【小説・ヴィーナス症候群】(99)殺人事件の第一発見者
第一章 高すぎる美術館
「うっそ、三千円もすんの? 入館料だけで?」
駅前のロータリーで、麻由がスマホを覗き込みながら眉をひそめた。
芽衣は横でそれを見ながら、特に表情も変えずにうなずいた。
「そうだよ。私も一人だったら来ない」
「だよね。なんかすごいって噂聞いたけど……そんな払えないって。学生だし。
……って、芽衣、入れんの?」
「うん。障害者手帳あるから無料。
それに介助者1人までタダになるんだよ。」
麻由の目がぱっと見開いた。
「え、それって……私ついて行ったら、私も無料ってこと?」
「うん。手帳と一緒に窓口出せば通る」
「……マジか。じゃあ行こ。来ちゃったし」
芽衣は静かに笑った。
──呼続芽衣は、生まれつき両腕のない女の子だった。
1万人に1人といわれるその身体で生まれてきた子どもは、いつしか「ヴィーナス児」と呼ばれるようになり、
今ではその特性を生かして、アパレル産業で服を“着る”仕事に就く人たちも少なくない。
芽衣もその一人で、都内のブランドで「トルソーさん」――着用モデルの仕事をしている。
服を着ることで布の構造を伝える仕事。腕がないからこそ、布が語る。
それが、今の彼女の日常だった。
そして今は日曜日。
仕事もなく、時間はある。
何より、せっかく誘ってくれた友人の気軽さが、芽衣には心地よかった。
駅前から坂を少し登ると、美術館は現れた。
真っ白な外壁に黒いガラス、簡素な銘板があるだけで、観光施設らしい賑わいもなく、
どこか日常と断絶されたような静けさを纏っていた。
自動ドアをくぐり、受付カウンターに近づくと、女性係員がにこやかに会釈した。
「こんにちは。ご来館ありがとうございます。入館券はこちらでどうぞ」
芽衣は、その筋電義手でバッグから障害者手帳(1級)を出した。
「すみません。障害者手帳あります。あと、同行者1人います」
係員は少し戸惑ったように眉を動かした。
「あっ……えっと、こちらの施設では、無料……で、したでしょうか?」
後ろの端末を操作しながら、奥のスタッフに視線を送る。
しばらくして別の係員が近づいてきて、低い声で確認した。
「障害者総合支援法の対象になってるはず。1級の方と付き添い1名までは無料。
手帳番号だけ控えて、普通に入館券発行すればいいよ」
「あ、はい……失礼いたしました。少々お時間をいただきまして……」
芽衣はにこやかに首を横に振る。
「大丈夫です。慣れてないところ多いので」
麻由が横で「ほんとに無料なんだ……」と小声でつぶやいた。
ほどなくして、二人分の入館券が、無言で手渡された。
観覧者は少なかった。
館内は広く、音もなく、誰かが何かを喋る気配すらなかった。
高い天井と白い壁の中に、展示がぽつぽつと並んでいる。
展覧会のタイトルは「身体と布」。
説明パネルには、布と皮膚、重力、境界、存在、そういった単語が並んでいたが、
ふたりとも正直、あまり読まなかった。
布を吊ったオブジェ、変形した衣服のようなもの、床に置かれた何かの残骸のような展示。
意味を読み解くには言葉が足りず、ただ“すごい”という印象だけが、ひとつずつ通り過ぎていった。
「……なんか、すごいけど、わかんないね」
麻由が小声で言う。

「うん。でも、こういう場所って、たぶん“わかる”ためにあるんじゃないと思う」
「そっか……なんか、静かで落ち着くけど、ちょっと怖くない?」
芽衣は少しうなずいてから、展示の奥へ進んだ。
その空間の奥、照明がやや届きづらく、観覧者の足もあまり向いていない一角。
パネルの裏手に、芽衣はふと、妙な匂いを感じた。
カビでもなく、埃でもなく、もっと濃く、生のものが腐ったような、
呼吸を止めたくなるような臭いだった。
(……これ、)
視線を落とすと、床に黒い革靴。
そして、そこに横たわる、人の足。
芽衣は一瞬、足元をすくわれたような感覚になり、無意識に一歩引いた。
麻由が遅れて追いつき、覗き込んで――
「ちょっと……なに、あれ……人……?」
「受付、行こう。すぐ。……誰か呼ぼう」
芽衣はそう言い、麻由の腕を軽く押して、展示室を戻った。
誰も叫ばなかった。
誰も気づかなかった。
ただ、そこに“あるべきでないもの”が、あった。
第二章 所轄署の仕事
展示室の空気は、もはや“鑑賞空間”ではなくなっていた。
