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【#映画感想文】聖なる鹿殺し 呪いに手順がある映画は、ホラーじゃなく悲劇だ byオーマ 【#Podcastエピソード紹介】

Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。

毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。

なお番組の最新エピソードご聴取はこちらよりどうぞ↓


序章 マーティンは、怒っていない

スティーブンの腕時計を褒め、スパゲッティの作り方を聞き、自分の父の話をする。声は穏やかで、表情はほとんど変わらない。この少年が怖いのは、怒っていないからだ。憎んでいる様子がない。要求しているわけでもない。ただ、いる。そしてある日、宣告する。

「あなたの家族が、順番に症状を発症し、死んでいく。止める方法は一つしかない」

そこに恨みのエネルギーはない。感情の爆発もない。あるのはただ、ルールの提示だ。

この映画を初めて観た人の多くが「マーティンが怖い」と言う。でも私が怖かったのは別のことだった。あの呪いが、あまりにも整然としていることが怖かった。

段階がある。手順がある。解除条件まで、最初から用意されている。

これは怨念の映画じゃない。そう気づいたとき、この作品の見え方が全部変わった。

陰陽道という言葉を聞いたことがあるだろうか。安倍晴明、陰陽師、そういうワードは馴染みがある人も多いと思う。ただ、陰陽道の本質を一言で言えば「感情じゃなくて、秩序の話だ」ということになる。

この世界には目に見えない配列がある。陰と陽、五行、方位、時間、気の流れ。それが乱れたとき、現実に歪みが生じる。呪いとはその歪みに形式を持って介入し、乱れた均衡を回収しようとする仕組みのことだ。怒りを飛ばすものじゃない。冷静に、手順を踏んで、秩序に働きかけるもの。

だからこそ、あの呪いは整然としていたのだ。

『聖なる鹿殺し』を陰陽道の文脈で読むと、あの映画の不気味さの輪郭がくっきりする。マーティンが怖いのではなく、スティーブンがずっと間違った文法で戦い続けていることが怖い。呪いを医学で処理しようとし、心理の問題として片付けようとし、暴力で止めようとした男が選ぶ結末。その必然の構造が、陰陽道を通して見ると、ホラーではなく悲劇として見えてくる。

そしてもう一つ。この映画には、スティーブンが本来頼るべきだった専門家がいた。医師でも弁護士でも精神科医でもない。見えない秩序の乱れを読み、正しい形式で介入できる者。その話も、後半でする。

ヨルゴス・ランティモスの映画は、いつも「おかしい」。でもこの映画の「おかしさ」は、他の作品とは種類が違う。ルールがあって、手順があって、解除条件がある。その整合性を持った「おかしさ」は、むしろ怖い。それがどこから来ているのかを、陰陽道という補助線を使って読み解いていく。

第1章 呪いは、冷たい

陰陽道の話をする前に、一度「呪い」のイメージをリセットしてほしい。

怨念とか、恨みのエネルギーとか、念を飛ばすとか。そういう言葉が浮かんだら、いったん全部横に置いてほしい。陰陽道における呪いは、そういうものじゃない。感情の話じゃない。もっと冷たい。

陰陽道の世界観では、この世界には目に見えない秩序がある。陰と陽、五行、方位、時間、穢れ、気の流れ。それらが組み合わさって、世界は動いている。「陰と陽」はわかりやすい。太陽と月、昼と夜、生と死。対になるエネルギーが世界を構成している。「五行」は、木・火・土・金・水という五つの要素が互いに生み出し、抑制し合う関係のこと。木が燃えて火になり、火が燃えた後は土になる。そのサイクルで世界が動いている。

重要なのは、このすべてが「感情」ではなく「配列」の話だという点だ。あいつが好きか嫌いか、ではない。世界の配列がどう乱れ、どう整えられるか。陰陽道において、感情は二次的なものでしかない。

その中で「呪」とは何かというと、言葉・儀礼・名指し・形式を通じて、見えない秩序に介入し、現実に作用を及ぼすものだ。

呪いの本質は感情の爆発ではなく、秩序への働きかけ。「ムカついたから念を飛ばす」ではなく、「秩序の乱れに対して、正しい形式で介入する」。もう少し噛み砕くと、呪いとは乱れた秩序を「拘束」するものだ。誰かに代償を要求し、あるルールを現実に執行する力として働く。

だから呪いには、手順がある。形式がある。そして条件がある。

安倍晴明が怖いのは、性格が悪いからではない。感情を排して秩序に介入できる技術を持っているからだ。怒っているから強い、ではなく、冷静だから強い。呪いを扱える者とは、感情をコントロールできる者ではなく、そもそも感情を介在させない者のことを指している。

