【#映画感想文】 #ディズニーアニメーション一気に批評 その19 『#クマのプーさん』 (1977年)特別な語るべき要素を持たない一作? 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
なお番組の最新エピソードご聴取はこちらよりどうぞ↓
第1章 くまのプーさん初の長編?
――評価に困る、という正直な出発点
この「ディズニーアニメーション一気に批評」という企画を始めたときから、
正直に言って、私はこの作品の扱いにずっと悩んでいた。
それが、
クマのプーさん
である。
困る理由は単純だ。
語るべき決定打が、ほとんど存在しない。
名作かと聞かれれば、首を傾げる。
駄作かと聞かれれば、それも違う。
強烈な実験性も、革新性も、批評的主張もない。
にもかかわらず、
ディズニー史の中では明確に「長編作品」としてカウントされている。
ここにまず、違和感がある。
1.1 本当に「初の長編」なのか?
本作が「くまのプーさん初の長編映画」とされている理由は、
劇場用にまとめられた初の作品だから、という一点に尽きる。
だが、その内実はどうか。
実際には本作は、
すでに発表済みであった中編作品――
『プーさんとはちみつ』(1966)
『プーさんと大あらし』(1968)
『プーさんとティガー』(1974)
これらを編集・接続したオムニバス構成に過ぎない。
制作プロジェクトとして一から立ち上げられた「長編」ではない。
言い換えれば、
新作映画というより、再編集作品なのだ。
この点において、
私はどうしても「長編」と呼ぶことに躊躇してしまう。
1.2 長編とは、時間ではなく「プロジェクト」である
ここで一度、
「長編映画とは何か」という問いを立てておきたい。
上映時間が60分を超えたら長編なのか。
劇場公開されたら長編なのか。
私はそうは思わない。
長編映画とは、
一つの明確な制作意図とテーマを持ったプロジェクトであるかどうか、
そこにこそ本質があると考えている。
たとえばディズニー自身の過去作を見ても、
『ラテン・アメリカの旅』は文化理解を目的とした短編集
『メイク・マイン・ミュージック』は音楽とアニメの融合実験
『ファン・アンド・ファンシー・フリー』は二本立て構成の試行
これらは確かにオムニバスだが、
一本の思想的軸が存在していた。
では『クマのプーさん』はどうか。
キャラクターは共通している。
舞台も百エーカーの森で統一されている。
だが、それ以上の一貫したテーマは、正直見えてこない。
1.3 「それ、長編と呼ぶ?」という感覚
極端な例を出そう。
仮に、
すでに配信されている『ブラック・ミラー』の第1話と第2話を繋げ、
「劇場版ブラック・ミラー」と銘打ったとする。
私たちはそれを、
違和感なく「長編映画」と受け取れるだろうか。
おそらく無理だ。
作品としての連続性はあっても、
制作思想としての一本化がなされていないからだ。
この感覚が、
『クマのプーさん(1977)』にもそのまま当てはまる。
1.4 それでも、ディズニーは間違っていなかったのかもしれない
ただし、ここで一つ、
ディズニー側の視点にも立っておく必要がある。
アメリカ本国において、
当時のプーはまだ現在ほどの国民的キャラクターではなかった。
いきなり長編一本勝負をするよりも、
中編で少しずつ浸透させ、
キャラクターへの親近感を醸成する。
その上で、
「長編」という形で再提示する。
これは極めて戦略的だ。
社会学者ピエール・ブルデューの言葉を借りるなら、
“Cultural capital takes time to accumulate.”
「文化資本は時間をかけて蓄積される」
プーというキャラクターは、
まさにこの「文化資本の蓄積」によって成功した存在だ。
その意味で、
本作はマーケティング的には大成功だった。
1.5 それでも私は、こう言いたい
戦略が正しかったことと、
作品を長編と呼べるかどうかは、別問題である。
私はあくまで、
これらは中編作品の集合体であり、
一本の長編映画として語るには、
どうしても腰が引ける。
この違和感こそが、
本作を批評する際の、
すべての出発点になる。
第2章 あらすじ
――物語が進まない、という安心感
本作のあらすじを語ろうとすると、
最初から少し困った事態に陥る。
なぜなら、
物語が「進む」という感覚がほとんど存在しないからだ。
舞台は百エーカーの森。
主人公は、はちみつが大好きなクマのプー。
そこに、ピグレット、イーヨー、ラビット、ティガーといった仲間たちが集い、
日常の中で小さな出来事が起こり、解決されていく。
事件は起きる。
だが、世界は揺らがない。
危機はある。
だが、取り返しがつかない事態にはならない。
この映画には、
「この先どうなるんだ?」という緊張が、ほとんどない。
2.1 物語が“前に進まない”構造
本作の各エピソードは、
基本的に円環構造を取っている。
問題が起こる。
みんなで右往左往する。
なんとなく解決する。
そして、森は元の状態に戻る。
社会学者エミール・デュルケームが言うところの
「日常の再生産」が、ここでは徹底されている。
“The essential function of society is to reproduce itself.”
