、
均質でなめらかな線に整えられていた。
だが『101匹わんちゃん』では、
その工程をあえて飛ばしている。
結果として、
線の勢いが残る
描いた人間の癖が見える
動きのラフさがそのまま伝わる
つまり、
「描かれた」というより「描いた」感じがする。
3.3 フランス的風合いという誤解と正解
この線の印象を、
「フランス映画っぽい」「ヨーロッパ的」と表現する人は多い。
確かに、
洗練よりも即興性を重んじる感じはあるし、
完璧よりも勢いを取る態度は、
どこかフランスの絵本やアニメーションを思わせる。
だが本質はそこではない。
これは国の問題ではなく、
アニメーションが“芸術としてどこまで荒れていいか”の実験だ。
“Art is never finished, only abandoned.”
「芸術は完成しない。ただ放棄されるだけだ」
――レオナルド・ダ・ヴィンチ
『101匹わんちゃん』は、
あえて“完成させすぎない”という選択をした。
3.4 表現技法そのものがメッセージになる
映画というものは、
映っている「内容」だけで語られるものではない。
どう描かれているか。
どんな線で、どんな密度で、どんなリズムで動いているか。
『101匹わんちゃん』は、
表現技法そのものが主張になっている映画だ。
これは現実そのものではない
これは絵であり、動きであり、解釈だ
そう言わんばかりの線が、画面を埋め尽くす。
この自己主張の強さが、
結果的に101匹という無茶な数を成立させている。
3.5 「きれいさ」を捨てたディズニーの覚悟
この作品以降、
ディズニーは一時的に「線の美学」を手放す。
なめらかさより、量。
完成度より、運動性。
完璧さより、蓄積。
これは後退ではない。
方向転換だ。
『101匹わんちゃん』は、
ディズニーが
「これから何を武器にして戦うか」を
はっきり示した作品でもある。
第4章 クルエラ・ド・ヴィルという異常
4.1 悪役が“テーマ”を背負ってしまった瞬間
『101匹わんちゃん』を語るうえで、クルエラ・ド・ヴィルを避けることはできない。
なぜなら彼女は、単なるヴィランではないからだ。
物語構造上、クルエラは分かりやすい悪である。
子犬を攫い、毛皮にしようとする。
倫理的にアウト。言い訳の余地もない。
だが、彼女の恐ろしさは「悪いことをする」点にあるのではない。
あまりにも“現代的”であることにある。
“The trouble with the rat race is that even if you win, you’re still a rat.”
「競争に勝っても、結局ネズミはネズミだ」
クルエラは、欲望の勝者だ。
金も権力も、手段も持っている。
その結果として、倫理が完全に脱落している。
4.2 消費社会に毒された人格
クルエラの行動原理は、驚くほど一貫している。
欲しいものは、手に入れる
金で解決できることは、金で潰す
命は素材にすぎない
ここには、憎しみも復讐もない。
あるのは、消費の論理だけだ。
だからこそ、彼女は怖い。
激情ではなく、合理性で動いている。
1961年当時、
大量生産・大量消費の社会は、すでに始まっていた。
ファッションは流行を煽り、
「欲しい」という感情は、商品化されていく。
クルエラは、
その最もグロテスクな終着点として描かれている。
4.3 風貌がすでに“鬼”である理由
クルエラは、見た目からして異常だ。
白と黒に分かれた髪。
針のような指。
角張ったシルエット。
彼女は人間だが、
人間の形をした何かとして描かれている。
この造形は偶然ではない。
ディズニーは意図的に、
彼女を“社会的怪物”としてデザインしている。
“We become what we behold.”
「人は、見つめ続けたものになる」
欲望を見つめ続けた結果、
彼女はああなった。
それだけの話だ。
4.4 現代から見たときの、皮肉なねじれ
ここで少し皮肉な話をしよう。
現代において、
この映画を作ったディズニー自身が、
巨大な消費社会の象徴になってしまった。
そして、そのディズニーが、
クルエラを主役に据えたスピンオフを作る。
構図としては、なかなかに面白い。
消費社会を批判していたはずの物語が、
消費社会のど真ん中で再生産される。
ただし、私はこうも思う。
このねじれこそが、クルエラの生命力だ。
彼女は、時代が変わっても死なない。
なぜなら、
消費社会が終わらない限り、
彼女の居場所も消えないからだ。
4.5 正直に言うと
最後に個人的な感想を言わせてもらう。
クルエラは怖い。
本当に怖い。
子ども向け映画に出していい顔じゃない。
そして正直に言うと、
この鬼がエマ・ストーンに見えるかと言われると、かなり無理がある。
いや、役者の問題ではない。
キャラクターの濃度が違いすぎる。
クルエラは、
「人間」ではなく、
概念だからだ。
第5章 技術の蓄積という武器
5.1 ディズニーが“時間”を味方につけた理由
『101匹わんちゃん』を観ていて、どうしても思ってしまうことがある。
これ、他のスタジオにできる仕事じゃない。
なぜか。
才能が足りないからではない。
努力が足りないからでもない。
単純に、時間が足りないからだ。
ディズニーの最大の強みは、いつの時代もここにある。
未来を見据え、長編アニメーションという市場を自分たちで切り拓き、
その中で失敗と成功を繰り返しながら、技術を積み上げ続けてきたこと。
『101匹わんちゃん』は、その蓄積が
一気に噴き出した作品だ。
“We don’t make movies to make money, we make money to make more movies.”
