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【#映画感想文】 映画『#近畿地方のある場所について』――見えない恐怖を肉体化することの、不可避な代償 【#Podcast エピソード紹介】

Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。

毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。

なお番組の最新エピソードご聴取はこちらよりどうぞ↓


第0章 見えないものが、なぜ怖いのか

0.1 あなたは最後に、何も見えないのに怖かったことがあるか

あなたが最後に「何も見えていないのに」恐怖を感じたのはいつか。

暗闇の中で何かの気配を感じた夜。読みかけの文章の行間に、何か得体の知れないものを感じた瞬間。誰かの証言を聞いて、その証言の「外側」に広がる空白が、じわじわと体温を奪っていく感覚。

それが、怪談の本質だ。

怪異は、見えないから怖い。正体がわからないから怖い。輪郭が掴めないから怖い。そしてその恐怖は、視覚的な情報が与えられた瞬間に、或る意味で半減する。怪物は、姿を現した瞬間から「倒すべき対象」になってしまうのだ。

2024年、Netflixで公開された映画『近畿地方のある場所について』。

原作は背筋による同名の怪異小説。WEB連載として公開され、爆発的な反響を呼んだ作品だ。数多くの現代怪談が連鎖し、その背後に潜む元凶の輪郭が少しずつ浮かび上がる構成。「見えない怪異」の積み重ねによって、読者の想像力を最大限に動員する、現代怪談の傑作と言っていい。

その映画化を、私は期待とともに観た。

そして、不完全燃焼のまま、エンドロールを迎えた。

この不完全燃焼は、映画が「失敗」したからではない。むしろ問題はより根深い。映像というメディアが構造的に抱える、「見えない恐怖を扱うことの不可能性」に触れた感覚だ。

本稿では、この感覚を解剖する。

"The oldest and strongest emotion of mankind is fear, and the oldest and strongest kind of fear is fear of the unknown." (人類の最も古く最も強い感情は恐怖であり、最も古く最も強い恐怖とは未知への恐怖である。) ―― H・P・ラヴクラフト

第1章 原作という迷宮と、その構造的な快楽

1.1 怪談が「積み重なる」という快楽

原作『近畿地方のある場所について』の構成は、それ自体が一種の怪異だ。

複数の怪談が連鎖し、収集され、整理されていく中で、読者は徐々に「何かおかしい」という感覚に侵食されていく。個々の怪談は断片的で、それ単体では「よくある怖い話」の域を出ない。しかし読み進めるうちに、それらの断片が或る一点に向かって収束し始める。

この構造は、ミクハイル・バフチンが論じた"ポリフォニー小説"の概念と近い。1929年の『ドストエフスキーの詩学の諸問題』の中でバフチンは、複数の声が単一の権威的な語りに収束せず、それぞれの声が独立した重みを持つ小説形式を論じた。

原作の怪談群はまさにそうだ。どの語り手も、完全な真実を持っていない。どの証言も、欠落を含んでいる。そしてその欠落の集積が、読者の想像力を暴走させる。

正体が見えないから、読者は自分の頭で補完する。そしてその補完は、読者の恐怖の文脈に最適化されている。つまり読者は、自分が最も恐れているものを、行間に勝手に召喚してしまう。

これが、原作の怪異の本質だ。

1.2 「わからない」という最大の恐怖装置

オーストリアの精神分析学者ジークムント・フロイトは1919年の論文『不気味なもの(Das Unheimliche)』で、恐怖の根源を「馴染みのあるものの不気味な変容」として分析した。

フロイトの言う"Unheimlich"(不気味)は、完全な異物への恐怖ではない。知っているはずのものが、知らないものに変容するときの感覚。日常の中に非日常が滲み出すときの、あの感覚だ。

原作がこれほど怖いのは、まさにこの構造を徹底しているからだ。語られる怪談は、どれも「普通の日常」から始まる。旅行先で見た奇妙な祠。地元に伝わる風習。友人から聞いた話。これらの入り口は徹底的に日常的だ。

