【#映画感想文】 北の国から 概論 答えが出ない人生を、21年間 byオーマ 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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序章 この人は、次に何をするんだろう
北の国からを見ているとき、私たちはずっと誰かの「続き」を待っている。
五郎が次に何を選ぶのか。純が今度はどこで転ぶのか。蛍がこの先どんな顔をするのか。ドラマとしての「物語」を追っているというより、もっと手触りの違う何かをしている感覚がある。うまく言えないが、それは「人を見ている」という感覚に近い。架空の人物であることはわかっている。それでも、五郎が黙って何かを作り始めると、なぜそうするのかが気になって目が離せなくなる。純が誰かを傷つけると、なぜこの男はいつもこうなのかと思いながら、次の行動を待ってしまう。蛍が何かを受け入れる顔をするとき、その受け入れ方の意味を、見ながら考えてしまう。
この「気になり方」は、通常のドラマの見方と少し違う。
多くのドラマは、主人公が何をするかを見せる。目的があり、障害があり、それを乗り越えるかどうかが物語の推進力になる。北の国からにも当然そういう構造はある。しかしこのドラマで私たちが引きつけられているのは、目的の達成よりも、人物がある局面でどういう振る舞いを選ぶかという、もっと細かい部分ではないかと思う。五郎は何かを成し遂げようとしているというより、ただその日その日を、自分の性分のまま生きている。純は成長しようとしているというより、失敗と後悔を繰り返しながら、それでも何かに向かっている。蛍は強くなろうとしているのではなく、傷つきながらも自分の感じ方を手放さないでいる。
そういう人物たちの前に立ったとき、私たちは自然と「この人の行動には、どんな意味があるのか」を考え始める。
そしてこのドラマの厄介なところは、その意味がすぐには渡されないことだ。五郎がなぜあの選択をしたのかは、何年かあとの純の言動の中でようやく輪郭が見えてくる。純の失敗の意味は、蛍の目を通して初めて像を結ぶことがある。ひとりの人間の行動の意味が、別の人間の時間の中で遅れて届く。北の国からという作品が20年以上の時間をかけて描いたのは、まさにこの「遅れて届く意味」の積み重ねだったと思う。
人の人生を見つめるとは、そういうことではないだろうか。その場では判断できない。時間が経って、その人がどこへ向かったかを知って初めて、あの行動が何だったのかがわかる。このドラマはそれを、三人の人間の時間を並走させることで体験させる。
第1章 三人は、それぞれ別の言語を話している
五郎は、作る。
言葉が出てこないとき、五郎は手を動かす。廃材を拾い、土を掘り、電気のない家に少しずつ何かを足していく。それは器用さの話ではない。むしろ五郎は不器用だ。作ったものが壊れることもある。計算が狂うこともある。それでも手を動かすことをやめない。誰かに何かを伝えたいとき、謝りたいとき、愛情を示したいとき、五郎が選ぶのはいつも「作ること」「直すこと」「そこにいること」である。五郎にとって行動は言語だ。そしてその言語は、受け取る側にすぐには解読されない。
純は、ぶつかる。
純の行動の選び方は、五郎とほぼ正反対に見える。純は言葉を持っている。感情を言語化しようとする。しかしその言葉は、制御される前に外へ出る。怒りがそのまま父への反発になる。後悔がそのまま自己嫌悪になる。愛情がそのまま相手を傷つける形になる。純の人生を見ていると、この男は何度同じことを繰り返すのかという気持ちになる。なるのだが、目が離せない。なぜかといえば、純は転ぶたびに何かを感じていて、その感じ方が毎回少しずつ違うからだ。成長しているのかどうかはわからない。ただ、同じ場所で同じように転んでいるようでいて、その転び方に微妙な変化がある。それを見続けてしまう。
蛍は、受け止める。
