病気で失ったものと、やめられたもの
1、やめたいのに、やめられないもの
先日、YouTubeのコメント欄で、リスナーさんから質問をいただきました。
僕が昔、パチスロをよくやっていたという話に対して、
「ギャンブルって、やめるのが大変じゃなかったですか? 目が悪くなってやめたんだとは思うんですが」
という内容でした。
これを読んで、確かにそうだなと思いました。
パチスロに限らず、自分では「そろそろやめたほうがいい」と思っているのに、なかなかやめられないものってありますよね。
お金の問題だけではありません。
時間を使う。
気持ちを持っていかれる。
今日はやめておこうと思っても、少し経つとまた行ってしまう。
僕自身もそうでした。
何度かやめようと思ったことはあります。
しばらく行かなくなる時期もありました。
でも、数ヶ月すると、また戻ってしまう。
だから、あれを完全に自分の意志だけで断ち切れたかと言われると、正直かなり難しかったと思います。
もちろん、視力が落ちてきたことも大きな理由でした。
リールを見ること。
店内を移動すること。
台の表示を確認すること。
だんだん負担は増えていきました。
でも、僕にとって本当の決定打になったのは、目の病気だけではありませんでした。
がんの宣告と、手術。
そこから始まった身体の変化が、結果的に僕の習慣を強制的に止めたんです。
この記事について
僕のポッドキャスト番組「バリアフリー探求所」で、1年前に配信したエピソードをもとに、AIで再構成した実験的記事です。
音声配信(stand.fm、各ポッドキャスト、YouTube)とnote合わせて2,000フォロワーを目指しています。フォローよろしくお願いします!
2、身体がすべてを止めた夏
2019年の夏、僕は右手親指の爪にできた悪性黒色腫、メラノーマの手術を受けました。
約1ヶ月の入院。
退院してからも、右手は包帯でぐるぐる巻き。
腕は三角巾で固定していました。
右手を自由に使えない生活です。
パチスロは、基本的に右手の親指を使う遊びです。
レバーを叩く。
ボタンを押す。
コインを入れる。
台の操作をする。
腕を吊って、指に痺れもある状態では、そもそも打つことができません。
つまり、「やめよう」と決めたというより、身体のほうが先に「もう無理です」と言ってきたような感じでした。
それだけではありません。
全身麻酔や手術の負担もあったのか、そのあと視力が大きく落ちました。
それまで0.5ほどあった視力が、0.3ほどまで下がってしまったんです。
数字だけ見ると、少しの差に見えるかもしれません。
でも、僕の生活感覚としては、かなり大きな変化でした。
パソコンの文字が見えづらい。
外を歩くときの感覚が変わる。
今まで何となく見えていたものが、急に頼りなくなる。
それまで使っていた短いシンボルケーンでは不安が大きくなり、前方をしっかり確認できるフルサイズの白杖を使うようになりました。
右手が使えない。
視力も落ちる。
生活の自由度が一気に下がる。
そんな状態の中で、パチスロに行きたいという気持ちは、ほとんど消えていました。
行けないから、行かない。
最初はそれだけだったと思います。
でも、その「行けない時間」が続いたことで、少しずつ自分の中の回路が変わっていったのかもしれません。
行かない日が続く。
行かなくても生活は続く。
行かないほうが、お金も時間も残る。
当たり前のことなのに、渦中にいると意外と見えないものです。
身体が止まったことで、ようやくその外側に出られた。
そんな感覚がありました。
3、失ったものの中に、残されたもの
がんになったこと。
手術を受けたこと。
視力が下がったこと。
これらを、よかった出来事だとは言えません。
痛みもありました。
不安もありました。
生活の不便さも一気に増えました。
今でも、あの経験がなければと思う瞬間はあります。
だから、病気や障害を簡単に「意味があった」とまとめることには、少し慎重でいたいです。
つらいものは、つらい。
失ったものは、確かにある。
そこを飛ばして、きれいな話にはしたくありません。
ただ、それでも思うんです。
あの出来事がなければ、僕はパチスロを完全にはやめられなかったかもしれない、と。
もし身体が元気なままだったら。
もし右手が普通に使えていたら。
もし視力の低下がそこまで急ではなかったら。
休日のたびに、まだ店に通っていた可能性はあります。
時間を使い、お金を使い、気持ちを持っていかれながら、それでも「次こそは」と思っていたかもしれません。
そう考えると、人生に起きる出来事は、本当に一方向だけでは見られないものだと思います。
マイナスに見える出来事が、別のマイナスを止めることがある。
失ったことで、別の何かから離れられることがある。
不自由になったことで、初めて自由になる部分もある。
もちろん、だから病気になってよかった、とは言いません。
障害が進むことを肯定したいわけでもありません。
でも、自分の一次情報として振り返ると、あの出来事は僕の人生から、ひとつの大きな消耗を取り除いてくれました。
これは、皮肉でもあり、恩恵でもあるのかもしれません。
人生って、なかなか単純ではないですね。
悪いことは悪いこと。
つらいことはつらいこと。
でも、その中に、あとから見えてくる別の作用がある。
それに気づけるかどうかで、同じ出来事の見え方は少し変わるのかもしれません。
みなさんにもありませんか?
そのときは最悪だと思ったけれど、あとから考えると、自分をどこかで助けてくれていた出来事。
僕はこれからも、そういう自分の経験を、急いで結論にせずに考えていきたいです。
楽しんで生きるというのは、何でも前向きに変換することではないと思っています。
痛いものは痛いまま。
不便なものは不便なまま。
それでも、その中に残されたものを見つけていく。
僕にとって、今回の話はそのひとつです。