しかし読み進めるうちに、その日常は少しずつ、決定的に壊れていく。

しかも、その「壊れ方」は明示されない。壊れた後の姿は、読者の想像に委ねられる。これが怖い。これが、原作が「正体を見せない」ことで作り出す恐怖装置だ。

1.3 怪異は輪郭を持った瞬間に、別のものになる

ここに、映像化の根本的な問題がある。

映像は、見えるものしか伝えられない。

これは自明のことのように聞こえるが、実はきわめて深刻な制約だ。映像は光と影の芸術であり、スクリーンに映し出されるものは全て「輪郭を持つ」。霧の中の影でも、暗闇の中の気配でも、それを映像として提示した瞬間に、それは「そこにある何か」になってしまう。

原作の怪異は、輪郭を持たない。それが怖いのだ。

しかし映像が「何も見せない」ことを選択し続けるのは、実際には難しい。観客は、スクリーンを見るために映画館に来ている。見せないことへの期待に、映像が応え続けることには限界がある。

結果として、怪異はいつか肉を持つ。形を持つ。見える存在になる。そしてその瞬間から、恐怖の質は変容する。

"The most merciful thing in the world, I think, is the inability of the human mind to correlate all its contents." (この世界で最も慈悲深いことは、人間の精神がその内容を全て関連付けられないことだと思う。) ―― H・P・ラヴクラフト

第2章 映像という媒体の、構造的な宿命

2.1 リングの貞子が這い出てくる理由

私がこの問題を最初に強く感じたのは、『リング』だった。

鈴木光司の原作小説では、貞子はテレビから這い出てこない。ビデオテープの呪いの本質は「見ること」によって何かが汚染されていくという感覚であり、貞子の肉体的な出現は、むしろ恐怖の本質ではない。原作の怖さは、呪いの論理が持つ不条理さと、その不条理さが日常に浸食してくる感覚にある。

しかし中田秀夫監督の映画版は、貞子をテレビから這い出させた。

あの演出は世界的に有名になり、ホラー映画の歴史に刻まれた。そして映画として観れば、あれは間違いなく正解だ。観客の心臓を掴み、息を呑ませ、映画の文脈において最大限の衝撃を与える。

しかしその瞬間、恐怖の質は変容した。

原作の恐怖は「見えない呪いの論理」への恐怖だ。映画の恐怖は「突如現れる異形への恐怖」だ。後者は前者より劣るわけではない。しかし前者と後者は、別物だ。

これは映像という媒体の宿命と言っていい。映像は観客に「何かを見せる」メディアである以上、恐怖もまた「見えるもの」として提示されやすい。

2.2 ソンタグの「見ること」の倫理

アメリカの批評家スーザン・ソンタグは1977年の著書『写真論(On Photography)』の中で、「見ること」の暴力性を論じた。

カメラは対象を固定する。その瞬間、対象は流動性を失い、一つの「意味」を強制される。生きている人間が写真に収められた瞬間、その人間の無限の可能性は、一枚の像へと圧縮される。

同じことが、怪異にも言える。

怪異を映像で捉えた瞬間、怪異は「そういうもの」になる。輪郭が生まれ、質感が生まれ、動き方が決まる。観客は怪異を「見た」ことで、怪異を自分の中で処理できるようになる。処理できるようになった恐怖は、もはや最大値の恐怖ではない。

これが、「映像化によって恐怖がスポイルされる」という感覚の正体だ。

映画が悪いのではない。映像というメディアが、不可視の恐怖と相性が悪いのだ。

2.3 映画の挑戦と、その限界

その中で、映画『近畿地方のある地域について』の挑戦は評価できる。

叙述トリック的な構成。原作既読者も未読者も、或る程度は騙される仕掛け。映像ならではの時系列操作や視点の操作。これらは、「見えない恐怖」を映像で再現しようとする、誠実な試みだ。

しかしそれでも、私の中の不完全燃焼は拭えなかった。

この不完全燃焼の正体は何か。

それは、原作が動員した「私自身の想像力」と、映画が提示した「具体的な映像」の乖離だ。

原作を読んだとき、私は自分の恐怖の文脈で怪異を想像した。その怪異は、私の過去の体験や、私が最も恐れているものの形をしていた。映画が提示した怪異は、監督の解釈による怪異だ。それは私が想像したものとは異なる。

そしてこれは、映画の「失敗」ではない。映画は映画の解釈を提示するのが仕事であり、それは正しい。しかし原作が読者に与えた「自分だけの恐怖」は、映画では再現できない。

これが、映像化の根本的な問題だ。

"We are all haunted houses." (我々は皆、幽霊の棲む家である。) ―― H・D(ヒルダ・ドゥーリトル)

