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【#映画】 新時代の映像表現とはなにか――アニメとサブカルと体験型エンタメの実像を通して 【#エッセイ】

Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。

毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。

https://open.spotify.com/show/4o8l9DJWMuwUht2pvkEytS?si=651713ed7b2a40f8


新時代の映像表現とはなにか

――アニメとサブカルと体験型エンタメの実像を通して

序章:映像表現の“新時代”とは何か――曖昧なアオリとその実態

映画館のポスターや予告編で「新時代の映像表現」という言葉を目にする機会は、近年ますます増えている。3D映画、4Dシアター、360度映像、さらにはVRやARといった技術が日々進化し、そのたびに「これこそ新時代だ」とアオリ文句が踊る。しかし、実際に体験してみたとき、多くの人が「結局何が新しかったのか?」と首をひねりながら劇場を後にすることも少なくないだろう。

“The only real voyage of discovery consists not in seeking new landscapes, but in having new eyes.”
——Marcel Proust
(本当の発見の旅とは、新しい景色を探すことではなく、新しい目を持つことにある。)

プルーストのこの言葉の通り、「新時代の映像表現」とは単なる技術革新だけでは測れない。むしろ私たちの「見る目」が変わる瞬間にこそ、新しさは宿る。だとすれば、映画という表現形態は本質的にどこまで変わりうるのか。その問いを深掘りしていくことが本記事の目的である。


第一章:アニメという現象――メインカルチャー化した“サブカル”の行方

1.1 アニメの社会的位置づけの変遷

まず、映画を語る前にアニメを通して映像表現と社会の需要の構図を見ていきたい。アニメという表現媒体が日本社会においてどのように変遷してきたのかを歴史的事実を交えながら振り返ってみるとちょっと面白くなってくる。

  • 1963年:手塚治虫『鉄腕アトム』、日本初の本格的テレビアニメ放送開始。

  • 1970年代:ロボットアニメブーム(『マジンガーZ』『機動戦士ガンダム』)。

  • 1980年代:OVA(オリジナルビデオアニメ)市場拡大、アニメ=オタク文化というイメージ定着。

  • 1990年代:『エヴァンゲリオン』社会現象化。

  • 2000年代:『千と千尋の神隠し』世界的ヒット、アニメ映画の一般化。

  • 2010年代:『君の名は。』『鬼滅の刃』など興行収入記録更新。

こうした流れを経て、2020年代には「アニメ=サブカル」から「アニメ=メインカルチャー」という言説が半ば常識のように語られるようになった。

“Culture is the widening of the mind and of the spirit.”
——Jawaharlal Nehru
(文化とは心と精神の広がりである。)

しかし、それが完全に「主流」となったと言い切れるだろうか?

1.2 数字と実感のズレ――若者文化におけるアニメ

筆者自身は仕事の関係で年間1000人超の若者と接する。その実感としては、アニメ好きは確かに存在する。しかし、決して「社会の多数派」とは言えない。#鬼滅の刃 や#名探偵コナン のような国民的ヒット作ですら「全く興味がない」と話す若者は常に一定数存在し、正直なところ感覚的には半数以上にあたる。

この現象は心理学で言う「可用性ヒューリスティック」(Tversky & Kahneman, 1974)と一致する。つまり、自分の身近にアニメ好きが多ければ「世の中全体もそうだ」と錯覚しやすいのだ。

“Perception is reality.”
——Lee Atwater
(認識こそが現実である。)

この言葉が示す通り、アニメが「主流文化」に見えるのは、単なる認識の問題かもしれない。特にSNS時代では、アニメ好きの発信力が強いため、実際の比率以上に目立っている可能性が高い。

1.3 市民権とルッキズム――アニメ好きが抱える新たな壁

確かにアニメ好きであることを公言しても、昔ほど迫害されることはなくなった。だがその一方で、若者文化の中でのルッキズムの壁はやはり依然としてそこにはある。「アニメ好きでも見た目が良ければ受け入れられるが、そうでなければ受け入れられない」という壁は大多数のオタクがおそらく実感したであろうそのままに存在する。