「社会の本質的機能は、自らを再生産することにある」
百エーカーの森は、
まさにこの「再生産される世界」だ。
誰かが成長するわけでもなく、
価値観が更新されるわけでもない。
昨日と今日が、ほぼ同じ形で連なっていく。
この構造は、
ドラマとしては極めて弱い。
だが、安心感としては極めて強い。
2.2 「物語的時間」が存在しない世界
心理学の観点から見ると、
本作は「物語的時間」を極力排除している作品だと言える。
通常の物語は、
過去→現在→未来という直線的な時間を持つ。
成長、変化、喪失がそこに組み込まれる。
だが『クマのプーさん』では、
時間はほとんど流れない。
これは、
発達心理学で言うところの
前操作期の子どもの時間感覚に近い。
幼児にとって、
時間は連続した物語ではなく、
「今」の積み重ねでしかない。
プーたちの世界は、
まさにその感覚を忠実に再現している。
2.3 なぜ不安が生まれないのか
この映画を見ていて、
不安になる瞬間はほとんどない。
それはなぜか。
理由の一つは、
世界のルールが絶対に壊れないと、
観客が無意識に理解しているからだ。
誰も死なない。
誰も去らない。
誰も変わらない。
哲学者マルティン・ハイデガーは
人間の不安についてこう述べている。
“Anxiety reveals the nothing.”
「不安とは、無を露わにするものだ」
だが、百エーカーの森には「無」が存在しない。
常に、何かがそこにある。
仲間がいる。
語り手がいる。
世界は閉じている。
だから、不安が立ち上がらない。
2.4 物語が残らない、という正直な感覚
この構造の結果として、
観終わったあとに残るのは、
「楽しかった」という漠然とした感覚だけだ。
どの話が一番印象に残ったか、と聞かれると、
答えに詰まる人も多いだろう。
それは、
作品の質が低いからではない。
むしろ、
記憶に引っかかるための“棘”が意図的に取り除かれているからだ。
この映画は、
観る者の心に爪痕を残すことを目的としていない。
ただ、
そこにあること。
流れていくこと。
安心して眺められること。
それだけを、
徹底して守っている。
第3章 長編作品とは何をもって名乗れるのか
――時間ではなく、「思想」と「企画」の問題
クマのプーさんをめぐる最大の論点は、
結局ここに集約される。
これは、本当に「長編映画」なのか。
上映時間の基準だけを持ち出せば、
答えはイエスになる。
だが、それはあまりにも形式的だ。
映画というメディアにおいて、
長編であることは、
単なる尺の問題ではない。
3.1 映画史における「長編」の意味
映画史を振り返れば、
長編映画とは本来、
一つの思想や物語を貫徹するための形式だった。
D・W・グリフィスの『国民の創生』が象徴的だが、
長編化とは
「長くなった」のではなく、
「語れることが増えた」ことを意味していた。
登場人物が変化する。
価値観が揺らぐ。
観客の認識が更新される。
長編とは、
そうした変化のプロセスを内包する形式だ。
この定義に照らすと、
『クマのプーさん(1977)』は、
かなり異質な存在になる。
3.2 オムニバスは長編になり得るのか
もちろん、
オムニバス形式が長編になり得ない、
と言いたいわけではない。
重要なのは、
編集によって新たな意味が生まれているかどうかだ。
たとえば、
複数の短編が
「共通テーマ」「共通問題意識」によって再編成されるなら、
それは立派な長編だ。
社会学者ベネディクト・アンダーソンは
「想像の共同体」についてこう述べた。
“Communities are to be distinguished by the style in which they are imagined.”