第3章 ノスタルジアという快楽と、その文化的意味

3.1 VHSテープが喚起するもの

しかし、映画には確かに好きな部分がある。

VHSテープ。アナログ放送の砂嵐。平成初期の報道番組を模した映像。アニメ日本むかし話へのオマージュ。これらは、同世代の観客にとって、単なる「雰囲気作り」以上の機能を持つ。

フランスの社会学者ピエール・ブルデューは1979年の著書『ディスタンクシオン(La Distinction)』の中で、文化的趣味が社会的階層と結びついていることを論じた。しかしブルデューが見落としていた視点として、趣味は「時代」とも結びついている。

特定の時代に特定の経験を共有した人々の間には、記憶の連帯が生まれる。その連帯は、当時の映像・音響・感触を目の前に提示されることで、一瞬にして活性化する。

VHSのノイズ。アナログ放送特有の色調。平成初期のフォント。これらは単なる「レトロな演出」ではなく、特定の世代の身体に刻まれた記憶の鍵だ。その鍵が差し込まれた瞬間、観客は映画を見ながら同時に、自分の記憶の中に引き込まれる。

3.2 心霊特集が消えた、という喪失

日本のテレビから、心霊特集が事実上消えた。

これはコンプライアンスの問題であり、スポンサーの問題であり、視聴率の問題でもある。しかし同時に、これは文化的な喪失だ。

心霊特集は、「わかってはいるけど怖がる」という、或る種の共同体験を提供していた。あの恐怖が本物かどうかは関係ない。皆でテレビの前に集まり、「ひいっ」と言いながら画面を見て、終わった後に「でもあれって合成だよね」と笑う。その共同体験の場が、消えた。

フランスの思想家ギー・ドゥボールは1967年の著書『スペクタクルの社会(La Société du spectacle)』の中で、現代社会においてあらゆる体験がスペクタクル化されると論じた。しかし心霊特集の消滅は、スペクタクルの消滅でもある。

消えたスペクタクルへの渇望は、残る。それが「わかってはいるけど騙されたい」という需要だ。

映画『近畿地方のある地域について』の平成ノスタルジー演出は、この需要に応えている。かつてあった共同体験の代替として機能し、「あの頃の怖さ」を擬似的に再現する。

これは文化的に誠実な選択だ。

3.3 ノスタルジアは恐怖を増幅させるか

ノスタルジアと恐怖の組み合わせは、実は理論的にも興味深い。

フランスのバタイユ思想を継承したロジャー・カイヨワは1938年の著書『人間と聖なるもの(L'Homme et le sacré)』の中で、ある種の体験が「日常の破壊」として機能することを論じた。

ノスタルジアは「かつての日常」への回帰への欲望だ。しかしその「かつての日常」の中に怪異が侵入するとき、ノスタルジアは増幅器として機能する。

なぜなら「かつての日常」は、現在の私にとって変更不可能な過去だからだ。VHSテープの映像に怪異が映り込むとき、その怪異は単に「映像の中の怪異」ではなく、「変更できない自分の過去の中に潜んでいたかもしれない怪異」になる。

この「過去への侵入」という恐怖は、原作が持っていた不可視の恐怖とは質が異なるが、別の回路で恐怖を刺激する。

映画はこの回路を巧みに使っている。それは評価できる。

"Nostalgia is a file that removes the rough edges from the good old days." (ノスタルジアとは、過去の良き日々の荒削りな部分を削り取るやすりである。) ―― ダグ・ラーソン

第4章 映像と文字の間に横たわる、埋めがたい溝

4.1 想像力の自由と、映像の強制

文字は、読者に想像の自由を与える。

「暗い部屋に何かがいる」という一文は、無限の解釈を許容する。その「何か」は、読者それぞれの恐怖の形をとる。背が高いかもしれないし、低いかもしれない。音を立てるかもしれないし、無音かもしれない。臭いがあるかもしれないし、ないかもしれない。

映像は、その全てを決定してしまう。

「暗い部屋に何かがいる」という映像は、その「何か」の形を、色を、動き方を、音を、全て観客に強制する。観客の想像力は、スクリーン上の映像によって上書きされる。

これは映像の強みであり、同時に弱点だ。

強みとして、映像は観客全員に同一の体験を与える。映画館の全員が、同じ瞬間に同じものを見て、同じタイミングで息を呑む。この共同体験は、文字では作れない。

弱点として、映像は観客の想像力を制限する。最大値の恐怖は、常に「自分の想像が作り出したもの」だ。他者が作った映像の恐怖は、自分の想像力が生み出す恐怖の最大値には届かない。

