【#映画感想文】アラジン 善意だけがあって、統治の意志が伴わなかった王の話 byオーマ 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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序章 おもちゃを並べた王が、ついぞ持たなかったもの
アラジンはランプの魔人に三つの願いを頼む。ジャスミンは自由を求めて宮殿を抜け出す。そしてジャファーは、魔法のランプと王位を欲しがる。この映画に登場する人物はみな、何かを求めて動く。
ひとりを除いて。
サルタンである。
彼の部屋には機械仕掛けのおもちゃが所狭しと並んでいる。象、鳥、小さな動物たち。サルタンはそれらを嬉しそうに動かし、娘との話の途中でもそちらに目をやる。初見では「愛嬌のある王」に映る。だが少し視線を変えると、奇妙な光景が浮かぶ。国王がその手で動かしているのは、国の政ではなく、部屋のおもちゃだということだ。
ジャファーと並べると、この対比はより鮮明になる。ジャファーは常に「次の手」を考えている。魔法のランプの所在、王への接近経路、ジャスミンの婚姻問題に潜む利用価値。彼は悪役として描かれているが、その思考の構造は統治者のそれに近い。少なくともこの映画の中で、「いま何が起きているか」を把握しているのはジャファーだけだ。アグラバーという国が外とどう向き合い、何を守り、誰が脅威であるかを、常に計算しているのは彼だけである。
ここに、この映画が表向き語らない問いが潜む。サルタンは、果たして王だったのか。
彼はジャファーの蛇の杖で繰り返し催眠にかけられる。娘の結婚相手を決めようとするが、その根拠は「法律がそう定めている」という一言だけで、自ら判断を下した形跡はほとんどない。映画を通じて、サルタンがアグラバーの統治について語る場面は極端に少ない。民の暮らしでも、外交でも、財政でもない。あるのは、娘への甘い愛情と、おもちゃを前にしたときの無邪気な笑顔だけだ。
では彼は何を失ったのか。いや、問いはもう一歩手前にある。
彼はそもそも、何かを持っていたのだろうか。
第1章 奪われた王と、奪う価値があったもの
ジャファーが王位を手に入れる場面を、もう一度丁寧に見てほしい。
魔人に命じて「スルタンにする」と告げたとき、ジャファーの顔には確かな満足がある。長年の計画が成就した瞬間として描かれている。だが画面をよく観ると、奇妙なことに気づく。彼が奪い取ったはずの「王位」の中身が、ほとんど何も映し出されないのだ。玉座に座り、豪奢な衣を纏い、サルタンを道化のように扱う。あるのは権威の形だけで、統治の実質は一切描かれない。
これはジャファーの欲望を批判しているのではない。この映画がそもそも「王権の中身」に関心を持っていないということだ。
ではサルタンから見直してみる。彼は映画の中で、国王として何を決断しているか。
婚姻法の問題では、「法律だから」と繰り返すだけで、法律を変える発想をみずから持つことはない。ジャファーへの信頼については、繰り返し魔法で操られているためその判断力を測ることはできないが、逆に言えば、操られていない状態でジャファーの本質を見抜いた形跡もない。民への眼差しについては、映画を通じて一度も描かれない。アグラバーの市場で暮らす人々——アラジンが走り回り、ジャスミンが初めて地面を踏んだあの場所——を、サルタンが気にかける台詞は存在しない。
サルタンが動くのは、ほぼ娘のことだけだ。
ジャスミンへの愛情は本物である。それは疑いようがない。彼女が不満を抱えていることを知っているし、幸せになってほしいとも思っている。だが、その愛情の向け方は一貫して受け身だ。ジャスミンが怒れば困った顔をし、ジャスミンが泣けば慌てる。彼女の側に立って制度と交渉するのではなく、現状に困惑したまま娘と法律の間で揺れ続ける。愛しているが、動かない。
ここで冒頭の問いに戻る。ジャファーが奪ったものは何だったのか。
玉座と権威と、アグラバーという名前だ。だがそれ以前に、サルタンがその玉座で何をしていたかといえば——おもちゃを動かし、娘を心配し、ジャファーに操られていた。統治の意志という点では、ジャファーが「奪った」ものはほとんど空白に近かった。