熱くない。冷たい。

この感覚を持っておくと、マーティンという人物の見え方が変わる。彼が怖いのは、憎んでいるからでも、狂っているからでもない。あまりにも冷静に、ルールを提示しているからだ。感情ではなく、形式として。

「感情じゃなく秩序」「熱くなく冷たい」。

この二つを頭に入れた上で、次章では映画の中の呪いそのものを見ていく。段階的な発症、解除条件、等価交換の論理。あの呪いがいかに陰陽道的な構造を持っているか、具体的な演出から読み解いていく。

第2章 手順通りに、壊れていく

映画の中の呪いを、もう一度整理する。

マーティンが宣告する内容は三つだ。家族が段階的に発症すること。歩けなくなり、食べられなくなり、出血し、死ぬ。その順番は変わらない。解除条件は一つだけ。スティーブンが自分の手で、家族の誰か一人を殺すこと。そしてそれは、実際に起きる。

まず「段階的な発症」という点から考えたい。

感情的な呪いというものを想像すると、もっと無秩序なはずだ。恨みのエネルギーが降り注ぐような、制御のきかない暴力として。でもこの映画の呪いには、明確な順番がある。誰か一人が先に歩けなくなる前に、別の誰かが出血したりしない。全員が、同じ手順で進行していく。

これは儀礼の構造だ。

陰陽道の祭祀や呪術は、手順を踏むことで効力を持つ形をとる。この順番でこれをして、次にこれをして、それで初めて作動する。映画の呪いも、その構造と完全に重なっている。感情で動いていたら、こんなに几帳面にはならない。儀礼だから、手順通りに進む。

次に「解除条件」について。

ここが最も重要な点だと思っている。解除条件がある、ということは、この呪いが設計されているということだ。誰かの怒りが暴走しているものではなく、最初からルールとして発動している。

そのルールの中身を見てほしい。「スティーブンが自分の家族の誰か一人を自分の手で殺す」。これは等価交換の論理だ。マーティンの父が死んだ。その死はスティーブンの行為によるものだった。だから、スティーブンが自分の家族を死なせることで均衡が戻る。「お前が悪い」という感情的な糾弾ではなく、「失われた分を埋めろ」という、冷静な請求書として機能している。

この映画は、よく見ると怨念の映画ではない。均衡回復の映画だ。

法の世界なら、過失の度合いを問い、説明責任を問い、賠償を問う。でもこの映画はそこをすり抜けて、もっと根っこの話をしている。問われているのは「どれだけ悪いか」ではなく、「失われたものを何で埋めるのか」。近代的な責任の話ではなく、神話的・儀礼的な責任の話だ。スティーブンは単にミスを犯した医師として扱われているのではなく、秩序の破綻を生じさせた者として扱われている。だから謝罪でも、理屈でも、お金でも済まない。

ここで一つ、この映画の本当の不気味さに触れておきたい。

スティーブンは最初から最後まで、この呪いを医学と心理と暴力で処理しようとする。検査して原因を探す。精神的なものではないかと疑う。マーティンを監禁して止めさせようとする。全部、近代の文法だ。原因と結果の世界の話。

でも起きていることは、そうじゃない。秩序の均衡を回収するためのルールが発動している。だからどの医者に診せても異常なしになる。医学の問題ではないから、当たり前だ。

マーティンが怖いのではなく、スティーブンがずっと間違った文法で戦い続けていることが怖い。正しい問いを立てられていないから、正しい答えに永遠にたどり着けない。これはホラーではなく、悲劇の構造をしている。

第3章 知ってしまった瞬間から始まる

この映画で、家族の中で一番発症が遅いのは誰か。

母親だ。子どもが二人いて、二人とも先に発症する。でも母親はしばらく大丈夫な状態が続く。これを「子どもの方が体が弱いから」と読むのは、少し違う気がしている。

母親はこの映画の中で、最後まで「状況を管理可能なものとして扱おうとしている」人物だ。夫を支えようとし、家庭の秩序を維持しようとし、呪いのルールを全面的には受け入れない。信じていないのではなく、信じまいとしている。その姿勢が、呪いの進行を遅らせているように見える。

逆に言えば、呪いは「知らないと無効」なのではなく、「これは本当に作動しているルールだ」と受け入れたところから一気に加速する。

子どもたちは、マーティンのことをちゃんと見ている。大人のように「こいつは心理的に不安定だ」とフィルタリングしない。マーティンが言ったことを、もしかしたら本当のことかもしれないとして受け取れる余白がある。だから呪いの文法に、早く乗ってしまう。