蛍の行動の選び方は、五郎とも純とも違う。蛍は何かをしかけるより、目の前に起きたことを受け止めることが多い。父の選択を、兄の失敗を、自分の周囲で起きる痛みを、蛍は逃げずに正面から受け取ろうとする。泣く。それでも受け取る。この「受け取り方」の強さが、蛍という人物の核にある。弱さではない。むしろ蛍の受け止める力は、このドラマの中でひとつの基準点として機能している。蛍が何かを受け入れる顔をするとき、視聴者はそれを通して、その出来事の重さを測っている。
三人の「行動の言語」はこれほど違う。そしてこの違いが、同じ出来事を複数の角度から照らす。五郎が黙って何かをする。純がそれに怒鳴る。蛍がその両方を見ている。同じ場面に三つの視点が入ることで、どの視点も単純な正解にならない。見ている側は、誰かに肩入れしながら、別の誰かの言い分も捨てられなくなる。
第2章 変わらない人と、変わってしまった人
北の国からは、時間が長い。
1981年から2002年まで、21年間にわたって三人の人生を追い続けたドラマだ。その時間の長さは、単なるシリーズの継続ではない。このドラマにおける時間は、それ自体が人物を変え、あるいは変えないための装置として機能している。
五郎は、変わらない。
これは批判ではない。五郎は21年間、本質的に同じ人間であり続ける。作ることで愛情を示し、言葉を持たず、自分の信じる生き方を曲げない。時代が変わっても、子どもたちが成長しても、五郎の行動の選び方は揺れない。普通ならそれは頑固と映る。しかし長い時間をかけて見ていると、この変わらなさが次第に別の意味を帯びてくる。五郎が変わらないから、純と蛍の変化が際立つ。五郎という固定点があるから、二人がどこへ動いたかが見える。変わらない人間が、変化を測る基準になっている。
純は、変わろうとして、手前で止まる。
純の21年間を見ていると、この男は変わりたいと思い続けている人間だとわかる。父のようにはなりたくないと言いながら、気づけば似たような選択をしている。誰かを傷つけまいと思いながら、また傷つける。それを純の限界と見ることもできる。しかし別の見方もある。純が変われないのは、純が本気で何かに向き合い続けているからではないか。器用に自分を変えられる人間は、ある意味で傷つき方が浅い。純は毎回深く傷つく。だから時間がかかる。その不器用な時間の重さが、純という人物をこれほど忘れられなくする。
蛍は、変わることを恐れない。
三人の中で、蛍の変化が最も静かで、最も遠くまで届く。蛍は純のように変化に抵抗しない。五郎のように変化を無視しない。目の前の現実を受け取り、それに合わせて自分の形を少しずつ変えていく。しかしその変化は迎合ではない。蛍が変わるとき、その根っこにある感じ方は変わっていない。傷つくことを恐れない姿勢、誰かの痛みを自分のこととして引き受ける力、それは蛍が子どもだった頃から一貫している。変わり方の中に、変わらないものがある。
第3章 見ている人と、見られている人
このドラマには、視線の非対称がある。
五郎は純と蛍を見ている。純は五郎を見ている。蛍は五郎も純も見ている。しかしその見方は、それぞれまったく違う。誰かが誰かを見るとき、その視線には見る側の人生が滲み出る。北の国からという作品は、この視線の交わり方を通じて、三人の関係の核を少しずつ露わにしていく。
五郎が子どもたちを見るとき、その視線には言葉にならない何かが混じっている。
純や蛍が失敗するとき、五郎は責めない。責めないのではなく、責めるという回路が五郎にはほとんどない。ただ見ている。その「ただ見ている」という姿勢が、純には重かった。責められないほうが、時として責められるより苦しい。五郎の沈黙の視線を前にして、純は自分で自分を裁くしかなくなる。五郎は何もしていない。しかし五郎の見方が、純の内側に何かを起動させる。これが親子というものの怖さであり、このドラマがそれを説明なしに見せてくるところに、北の国からの誠実さがある。
純が五郎を見るとき、その視線には長い葛藤がある。