「我々は金を稼ぐために映画を作るのではない。映画を作るために金を稼ぐのだ」
――ウォルト・ディズニー
この思想がなければ、
101匹分の犬の動きなんて、誰も描こうと思わない。
5.2 動物を描くという、終わらない研究
ディズニーは、初期から一貫して動物を描き続けてきたスタジオだ。
『バンビ』で鹿を描き
『ダンボ』で象を描き
『わんわん物語』で犬の感情を描き
そのすべてが、『101匹わんちゃん』へと収束していく。
ここで描かれている犬たちは、
「可愛いマスコット」ではない。
骨格があり、重さがあり、癖がある存在だ。
走り方も、転び方も、立ち止まり方も違う。
同じ犬種であっても、まったく同じ動きはしない。
これは観察の量がものを言う世界だ。
一朝一夕で身につくものではない。
5.3 アナログだからこそ、見えるもの
今であれば、
3DCG、物理シミュレーション、AI補正。
やろうと思えば、もっと楽な方法はいくらでもある。
だが『101匹わんちゃん』は、
限りなくアナログな手法で、
それをやり切っている。
人間の目で見て、
人間の手で描き、
人間の感覚で修正する。
その結果、
犬の「ころころ感」や「おぼつかなさ」が、
数値ではなく感情として伝わってくる。
“The hand is the extension of the mind.”
「手は、心の延長である」
だからこの映画の犬たちは、
動きがうまいのではなく、
生きているように見える。
5.4 物語を置き去りにしても、成立してしまう映画
正直に言ってしまうと、
『101匹わんちゃん』は
ストーリーを忘れて観ても成立する映画だ。
極端な話、
セリフを消しても、
展開を把握できてしまう。
それは、
表現そのものが雄弁だからだ。
犬の動きが感情を語り
群れの配置が関係性を示し
線の揺れが緊張を伝える
ここまで来ると、
物語は「添え物」に近い。
これは欠点ではない。
表現力が暴走している証拠だ。
5.5 この映画は「技術の見本市」である
『101匹わんちゃん』は、
感動作というより、
ディズニーの技術史を一望できるショーケースだ。
動物表現。
作画技法。
工程改革。
観察の蓄積。
それらすべてが、
この一本に詰め込まれている。
だから私は、この映画を
「ストーリーが好きかどうか」で測る気になれない。
これは、
ここまでやってきたから、ここまで描けた
という証明だ。
第6章 実写化という比較軸
6.1 「101」は、実写化時代の開拓者でもある
『101匹わんちゃん』は、結果的にディズニー実写化路線の開拓者にもなった作品だ。
アニメ版の成功を受け、実写映画が制作され、世界的なヒットを記録した。
日本でも当時はかなり大々的に宣伝され、
劇場に足を運んだ人も多かったはずだ。
ダルメシアンの子犬たちが画面いっぱいに走り回る。
そりゃあ、可愛い。否定しようがない。
だが、時間が経ってから改めて見比べると、
はっきり分かることがある。
アニメーションでしか成立しない表現が、確実に存在する。
“Film is truth twenty-four times a second.”
「映画とは、1秒間に24回の真実である」
――ジャン=リュック・ゴダール
この「真実」の質が、
アニメと実写ではまったく違う。
6.2 実写の犬は、喋らない
実写の犬は、当然ながら喋らない。
表情も、基本的には読み取る側の解釈に委ねられる。
それはそれで、ひとつの楽しみ方だ。
犬の仕草や視線に意味を読み込み、
感情を想像する。
だが、『101匹わんちゃん』のアニメ版がやっているのは、
その次元ではない。
親犬の「責任」が見える
不安が、動きとして表出する
子を守る覚悟が、姿勢に現れる
これは、
擬人化ではなく、翻訳だ。
犬という存在を、
人間が理解できる感情のレイヤーへ
正確に変換している。
6.3 実写では“できる”が、“やらない”理由
ここで一応、現代の技術の話もしておこう。
今のVFX技術なら、
実写の犬に喋らせることも、
人間並みの表情を与えることも、
理論上は可能だ。
だが、やらない。
なぜか。
キモいからだ。
いや、これは冗談ではない。
リアルな動物に人間的な表情や言語を与えると、
途端に不気味の谷が口を開く。
アニメーションは、
その谷を最初から回避している。
現実ではない。
だが、感情は本物。
このバランスが、アニメにしか出せない強みだ。
6.4 「アニメだからこそ」の決定的な差
『101匹わんちゃん』を改めて見て思うのは、
この映画がアニメーションという表現形式を、完全に信頼しているということだ。
現実をなぞらない
だが、嘘もつかない
感情だけは、誤魔化さない
この姿勢が、
親犬の悲哀を、
子犬の無邪気さを、
観る側に直撃させる。
実写では、どうしても「現実の犬」が前に出る。
アニメでは、「感情としての犬」が前に出る。
この差は、埋まらない。
6.5 結論:この映画は、描写で勝ち切っている
『101匹わんちゃん』は、
ストーリーで歴史に残った映画ではない。
テーマで語り継がれる映画でもない。
描写で勝ち切った映画だ。
動物を描くという一点において、
ディズニーがどれだけの年月を費やし、
どれだけの失敗を重ね、
どれだけの観察を積み上げてきたのか。
その答えが、
101匹分、画面の中で動いている。
正直に言えば、
この映画は二度観なくてもいいかもしれない。
だが一度は、
「ここまでやる意味」を確認するために観るべき映画だ。
動物表現の蓄積は、
この一本で、確かに目に見える形になった。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
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