これは現代社会における「表層文化重視」と「内面文化軽視」の一側面でもある。心理学者Erving Goffmanが指摘した「印象管理」(Impression Management)の理論に通じるものがある。Goffmanは、人は社会的場面において自己を演出し、他者の期待に応じた“役割”を演じるとした(Goffman, 1959)。

アニメ好きという属性もまた、外見やその他の社会的条件とセットで評価される。それが「メインカルチャーとしてのアニメ」の限界点でもある。

“Man is least himself when he talks in his own person. Give him a mask, and he will tell you the truth.”
——Oscar Wilde
(人は自分自身として話すとき、最も自分らしくない。仮面を与えれば真実を語るだろう。)

アニメ好きという仮面も、時に本当の自分を隠す役割を果たすのかもしれない。



第二章:体験型エンタメの実像――映画とアトラクションの境界線

2.1 3D・4D・VR――体験型エンタメの歴史と進化

映画館における体験型エンタメの歴史は意外に古い。1920年代にはすでに「シネマスコープ」や「センサラウンド」といった技術が登場し、観客に没入感を与えようとする試みが行われていた。

  • 1929年:シネマスコープ形式の登場

  • 1952年:『This is Cinerama』公開、パノラマ映画ブーム

  • 1980年代:IMAX普及

  • 2000年代:3D映画本格化(『アバター』2009年)

  • 2010年代:4D映画、VRシアター導入

特に2009年の『アバター』は3D映画の普及に大きく貢献したが、結局のところ3D映画は「映画館に行く理由」の一つとして定着はしたものの、完全に主流とはならなかった。

“Technology is a word that describes something that doesn’t work yet.”
——Douglas Adams
(テクノロジーとは、まだうまく機能していないものを指す言葉である。)

アダムズの言葉の通り、新しい技術は常に試行錯誤の連続であり、それが「文化」として根付くかどうかは別問題だ。


2.2 アトラクション型エンタメと映画――線引きの曖昧化

ここ数年で注目されるようになったのが、映画館とテーマパークの中間的存在としての「アトラクション型映画」だ。

4DXやMX4Dといったフォーマットは、座席が動き、水しぶきや風、香りまで発生する。その体験は確かに「新しい」と言えるが、それが映画本来の楽しみ方と一致するかと言われれば疑問が残る。

心理学者Mihaly Csikszentmihalyiの「フロー理論」によれば、人は没入状態(フロー)にあるとき最も幸福感を覚える。しかしそのフロー体験は「行為自体に意味がある」と感じたときに最大化される(Csikszentmihalyi, 1990)。

映画の場合、本来は「物語」や「映像美」がそのフローの中心であるべきだ。座席が動くことや匂いがすることは、本来の目的からは離れている可能性が高い。

“The medium is the message.”
——Marshall McLuhan
(メディアこそがメッセージである。)

マクルーハンのこの言葉を借りれば、座席が動く映画では「座席が動くこと」それ自体がメッセージとなってしまい、物語や映像が二の次になってしまう危険性がある。


2.3 のぞき見の快楽――映画とピーピング・トムの心理

映画というメディアの根本には「のぞき見」の欲求がある。
これは心理学における「ピーピング・トム効果」(Peeping Tom Effect)と呼ばれる現象で、他者の日常や秘密を「安全な距離から」見ることで快感を得る心理作用だ(Zillmann, 1988)。

  • 他者から見られることなく

  • 自分は関与しないまま

  • ただ覗き見る

映画館という空間はまさにそのための装置であり、スクリーンの向こう側は「こちら側とは断絶された世界」として設計されている。

“To see without being seen.”
——Jacques Lacan
(見られることなく、見ること。)

ラカンのこの定義は、映画というメディアの本質を突いている。
だからこそ360度映像やVRシアターは「映画」とは異なる体験として区別されるべきなのだ。そこには「見られるかもしれない」という余計な要素が入り込むからである。


第三章:サブカルチャーの主流化とその限界――アニメと映画の現在地

3.1 サブカルチャーとは何か――歴史的定義と今日的状況

サブカルチャー(subculture)という言葉は、1960年代のイギリスのカルチュラル・スタディーズの文脈で広まり始めた。バーミンガム学派と呼ばれる研究者たちが、労働者階級や若者文化を分析する中で定義したものだ。