純は父を批判する。なぜこんな場所に連れてきたのか、なぜもっとまともな暮らしができないのか、なぜ何も言わないのか。しかし純が五郎から離れられないのは、その批判の裏に、解読したいという欲望があるからだと思う。五郎の行動の意味を、純はずっと知りたがっている。父が何を考えているのか、あの選択に何があったのか、純にとって五郎は生涯かけて読み解こうとした「問い」のような存在だ。批判は、読めないことへの苛立ちでもある。
蛍が二人を見るとき、その視線は最も広い場所に置かれている。
蛍は五郎を責めない。純を見捨てない。どちらかに肩入れして、もう一方を切り捨てるということをしない。この「どちらも見続ける」という蛍の視線の在り方が、このドラマ全体を支えている構造でもある。五郎と純がすれ違うとき、蛍はその両方の言い分が見えている。どちらが正しいとも言わない。ただ、二人それぞれの痛みを、自分の中に同時に置いておく。それは感情的な中立ではなく、両方を本気で引き受けているということだ。
見る、ということは、関わるということでもある。
このドラマを21年間見続けてきた視聴者もまた、ある意味で同じことをしてきたのではないかと思う。五郎の行動に苛立ち、純の失敗に呆れ、蛍の受け取り方に胸を突かれながら、それでも見続けた。その「見続けた」という事実の中に、人の人生を見つめるということの本質が宿っているような気がする。
終章 人の人生に、答えは出ない。それでも見てしまう
北の国からは、終わり方が静かだ。
2002年の「遺言」で、このドラマは幕を閉じる。劇的な解決があるわけではない。五郎が何かを成し遂げて終わるわけでもない。純が完全に変わるわけでもない。蛍が全てを受け入れて微笑むわけでもない。それぞれが、それぞれの続きを生きていくだろうという気配だけを残して、画面は暗くなる。見終わったあとに残るのは、達成感ではなく、もっと静かな何かだ。
その静けさの正体を、私はずっと考えていた。
ひとつ思うのは、このドラマが最後まで答えを出さなかったということだ。五郎の生き方は正しかったのか。純の人生は何だったのか。蛍の受け取り続けた痛みは、何かに変わったのか。北の国からはこれらの問いに、明確な答えを渡さない。渡さないまま終わる。しかしそれが欠落に感じないのは、21年間かけて三人の時間を見てきた視聴者の中に、すでに何かが積み重なっているからだと思う。答えは出ていないが、問いの重さは十分に伝わっている。
人の人生を見つめるとは、答えを求める行為ではないのかもしれない。
私たちは五郎を見ながら、なぜあの選択をしたのかを考えた。純を見ながら、なぜこの男はこうなのかと思った。蛍を見ながら、この人はどこまで引き受けるのかと息を詰めた。その「考えた」「思った」「息を詰めた」という経験が、見る側の中に蓄積されていく。それはドラマの感想ではなく、もっと個人的な何かだ。三人の人生を見ながら、いつのまにか自分の人生の問いに触れていたという経験に近い。
このドラマが長く愛されているのは、感動的だからではないと思う。
北の国からは、見る側に仕事をさせる。五郎の沈黙の意味を、自分で考えさせる。純の失敗をどう見るかを、自分で決めさせる。蛍の受け取り方の何が強さなのかを、自分の言葉で掴ませる。答えを渡されないから、見る側は考え続けるしかない。そしてその「考え続ける」という経験が、このドラマを見た時間を、単なる視聴体験以上のものにする。
人の人生を見つめることに、終わりはない。
五郎はもう画面の中にいない。純も蛍も、2002年以降の時間を私たちは知らない。しかし見てきた時間の中で積み重なった問いは、消えない。あの選択は何だったのか、あの沈黙には何があったのか、という問いは、答えが出ないまま見た側の中に残り続ける。それがおそらく、北の国からというドラマが人に与える最も本質的なものだ。答えではなく、問いを残すこと。その問いが、見た人間の時間の中で、静かに生き続けること。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
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