布に覆われた床や壁の静けさは、所轄署の制服と刑事たちによって無機質な緊張にすり替えられていた。
展示パネルの裏に横たわっていた男は、やはり亡くなっていた。
救急隊員が心肺停止を確認し、法医班に引き継がれることになった時点で、事案は“変死”として正式に処理され、
館内の出入りは制限され、一般来館者はすべて別室に誘導された。
芽衣と麻由は、展示室の隅に置かれた長椅子に座ったまま、
制服の警官に「第一発見者」としてそのまま待機するよう指示されていた。
「すみませんね。おふたり、少しだけこのままお願いします」
芽衣は軽くうなずいた。
両腕がない彼女に対し、特別な気遣いも過剰な視線もない。
この種の“対等な無関心”には慣れていた。
制服警官の背後では、刑事たちが白手袋を嵌め、靴底カバーを装着し、鑑識班と連携して現場保全に入っていた。
「展示パネルの下、凹みあり。撮影」
「床に何か落ちてないか確認。マーカー使って」
「館内カメラの映像、警備室から抜け。展示室の分は直近1時間な」
芽衣はそのやりとりを、耳の奥で聞いていた。
腕がなくても、視線と聴覚は生きている。
仕事柄、現場の空気を読むということには少しだけ慣れている。
隣で麻由が、まだやや顔色の悪いまま囁いた。
「……本当に死んでたんだね。あの人」
「うん……」
「……怖いっていうか……現実感ないよね」
芽衣は答えず、小さく息を吐いた。
制服の一人が受信機に耳を当てた後、こちらに歩み寄ってくる。
「失礼します。洗足署刑事課の者です。第一発見者のお二人に、少しお話を伺いたいのですが」
芽衣が軽くうなずくと、その刑事は近くにしゃがんで顔を合わせた。
五十代半ばくらい。陽に焼けた肌と、警察特有のぶっきらぼうな口調。
「名前、芽衣さんと……麻由さん、でいいですね。
あ、腕のことで無理はさせませんから。こちらで録音回します」
そう言うと、胸ポケットから小さなICレコーダーを取り出し、スイッチを押す。
「じゃ、話は順番に。
今日はどちらから誘われて来たのか、何時に入館して、どこをどう見て、どの時点で“それ”を見つけたか。思い出せる範囲でいいのでお願いします」
芽衣は、静かに答えていった。
駅で待ち合わせたこと。入館料の話。展示を歩いた順番。匂いに気づいたこと。
言葉を選びながら話すうちに、自分が“記録されていく存在”になっているのがわかる。
腕がないから、話すしかない。書くことも、手振りもできない。
話し方にも、間の取り方にも、仕事で鍛えた“伝えるための呼吸”が染みついていた。
麻由も、必要最低限のことを補いながら話した。
刑事は頷きながら、一つひとつ確認を返してくる。
「発見したとき、被害者の顔は?」
「……横を向いてて、よく見えませんでした」
「服装や所持品は?」
「……ジャケット着てたと思います。鞄とか、手には何も持ってなかったです」
「そう。ありがとう。大丈夫、まだ気持ちが落ち着かない中で答えてくれて」
刑事は一度だけ目を伏せて、レコーダーを切った。
「もう少し、ここにいてください。状況によっては署に同行していただくかもしれませんが、無理にとは言いません。
とにかく今日は、正確な記録を取るのが一番大事なので」
そう言い残して、刑事は再び現場の方へ戻っていった。
展示室の中央では、鑑識が三脚の位置を変え、光源を調整していた。
死体はまだそこにある。
だが、そこに“死”の感情はほとんどなかった。
ただ、物が置かれている。
記録され、分析され、法に照らされる対象として。
芽衣には、それがこの世界の“正しさ”のように思えた。
だが――
展示室の自動ドアが、静かに音を立てて開いた。
廊下から差し込む白い蛍光灯の中に、異様に厚手のベージュのトレンチコートを着た男の影が現れた。
館内は冷房が入るほどではない。
それでもその男は、コートの前をしっかりと締めたまま、無言で足を踏み入れた。
さらに奇妙だったのは、そのすぐ脇を歩いていた黒縁メガネの小さな少年だった。
ランドセルこそ背負っていないが、明らかに小学生とわかる年齢。
白いシャツに半ズボン。スニーカーの足音が、警察の靴音の中で妙に浮いていた。
展示室の空気が、ぴんと張った。
芽衣は、視線をそらさずに見つめた。
(……なに、あれ?)
麻由が隣で「警察……?」と小さく呟く。
だが、制服の巡査が立ちはだかった時には、すでに男は手帳を掲げていた。
第三章 あれれ〜? おかしいぞ〜?