4.2 マクルーハンの「メディアはメッセージである」

カナダのメディア理論家マーシャル・マクルーハンは1964年の著書『メディアの理解(Understanding Media)』の中で、「メディアはメッセージである」という有名な命題を提示した。

メッセージの内容より、そのメッセージを伝えるメディアの形式そのものが、人間の認知と社会に影響を与えるという主張だ。

この視点を怪談に適用するとどうなるか。

文字で書かれた怪談と、映像で表現された怪談は、内容が同じでも「別物」だ。文字は読者の想像力に訴え、映像は観客の視覚に訴える。文字が動員するのは内的な恐怖であり、映像が動員するのは外的な恐怖だ。

原作『近畿地方のある地域について』が作り出した恐怖は、徹底的に「内的な恐怖」だ。読者の想像力が作り出す、自分自身の怪異への恐怖。

映画化は、これを「外的な恐怖」として再解釈する試みだ。同じ題材を、異なるメディアで再構成する。これは翻訳であり、必然的に「失われるもの」が生じる。

4.3 翻訳の不可避な損失

翻訳論の世界には、「翻訳不可能性(untranslatability)」という概念がある。

言語Aで書かれた詩を言語Bに翻訳するとき、語感、リズム、音の響き、文化的な含意は完全には移し替えられない。最善の翻訳でも、何かが失われる。そしてその「失われたもの」こそが、しばしば原文の最も重要な部分だったりする。

原作から映画への変換も、この意味での「翻訳」だ。

原作の最も重要な部分は、「見えないもの」への恐怖だ。これは映像という言語に翻訳するとき、最も失われやすい部分でもある。

だから私の不完全燃焼は、映画の失敗ではなく、翻訳の宿命だ。

この映画が挑戦的だったのは、その宿命と真剣に格闘しようとしたことにある。叙述トリック的な構成、視点の操作、時系列の錯綜——これらはすべて、映像の限界の中で「見えない恐怖」を再現しようとする試みだ。完全には成功していないかもしれないが、その格闘の姿勢は誠実だ。

"Language is the house of being." (言語は存在の家である。) ―― マルティン・ハイデガー

第5章 現代ホラーが向き合うべきもの

5.1 「見せること」への過剰な圧力

現代のホラー映画には、「見せること」への過剰な圧力がある。

ジャンプスケア(突然の大音響と映像で観客を驚かせる技法)の多用。グロテスクな映像による恐怖の可視化。CGを駆使した怪物の造形。これらは、映画がスペクタクルとして成立するための要請に応えている。

しかしカール・マルクスが1867年の『資本論(Das Kapital)』の中で論じた「商品のフェティシズム」は、ここにも適用できる。

映画は商品だ。観客は、チケット代に見合った「恐怖の体験」を買いに来ている。この商品関係の中で、恐怖は定量化・可視化されるよう圧力をかけられる。「怖かった」という体験を、明確な場面、明確な演出として提示しなければ、観客は「元を取った」と感じられない。

この圧力が、「見えない恐怖」を「見える恐怖」に変換させる動因の一つだ。

5.2 グラムシの「ヘゲモニー」と恐怖の文化

イタリアの思想家アントニオ・グラムシは「文化的ヘゲモニー」の概念の中で、支配的な文化が人々の常識を形成する過程を論じた。

現代のホラー映画において、「恐怖はこのように表現されるべきだ」という文化的ヘゲモニーが存在する。ジャンプスケアが怖い。怪物が出てくるのが怖い。人が死ぬのが怖い。これらは、映画産業が長年かけて形成してきた「恐怖の文法」だ。

この文法に従わない映画は、「怖くない映画」と評価されるリスクがある。

映画『近畿地方のある場所について』は、或る意味でこの文法に抗おうとした。叙述トリック的な構成は、「怪物が出てくる恐怖」ではなく「論理が崩れる恐怖」を目指している。これは文化的ヘゲモニーへの、静かな抵抗だ。