「共同体は、それがどのように想像されるかによって区別される」
映画も同じだ。
複数の断片が、
一つの「想像の枠組み」に統合されているかどうか。
そこが分水嶺になる。
3.3 プーさんに欠けている「一本化」の意志
では、本作はどうか。
百エーカーの森という舞台は共通している。
キャラクターも一貫している。
だが、
それ以上の「一本化されたテーマ」は見当たらない。
友情について深めるわけでもない。
成長を描くわけでもない。
喪失を扱うわけでもない。
すべてが、
等しい重さで横に並べられている。
これは、
編集によって新しい意味を生むというより、
既存の意味を壊さないように並べた結果に近い。
つまり本作は、
「長編にするために再構築された」のではなく、
「長編として提示するためにまとめられた」作品なのだ。
3.4 ディズニーの事情を考慮すると見えてくるもの
ここで、
当時のディズニーの状況を無視するわけにはいかない。
1970年代後半、
スタジオは明確な過渡期にあった。
ウォルト・ディズニー亡き後、
大きな実験は避け、
安定したブランド価値の維持が優先される時代だ。
その中で、
プーというキャラクターは理想的だった。
危険がない。
尖っていない。
誰も傷つけない。
その意味で、
本作は「作品」というより、
ブランドの確立工程として機能している。
文化社会学的に言えば、
これは「物語の消費」ではなく、
「キャラクターの定着」を目的としたメディア展開だ。
3.5 それでも「長編」と呼ばれ続ける理由
ではなぜ、
私たちはこれを「長編」として受け取ってきたのか。
答えは単純だ。
ディズニーが、
そう呼んだからである。
権威ある語り手が
「これは長編だ」と宣言した瞬間、
それは文化的事実になる。
哲学者ミシェル・フーコーが言う
「言説の権力」が、
ここでも働いている。
“Discourse is not simply that which translates struggles or systems of domination, but is the thing for which and by which there is struggle.”
「言説とは、闘争を反映するものではなく、闘争そのものである」
『クマのプーさん(1977)』は、
長編か否かという議論そのものを飲み込んで、
「長編として存在してしまった」作品なのだ。
第4章 それでも魅力的な冒頭実写シーン
――子供部屋という、最小にして最大の宇宙
ここまでかなり辛口に書いてきたが、
それでも私は、本作を完全に切り捨てる気にはなれない。
理由は単純だ。
冒頭の実写シーンが、あまりにも強い。
クリストファー・ロビンの子供部屋。
柔らかい光。
床に転がる積み木。
棚に並ぶ本と、ぬいぐるみ。
その中に、
何気なく「彼ら」がいる。
プー。
ピグレット。
イーヨー。
この導入だけで、
本作は自分が何を描こうとしているのかを、
言葉を使わずに説明してしまう。
4.1 この物語は「ブンドド」である
この冒頭が優れている最大の理由は、
本作の物語が
一人の少年の想像遊び=ブンドドであることを、
一瞬で理解させてしまう点にある。
プーたちは、
どこかに実在する不思議な生き物ではない。
異世界の住人でもない。
子供部屋にある、
「ただのぬいぐるみ」だ。
発達心理学者ドナルド・ウィニコットは、
子どもの遊びについてこう述べている。
“It is in playing and only in playing that the individual child or adult is able to be creative.”
「遊びの中においてのみ、子どもも大人も創造的でいられる」
百エーカーの森は、
まさにこの「遊びの空間」だ。
現実でも幻想でもない。
その中間にある、
移行対象の世界。
4.2 なぜ子供部屋は、あれほど魅力的なのか
文化的に見ても、
子供部屋という空間は特別だ。
外の世界は、
ルールだらけで、
制限だらけで、
評価に満ちている。
だが、子供部屋は違う。
そこでは、
物に人格が宿る。
時間が伸び縮みする。
物語は、途中で止めてもいい。
フランスの哲学者ガストン・バシュラールは
『空間の詩学』の中でこう書いている。
“The house shelters day-dreaming, the house protects the dreamer.”