これは陰陽道の「名指し」と「宣告」の話と重なる。陰陽道の呪術において、名前を呼ぶこと、形式を整えること、それが相手に届くことで初めて効力を持つ。宣告された瞬間に完成するのではなく、認識が浸透することで加速する。

少し遠いたとえだが、「鬼門」という概念がある。北東の方角が縁起悪いとされるあれだ。鬼門を知らない人は、北東に窓を作っても何も思わない。知ってしまった人は、その窓が気になり始める。陰陽道的に言えば、気になった瞬間から、その人にとっての鬼門が発動し始める。知らないと無効なのではなく、知ったことで有効になる。

映画の呪いも、この構造と同じだ。家族が「これは本物だ」と受け入れるにつれて、呪いは生活全体を支配し始める。

ここで一つ、重要な読み方が生まれる。

認識の浸透が起きる前に介入できれば、呪いの完成を遅らせるか、あるいは止められるかもしれない。呪いの文法を知っている者が、「今はまだ認識が固まっていない、介入できる」と判断できれば、話は変わっていた可能性がある。

スティーブンの周囲にそういう人間はいなかった。医師がいた。同僚がいた。でも呪いの文法を知っている者は、誰もいなかった。

終章 スティーブンに必要だったのは、京都だった

スティーブンが最終的に選んだのは、くじ引きだった。

目隠しをして、銃を持って、家族を一列に並べて、回転して、引き金を引く。そこに意志はない。神への委託でも、覚悟の表明でもない。ただ、選べなかった男が、選択を乱数に投げた。その結末として息子が死ぬ。

この終わり方を「救い」と呼ぶ人もいる。家族三人が生き残ったから。でも私にはそう見えなかった。スティーブンは最後まで、呪いの文法を理解しないまま終わった。正しい問いを立てられないまま、最悪に近い形で解除条件を実行した。それを「救い」と呼ぶのは、少し違う。

土御門家という存在がある。

安倍晴明の子孫にあたるとされる家系で、江戸時代まで国家公認で陰陽道を取り仕切っていた。全国の陰陽師を管理・認定する権限を持ち、見えない秩序の乱れをどう読み、どう介入するかを専門知識として持ち続けてきた一族だ。その仕事は「予防」と「介入」の両方にわたる。秩序の乱れが起きないよう事前に動き、すでに乱れが生じたときには儀礼によって均衡を回復させる。

スティーブンに必要だったのは、この専門家だった。

スティーブンが犯したことを、陰陽道の文脈に直すとこうなる。秩序の破綻を引き起こした者が、その代償を認めなかった。手術中に飲酒していたかもしれない。患者が死んだ。しかし彼はそれを認めなかった。陰陽道的に言えば、これは穢れを放置した状態だ。穢れとは単に「汚い」ということではなく、本来あるべき状態から逸脱した、整えられていない状態のこと。そしてその穢れを認めずに放置することが、さらなる穢れを生む。

スティーブンはマーティンに、ものを渡し続けた。お金、食事、時計。全部ズレている。必要なのは「心理的に不安定な少年に優しくすること」ではなく、「壊してしまった秩序を、正しい手順で認め、正しい手順で代償を示すこと」だったから。

土御門家ならこの状況に、別の選択肢を提示できた可能性がある。

陰陽道の歴史を見ると、直接の代償の代わりに儀礼的な形式で均衡を回収する事例はいくらでもある。「命で命を埋める」以外の方法が、あったかもしれない。スティーブンが最悪の選択肢しか持てなかったのは、他の選択肢を知る専門家に、最後まで出会えなかったからでもある。

呪いを医学の問題として処理しようとしたこと。マーティンを心理的に不安定な少年として処理しようとしたこと。呪いの文法を最後まで理解しようとしなかったこと。スティーブンの失敗はこの三つに集約される。そしてその全てが、間違った専門家に頼り続けたことから来ている。

この映画が怖いのは、呪いが理不尽だからではない。

呪いには筋が通っていた。手順があり、ルールがあり、解除条件まであった。怖いのはむしろ、その筋の通った呪いに対して、スティーブンが一度も正しい問いを立てられなかったことだ。医学で読もうとし、心理で読もうとし、暴力で止めようとした。全部、近代の文法だった。

でも起きていたのは、もっと古い話だった。失われた均衡を、誰かが回収しなければならないという、神話的な秩序の話。

マーティンは怒っていなかった。ただ、ルールを執行していた。

スティーブンはその冷たさに、最後まで気づけなかった。



podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#ポケ沼⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。

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