これをサルタンの無能として切り捨てるのは、少し惜しい。
彼はおそらく、悪い人間ではない。娘を愛し、争いを好まず、人を傷つけることを望まない。その温かさは本物だ。ただ、「国王である」という役割の重さを、彼自身が一度も正面から引き受けた様子がない。王位は、彼にとってもまた、与えられた衣装のようなものだったのかもしれない。
第2章 姫は市場を知っていた、王は知らなかった
ジャスミンが宮殿を抜け出す場面は、「自由を求める姫」の物語として語られることが多い。だがあの脱出の動機を、彼女自身の言葉で確認してほしい。
彼女は「外に出たかった」のではなく、「外を知りたかった」のだ。
市場に降り立ったジャスミンは、物乞いの子どもがパンを盗む場面を目にして、迷わず果物を差し出す。それが盗品だと気づかぬまま。この無知は批判できない。そもそも彼女は、市場の値段も、民の暮らしも、何も知らない場所で育てられた。だがその無知の中に、ひとつ確かなものがある。彼女は子どもの空腹を見て、即座に動いたということだ。理屈より先に体が反応した。
宮殿に戻ったジャスミンは父に言う。「外の人たちのことを何も知らなかった」と。
サルタンは何と答えるか。困った顔をして、娘の安全を心配する。アグラバーの市場で何が起きているかではなく、娘が危険な目に遭ったことを案じる。愛情として読めばその通りだ。だが統治者の反応としては、致命的にずれている。
この映画の中で、城壁の外を実際に見た王族はジャスミンだけだ。
彼女はジャファーの振る舞いにも早くから違和感を持っている。父がジャファーを信頼し、言いなりに近い状態でいる中、ジャスミンだけが「あの人は信用できない」と繰り返す。根拠を言語化できているわけではない。だが彼女の不信感は、この映画の中で唯一正しい人物評価だ。論理ではなく、直接観察から来ている。彼女はジャファーの目を見て、その場の空気を読んで、何かがおかしいと感じた。
翻ってサルタンは、ジャファーと長年ともにいながら、その本質を一度も見抜かなかった。
ジャスミンには公式の権限がない。政策を決める席もなく、婚姻すら自分で選べない。だがこの映画を通じて「統治者としての感覚」を持っているのは、明らかに彼女だけだ。外を見る目、人を見る目、動く意志。サルタンが持っていなかったものを、ジャスミンはすでに備えていた。
父が残したのは空白だった。娘が引き継いだのは、その空白を埋める資質だった。
ここに来てようやく、この映画の結末が一本の線として見えてくる。サルタンが「法律を変える」と宣言する終盤の場面は、彼の成長として描かれている。だが本当にそうだろうか。次章では、あの宣言が何によって引き出されたのかを、もう少し冷静に見ていく。
第3章 王が変わった、何が変わったのか
映画の終盤、サルタンは宣言する。「法律を変える。ジャスミンは自分で夫を選んでよい」と。
ディズニー映画の文法で言えば、これは父の成長だ。頑固だった王が、娘の言葉に動かされ、古い慣習を手放す。感動の場面として設計されている。だがその直前に何が起きていたかを思い返してほしい。
ジャファーは魔人の力で世界を支配しようとし、アラジンの機転によって「魔人になれ」と願わせられ、ランプに封じられた。国家転覆の危機は、サルタンの判断ではなく、アラジンの咄嗟の知恵によって回避された。サルタンはその間、ほぼ無力だった。魔法で弄ばれ、道化の衣装を着せられ、事態が解決するまで為す術がなかった。
そのサルタンが、危機の収束直後に「法律を変える」と言う。
この宣言を、純粋な内的変化として読むのは難しい。彼が法律を変えようと思い至ったのは、長い熟慮の末ではない。娘が命がけの危機をくぐり抜け、その娘がアラジンを選んでいることが誰の目にも明らかになった、そのタイミングでの宣言だ。状況が答えを用意し、サルタンはそれを口にした。変わったのか、それとも変わらざるを得なくなったのか。
ここで、最初の問いを正面から置きなおす必要がある。
ジャファーが王になっていたら、国はどうなっていたか。