「家は白昼夢を庇護し、夢見る者を守る」
子供部屋は、
その最小単位の聖域だ。
本作は冒頭で、
この「守られた空間」を提示することで、
観客を一気に安全圏へ連れていく。
4.3 ノスタルジーは、物語よりも先に来る
重要なのは、
この実写シーンが
物語の説明ではなく、感情のスイッチとして機能している点だ。
誰もが思い出す。
あの頃の感覚を。
外の世界は広くて怖かった。
でも、自分の部屋は世界そのものだった。
小さな空間に、
無限の物語が詰まっていた。
社会学者フレドリック・ジェイムソンは
ノスタルジーについてこう述べている。
“Nostalgia is a mode of memory without guilt.”
「ノスタルジーとは、罪悪感を伴わない記憶の形式である」
この冒頭は、
観客に一切の責任を負わせない。
考えなくていい。
批評しなくていい。
ただ、思い出せばいい。
その優しさが、
この映画全体のトーンを決定づけている。
4.4 だからこそ、本編は強くならない
ここで、皮肉な結論に至る。
冒頭がこれほど完璧だからこそ、
本編はこれ以上、
強くならなくていい。
成長もいらない。
葛藤もいらない。
世界が変わる必要もない。
百エーカーの森は、
すでに完成している空間だからだ。
その結果として、
本作はドラマとしての推進力を失う。
だが同時に、
誰も傷つかない世界を守り切る。
このトレードオフは、
意図的だ。
第5章 ディズニーが描く狂気
――安心しきった世界に、突然現れる“無意識”
ここまで繰り返し述べてきた通り、
『クマのプーさん(1977)』は、
徹底して「安全な世界」を描く作品だ。
時間は進まない。
誰も変わらない。
世界は壊れない。
だが、その完璧なまでの安心設計の中に、
明らかに異質な瞬間が差し込まれる。
それが、
プーの空想――
象とイタチが入り乱れる、
あの奇妙なシークエンスだ。
5.1 また象かよ、という誤解
ディズニーのサイケデリック表現と聞いて、
真っ先に思い浮かぶのは
『ダンボ』のピンクの象だろう。
あまりにも有名で、
語り尽くされた存在だ。
だからこそ、
本作の象の登場は軽く見られがちだ。
「また象ね」
「既視感がある」
だが、
ここで描かれている狂気は、
ダンボとは質が違う。
5.2 これは“祝祭”ではなく“不安”のイメージだ
『ダンボ』の象は、
恐怖でありながらも、
どこか祝祭的だった。
色彩は派手で、
リズムは高揚感に満ち、
破壊的だが解放的でもあった。
一方、
『クマのプーさん』の象とイタチは違う。
音楽はどこか不穏で、
メロディは落ち着かない。
画面は歪み、
プーは翻弄され続ける。
ここにあるのは、
楽しさではなく、制御不能感だ。
精神分析の文脈で言えば、
これはフロイト的な「無意識の侵入」に近い。
“The unconscious is structured like a language.”
(無意識は言語のように構造化されている)
このシークエンスは、
物語的意味をほとんど持たない。
だが、感覚的には強烈だ。
5.3 なぜここだけ、こんなにも不安なのか
理由は単純だ。
この映画の世界では、
通常、
「想像」は安全なものとして描かれている。
子供部屋。
ぬいぐるみ。
ブンドド。
だがこのシーンでは、
想像がプー自身を攻撃する。
空想が暴走し、
主体を飲み込む。
これは、
発達心理学的に見ても興味深い。
幼児期において、
想像は遊びであると同時に、
不安の源にもなり得る。
制御できないイメージは、
恐怖に直結する。
本作は、
その「危うさ」を一瞬だけ露出させる。
5.4 アニメーションにだけ許された空間
この種の表現が成立するのは、
CGが存在しない時代の手描きアニメーションだからだ。
形は溶け、
空間はねじれ、
法則は簡単に無効化される。
これは、
現実の再現ではなく、
心象の可視化である。
だからこそ、
観客は困惑しつつも、
目を離せない。
何を見せられているのか分からない。
だが、
確かに「何か」を見ている。
この感覚は、
現代の整理されたアニメーションでは、
なかなか再現されない。
5.5 なぜこの狂気は、語られないのか
興味深いのは、
このシーンが
本作の評価において、
ほとんど語られない点だ。
理由は明白だ。
映画全体が、
この狂気を受け止める構造を持っていないからだ。
世界はすぐに元に戻る。
誰も記憶しない。
何事もなかったかのように、
日常が再開される。
この狂気は、
物語の推進力にならない。
テーマにもならない。
だから、
観客の記憶からも滑り落ちる。
だが、
それでも確かに存在する。
そして私は、
この「語られない狂気」こそが、
本作で最も面白い瞬間だと思っている。
第6章 商標権にまつわる闘争
――なぜ「黄色いクマに赤いシャツ」は、特別なのか
『クマのプーさん(1977)』という作品を語るとき、
避けて通れないのが、
映画そのものよりも、キャラクターとしてのプーの巨大さである。
はっきり言ってしまえば、
本作は映画史的に見て、
突出した傑作ではない。
だが、
プーという存在は、
ディズニー史の中でも屈指の「稼ぐキャラクター」だ。
ここには、
作品評価とは別軸の力学が働いている。
6.1 プーは「物語」より先に「商品」になった
社会学者テオドール・アドルノは、
文化産業についてこう述べている。
“Culture today is infecting everything with sameness.”