  • Dick Hebdige『サブカルチャー:スタイルの意味』(1979)

  • Stuart Hall『Encoding/Decoding』(1973)

ヘブディッジはサブカルチャーを「支配的文化への象徴的抵抗」と捉えた。つまり、主流社会とは異なる価値観や美意識を持つ集団を指す。しかし、1970年代と現在では状況が大きく異なる。

今やアニメやゲーム、さらにはヒップホップやストリートファッションまでが「主流」と扱われつつある。だが、それは「サブカルチャーがメインカルチャーになった」というよりも「メインカルチャーがサブカルチャーを取り込んだ」と表現する方が適切かもしれない。

“When a thing is taken out of its original context, it loses its meaning.”
——Jean Baudrillard
(物事は元の文脈から切り離されると、その意味を失う。)

ボードリヤールのこの言葉通り、サブカルチャー的だったものも、メインカルチャーに吸収されることでその鋭さや反逆性を失ってしまうことが多い。


3.2 アニメの「市民権」とその影

アニメが「市民権」を得たと言われるようになった背景には、経済的側面が大きい。日本アニメ産業は2020年時点で約2兆5000億円規模(一般社団法人日本動画協会調べ)。これは日本の映画産業全体を凌駕する数字だ。
ただ、一度立ち止まってみてほしい。それは必ずしも国民全体がアニメを見ているということに繋がらない。

グッズ展開やメディアミックスによってアニメ産業がその規模を拡大するとともに、大人になってもアニメを楽しむ層が世代の幅を広げただけで、結局のところ大部分が一部の消費によって支えられているとしても、その数字は十分に成り立つ。
結局のところ「話題作だから見る」という層ができたとしても、一般葬が日常的にアニメを見ているというわけではないのだ。

アニメはメインカルチャーになって、誰もがアニメを見ている。という主張が必ずしも確からしいとは思えない。

そして何より、数字が大きくなればなるほど、作品内容は「より広い層に受けるもの」に収斂していく。これはかつてのアニメファンが挑んだ結末だろうか。結果として、かつてのサブカル的アニメ――例えば押井守監督作品や『Serial Experiments Lain』のような難解な内容――は表舞台から後退していく。

心理学で言う「希少性効果」(Scarcity Effect)に似た現象がここでも起こっている。希少であったからこそ価値があったものが、大量消費にさらされることで価値を失うという構造だ。

“The things you own end up owning you.”
——Chuck Palahniuk, Fight Club
(自分が所有しているものが、結局は自分を所有する。)

アニメ好きが「市民権」を得た代わりに、かつての異端性や孤高性を失った。それが今のアニメ文化の影と言えるだろう。


3.3 映画とサブカルチャーの関係性

映画もまた、かつてはサブカルチャーだった側面を持つ。特に1960〜1970年代のアメリカン・ニューシネマ期には、ハリウッド大作主義に対するカウンターカルチャーとしての映画が数多く生まれた。

  • 『イージー・ライダー』(1969)

  • 『タクシードライバー』(1976)

だが、これらも最終的には「映画史の一部」として体系化され、サブカルチャーとしての力を失った。

“Art is either plagiarism or revolution.”
——Paul Gauguin
(芸術は盗作か革命か、そのどちらかである。)

映画やアニメもまた、最初は革命だった。しかし歴史の中で制度化され、文化装置として機能するようになる。その時点で「革命性」は消失する。


第四章:新時代の映像体験とは何か――フレームと神の視点

4.1 映画の本質は“覗き見る”こと

近年、映像体験における進化は主に「没入感」をキーワードとして語られる。
VRや360度動画、インタラクティブ映画――これらは観客自身が物語の中に「入り込む」ことを前提とした技術だ。しかし、果たしてそれが映画の本質的体験と言えるだろうか?