この映画の文脈で言えば、ジャファーは明らかに「悪」として描かれる。だが彼の能力の問題ではなく、彼の欲望の構造に問題がある。ジャファーが求めていたのは、国を治めることではなく、力そのものだった。魔人になりたいという最終的な願いが、それを示している。統治者としての責任より、誰にも制御されない絶対的な力を望んだ。国のためではなく、自分のために力を欲した人間が王座に就いたとき、国が安定するはずがない。
だがここで見落とされがちな点がある。
サルタン治下のアグラバーもまた、安定していたわけではない。宮殿の外では貧しい人々が市場で暮らし、アラジンのような若者が盗みで命をつなぐ。ジャスミンが初めて市場に出た日、子どもが空腹でパンを盗む場面があった。あれはサルタンが長年治めてきた国の日常だ。ジャファーが壊したものでも、魔法が生み出したものでもない。
サルタンの治世は、民を飢えさせながら、おもちゃを並べていた時間だったかもしれない。
それでも彼が「悪王」でないのは、悪意がないからだ。傷つけようとしていない。ただ、見ていなかった。市場も、民も、娘が感じていた息苦しさも。善意だけがあって、統治の意志が伴わなかった。
その空白が何十年も続いた果てに、ジャファーという存在が宰相として機能し得た。権力の真空には、必ず何かが流れ込む。
終章 王女は玉座を継いで、何を建て直すのか
映画の最後、アラジンとジャスミンは並んで空を飛ぶ。魔法の絨毯の上で、ふたりは自由だ。
その地上では、サルタンが「法律を変えた」という事実だけが残っている。
ジャスミンは王女として宮殿に戻る。アラジンは市場の出身のままで、しかし姫の隣にいることを許された。サルタンはおそらくこれまでと同じように、おもちゃを並べながら、今度は少しだけ機嫌よく座っているだろう。ひとつ決断を下した、という満足とともに。
だがアグラバーの市場は、何も変わっていない。
子どもが空腹でパンを盗む日常は、ジャファーが封じられた翌朝も続いている。貧しさは魔法の産物ではなく、長い治世の産物だ。ジャスミンが市場で目にしたあの光景は、ジャファーが作ったものではなく、サルタンが見なかったものだった。それはランプが消えても、絨毯が着地しても、消えない。
ジャスミンは、その現実を一度だけ自分の目で見た人間だ。
この映画は彼女に言葉を与えている。「私は民のために声を上げたい」という台詞が終盤にある。抽象的に聞こえるかもしれないが、彼女の場合は違う。市場に降り立ち、子どもの空腹を見て、パンを差し出した記憶がある。それが土台にある言葉だ。経験を持たない者の理想論ではなく、一度だけ現実に触れた者の言葉として、あの台詞は機能している。
サルタンとジャスミンの違いは、善悪でも能力でもない。
見たかどうか、だ。
サルタンは見なかった。見ようとしなかったわけでもないかもしれない。ただ、宮殿の中に世界があり、おもちゃが動き、娘が笑っていれば、それで世界は足りていた。彼の愛情は本物だが、その愛情の射程が、城壁の内側で完結していた。
ジャスミンはその外を一度だけ見た。たった一日、たった一度の脱出だったが、彼女にとってその記憶は戻ってこない。市場の空気を吸った人間は、もう宮殿だけで完結できない。
この映画が最終的に誰の物語だったかと問われれば、表向きはアラジンだ。しかし何かを「継ぐ」物語として見るなら、それはジャスミンのものだ。サルタンが持たなかった視線を、娘が一度だけ外で拾ってきた。その視線を持ったまま、彼女は玉座の近くへ戻る。
父が残した空白は大きい。だがジャスミンはその空白の輪郭を、少なくとも知っている。知っているということは、埋めようとすることができるということだ。
サルタンは何を失ったのか。何を得たのか。
おそらく彼は最後まで、失ったものの名前を知らなかった。ただ娘が笑っていて、国が静かで、おもちゃがまだ動いている。それが彼の世界の全体だった。悲劇ではない。だがその静けさの下で、誰かがずっと空腹だったということを、この映画は一度だけ、市場の場面でひそかに映している。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
語りたい映画なんて尽きることない!
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