「現代の文化は、あらゆるものを同質化していく」
プーというキャラクターは、
まさにこの「同質化」によって拡張していった存在だ。
映画。
絵本。
ぬいぐるみ。
文房具。
ベビー用品。
プーは、
物語を知らなくても成立する。
それどころか、
物語を知らない方が、消費しやすいキャラクターですらある。
これは、
ミッキーマウスとも少し違う。
ミッキーには「ショーのスター」という文脈がある。
ドナルドには「怒りっぽい負け犬」という性格がある。
だが、プーは違う。
性格は、
「優しい」「ぼんやりしている」「害がない」。
それだけでいい。
6.2 赤いシャツは、法的境界線である
現在、
A・A・ミルン原作の『Winnie-the-Pooh』は、
パブリックドメインとなっている。
つまり、
理論上は誰でもプーを使える。
実際、
近年ではプーを題材にした
かなり攻めたホラー映画まで制作された。
だが、
そこには明確な一線がある。
赤いシャツを着た、黄色いクマ。
これは、
ディズニーだけが使用できる造形だ。
ここで問題になるのが、
著作権と商標権の違いである。
著作権は時間とともに消える。
だが、
商標権は「使用し続ける限り」更新され続ける。
ディズニーは、
プーを「物語」ではなく、
視覚的記号として管理することで、
その独占性を維持してきた。
6.3 キャラクターは「法的存在」になる
法社会学の視点から見ると、
プーはもはや単なる架空の存在ではない。
彼は、
契約され、
保護され、
争われる。
言い換えれば、
法的主体に近い扱いを受けている。
哲学者ジャン・ボードリヤールは
シミュラークルについてこう述べた。
“The simulacrum is never that which conceals the truth—it is the truth which conceals that there is none.”
「シミュラークルは真実を隠すものではない。真実そのものが、何も存在しないことを隠している」
プーは、
原作から離れ、
映画からも離れ、
最終的には
「赤いシャツの黄色いクマ」という記号だけが残った。
そこに、
語るべき物語は、
もはや必要ない。
6.4 だからこそ、本作は“弱い”
ここで、
ようやく本作の評価に戻る。
『クマのプーさん(1977)』が
「特別な語るべき要素を持たない一作」に見えるのは、
偶然ではない。
この作品は、
キャラクターが物語を必要としなくなった時代の入口に立っている。
物語がキャラクターを生むのではない。
キャラクターが、
物語を従える。
その結果、
映画は無害になり、
安全になり、
強度を失う。
だが同時に、
市場では圧倒的な強さを持つ。
これは失敗ではない。
役割が違うだけだ。
6.5 総括:語るべき要素を持たない、という価値
私はこの作品を、
傑作だとは思わない。
だが、
軽視すべき作品だとも思わない。
『クマのプーさん(1977)』は、
ディズニーが
「物語中心主義」から
「キャラクター中心主義」へと
明確に舵を切ったことを示す、
重要な通過点だ。
語るべき要素を持たない。
だが、
語られ続ける存在を生んだ。
その意味で本作は、
映画としてよりも、
文化史の資料として、
極めて示唆的なのである。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
語りたい映画なんて尽きることない!
エピソードの公開は毎週or隔週となります。
ご感想は是非 #リルパル #ReelPal でツイートをお願いします。
いただいたツイートは番組の中で取り上げることがあります。
テーマトーク投稿フォームはこちら↓
直接のメッセージを送る場合はこちらまで↓
yomoyamakobanashi@gmail.com
これからも番組をよろしくお願いします。