しかしその抵抗は、最終的に完遂されない。怪異は形を持ち、映像として提示される瞬間が来る。そのとき、映画は文法に妥協する。

5.3 それでもこの映画が持つ意義

とはいえ、この映画が持つ意義は確かにある。

「見えない恐怖」と「見える恐怖」の狭間で格闘した跡が、この映画には刻まれている。その格闘の跡自体が、映画を観る者に何かを考えさせる。

ホラーというジャンルは、時代の不安を映す鏡だ。

デュルケームが「アノミー」の概念で論じたように、社会の規範が弱まるとき、人は不安を感じる。現代日本社会の不安——過疎化する地域、消えていく伝統、デジタルと地縁の断絶——は、『近畿地方のある地域について』の原作が捉えようとしていたものの背景にある。

映画がその不安を、平成ノスタルジーと怪異の映像として提示しようとしたこと。それ自体は、時代の要請に応えようとした真剣な試みだ。

"Horror is a reaction; it's not a genre." (ホラーは反応であり、ジャンルではない。) ―― ジョン・カーペンター

終章 原作と映画、一粒で二度楽しむということ

終.1 優劣でなく、翻訳として

原作と映画は、優劣を競うべきではない。

これは、綺麗事として言っているのではない。実際に、そう思う。

原作が提供したのは、「自分の恐怖の文脈で怪異を想像する体験」だ。映画が提供したのは、「監督の解釈による怪異を、映像として体験する」ことだ。この二つは異なる体験であり、それぞれが独立した価値を持つ。

むしろ、両方を体験することで、「恐怖とは何か」という問いが深まる。

原作を読んだ後に映画を観ると、「自分が想像した怪異」と「映像として提示された怪異」の差異が見える。その差異こそが、自分が何を恐れているかを教えてくれる。

映画を観た後に原作を読むと、映画が「削った」ものの存在に気づく。映像では伝えられなかった不安の質を、改めて文字で体験できる。

これが「一粒で二度楽しめる」ということの本質だ。

終.2 見えない恐怖の、現代的な意味

現代において「見えない恐怖」が機能するのは、私たちが「見えないもの」に囲まれて生きているからだ。

SNSのアルゴリズムは見えない。自分についての情報がどこに蓄積されているか、見えない。人間関係の中で自分がどう評価されているか、見えない。未来がどうなるか、見えない。

この「見えない不安」は、現代人の日常に深く根付いている。

『近畿地方のある地域について』の原作が持つ力は、この現代的な不安と共鳴する部分がある。個人では把握しきれない怪異の全体像。証言が積み重なっても消えない「わからなさ」。この構造は、現代人の情報環境への不安と重なる。

映画は、この「見えない不安」を視覚化しようとした。その試みは部分的にしか成功しなかったかもしれない。しかしその失敗の中に、現代のメディアが抱える根本的な問題が透けて見える。

私たちは、見えないものを見ようとするメディアに囲まれている。そしてそのメディアが「見せた」瞬間に、何かが失われる。

終.3 あなたはどちらで、怖がりたいか

最後に、問いを残したい。

あなたは、どちらで怖がりたいか。

自分の想像力が作り出す、内側の怪異。それとも、スクリーンが提示する、外側の怪異。

どちらも、恐怖だ。どちらも、人間の体験として正当だ。しかしその二つは、異なる何かを私たちに要求する。前者は、自分の内側と向き合うことを。後者は、外側の映像に委ねることを。

『近畿地方のある地域について』という作品は、その問いを私たちに突きつけている。原作と映画という二つの形で、同じ題材が異なる恐怖を提示する。

どちらを選ぶかは、あなた次第だ。

しかし私は言う。両方体験してほしい、と。

怪異の輪郭が見えたとき、何かが失われる。しかし同時に、その「失われたもの」の存在に気づくことができる。そしてその「失われたもの」への感覚こそが、人間の想像力の豊かさの証明だ。

私たちは、見えないものを恐れ、想像し、そして見えないものの中に自分自身を映し出す。それが怪談という文化の本質であり、人間の本質の一側面なのだ。

"The oldest and strongest emotion of mankind is fear, and the oldest and strongest kind of fear is fear of the unknown." (人間の最も古く最も強い感情は恐怖であり、最も古く最も強い恐怖は未知への恐怖である。) ―― H・P・ラヴクラフト


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podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#ポケ沼⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。

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