映画というメディアの最も原初的な欲求は「覗き見」である。
これは心理学的には「ピーピング・トム効果」(Zillmann, 1988)として定義される現象であり、人は他者の日常や秘密を“安全な距離”から覗き見ることに快楽を覚える。

“To see without being seen.”
——Jacques Lacan
(見られることなく、見ること。)

ラカンのこの言葉が映画の本質を端的に表している。
映画館の暗闇に座る観客は、まさに「神の視点」を手にしていると言えるだろう。
スクリーンの向こう側は一方通行であり、決して観客の存在に気づくことはない。


4.2 フレームという境界線

新時代の映像体験を語る上で重要なのが「フレーム」という概念だ。
映画はスクリーンという枠=フレームの中に世界を閉じ込め、そのフレーム越しに観客がそれを見るという構造を持つ。

心理学者Erving Goffmanの「フレーミング理論」では、人間の行動や認知は常に「枠」によって制御されているとされる(Goffman, 1974)。
映画もまた、フレームという枠があるからこそ「これは映画である」という認識が生まれる。

“Art consists of limitation. The most beautiful part of every picture is the frame.”
——G.K. Chesterton
(芸術とは制限である。どんな絵にも最も美しい部分はその枠だ。)

チェスタートンのこの言葉の通り、フレームは単なる制限ではなく「美しさの条件」でもある。


4.3 没入型エンタメの限界――映画は映画のままであるべきか?

没入型エンタメ――VRや360度映像――が進化しても、それが「映画」に完全に取って代わることはない。なぜなら、それらは「フレームを消す」ことで成立するが、それは同時に映画的快楽――覗き見る快楽――を失わせるからだ。

心理学における「オブザーバー効果」(Observer Effect)でも、人は観察されると行動を変える。
映画は観客が「神の目線」でいられるからこそ成立するが、VRではその構造が壊れてしまう。

“The secret to creativity is knowing how to hide your sources.”
——Albert Einstein
(創造性の秘密は、その出典を隠す方法を知ることだ。)

VRや没入型映像は、その「出典」=観客自身を隠すことができない。
だからこそ、映画という形式は今のままが最適解なのだと考えられる。


結章:覗き見と没入――新時代映像体験の本質

5.1 「新時代」という言葉の幻想

冒頭で述べた通り、「新時代の映像表現」というフレーズは、実際には商業的キャッチコピーに過ぎない場合が多い。もちろん、技術は進化し続けている。4D、VR、360度映像、体験型シアター。しかしそれらが「映画」という体験そのものを根底から変えることはない。

“Plus ça change, plus c'est la même chose.”
——Jean-Baptiste Alphonse Karr
(変われば変わるほど、結局は同じことだ。)

ジャン=バティスト・アルフォンス・カーのこの言葉は、映像表現にもそのまま当てはまる。映画はその誕生以来ずっと「覗き見る」ためのメディアであり続けてきたし、おそらくこれからもそうであり続けるだろう。


5.2 覗き見ることの哲学的意味

『アド・アストラ』の記事でも述べたように、人間は「他者を覗き見る」ことで自己を確認し、安心感を得る生き物である。それは心理学だけでなく、哲学的にも深い意味を持つ。

マルティン・ブーバーの『我と汝』(1923)では、人間の関係性には「我―汝」と「我―それ」という二つのあり方があると説かれる。映画というメディアは、その性質上「我―それ」の関係に立脚している。

観客はスクリーンの中の世界を「それ」として眺め、自分が安全な位置にいることを確認する。だからこそ、没入型エンタメがいくら流行しても、最終的には「覗き見る」形式――つまり映画に回帰する。

“The eye sees only what the mind is prepared to comprehend.”
——Henri Bergson
(目は、心が理解する準備のできたものしか見ない。)


5.3 まとめ――映画という完成形

この記事を通じて繰り返し述べてきたことは、結局のところ一つのシンプルな結論に集約される。

映画はすでに完成形である。

新しい技術はそれを補助するものであり、置き換えるものではない。アニメもまた、サブカルチャーからメインカルチャーへと取り込まれつつも、本質的な魅力は変わっていない。

つまり――

  • 覗き見る欲求

  • フレームの中の世界

  • 他者との安全な距離

これら三つの条件が満たされている限り、映画という表現は今後も人間社会において必要不可欠なものとして残り続けるだろう。

“Cinema is a mirror by which we often see ourselves.”
——Alejandro González Iñárritu
(映画とは、しばしば自分自身を見るための鏡である。)


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