自動ドアが、静かに開いた。
展示室に差し込む午後の白光に逆行して、二人の影が伸びる。
先頭を歩いてきたのは、ベージュのコートを着た中年の男だった。
明らかに“只者ではない”風格があった。
その一歩後ろ――黒縁メガネをかけた、小学生ほどの少年が並んで歩いていた。
展示室の空気が、わずかにざわついた。
制服の巡査が一歩前に出る。
「すみません、こちら立入制限中です――」
男は手帳を片手に掲げた。
「捜査一課・警部。 本庁から指示を受けて臨場した。現場確認を行う」
制服の表情が固まり、即座に無線を入れる。
間もなく刑事課長の岩田が現れた。
「ご足労ありがとうございます。洗足署刑事課、岩田と申します。
こちら、第一発見者の聴取は済ませ、鑑識も入り始めています。現場図、いままとめ中ですので――」
岩田の言葉は、途中で止まった。
少年の姿が、視界に入ったのだ。
「失礼ですが、そのお子さんは……?」
男――警部は、迷いも見せずに言った。
「私の判断で捜査協力を要請しています。
これまでも数件、助言を得ており、今回も必要と判断して同行させました」
展示室の空気が止まった。
岩田課長は、慎重に言葉を探すように口を開く。
「……あの、警部。繰り返しになりますが、こちらは所轄の現場です。
責任者として確認させてください」
警部は無言で頷いた。
「まず、その少年は法的には“民間人”と見てよろしいですか?
警察官ではなく、顧問、協力員、特別任用等の登録もなく――
つまり、現場への同行に関する公式な文書は存在しないと理解してよろしいですね?」
「そうです。特別な肩書きは持たせていません。あくまで、私の個人的判断による協力者です」
「……承知しました」
岩田は小さく咳払いし、続けた。
「では、捜査協力とは具体的にどういった形式で?
事前に何か情報を渡した、あるいは現場の何をどう判断するために同行させた、という……行動目的の説明はいただけますか?
要するに、我々、洗足署としてこの少年を“何として扱えばいいのか”が、まったく不明です。」
警部は静かに答えた。
「必要な観察力を有しています。
現場において、私が参考とすべきと判断した意見を述べることがあります。
それを、私は助言として受け取っている。
今回もその方針です。
職務命令ではなく、個人的な判断。責任は私が持ちます。」
岩田は、わずかに息を呑んだ。
(つまり……何も保証もない素性不明の少年が、現場に“自由に入っている”ということだ)
岩田は、警部の背後の少年にちらりと視線を送りながら、言葉を継いだ。
「……失礼を承知で申し上げますが。
このような立場不明の少年を事件現場に同行させることは、
我々所轄の捜査責任上、極めてイレギュラーです。
しかもこれは、第一発見者が未成年でない事件です。
この場において少年の立ち入りが必要という合理性については、やはり疑問を感じます」
「その判断も、含めて私の責任です」
即答だった。
岩田はそれ以上、何も言えなかった。
言えば、越権になる。
言わなければ、後で“なぜ黙っていたのか”と問われる。
だから彼は、記録という形で反応することにした。
「……山内、ボイス回せ。今からの発言、全部記録に残しとけ。
関係者の入退場、立ち入り理由、発言、すべて」
「了解っす」
巡査部長・山内が無言でレコーダーを起動する。
小さなLEDの赤い点滅が、展示室の空気を切り裂くように光った。
警部は、その様子をちらりと見たが、何も言わなかった。
少年は、その間も無言で展示パネルを眺めていた。
そして、唐突に口を開いた。
「あれれ〜? おかしいぞ〜?」
その場にいたすべての警察官が、一瞬、静止した。
芽衣も麻由も、息を飲んだ。
「何かを見つけた」わけではない。
ただその口調――明らかに芝居がかった、クセのある声色。
その奇妙さだけが、展示室全体の空気を歪めた。
制服の巡査が、少年に近づいた。
「ちょっと君。ここ、事件現場だから……」
「でもこれ、展示パネルの止め金、ここだけ逆なんだよ。上にロックがあって、他は全部下。
なんか、変だよね?」
「……いいから、出よう。ここは関係者以外立ち入り禁止なんだ」
少年の肩に触れかけたその時――
「やめろ。」
警部の低い声が、空間を断ち切った。
「その子には触れるな。
退室もさせるな。私の責任のもと、ここにいる。」
制服の手が止まり、巡査は思わず岩田課長の顔を見る。
岩田は、一度だけ目を閉じて、小さく息を吐いた。
「……了解です。責任の所在、こちらで記録します。
ただし当署としても報告義務がありますので、現場での動静、すべて録音継続中です」
誰も納得はしていなかった。
ただ、“逆らえない空気”が場を支配していた。
警察という組織は、階級社会だ。
芽衣は、そのすべてを黙って見ていた。
(……何? この空気…… もしかして警察の人がもめてる?)
さっきまで、死体を前にしても動じなかった刑事たちが、
今は一人の少年の言動に反応して、動揺している。
麻由が耳元でそっと言った。
「……ねえ、芽衣。さっきの……“あれれ〜”って、あれ何?」
「……知らない。
でもたぶん、今日いちばん、おかしいのは……あれだと思う」
第四章 偶然として処理する
少年が指を差した展示パネル。
その裏手にあった止め金の異常――言われてみれば確かに、他とは構造が違っていた。
「ここのだけ、ロックが逆なんだよ。上にある。全部下のはずなのに」
少年の言葉に、鑑識と刑事課の数名が視線を交わし、動きを止めた。
(……どうする? やるのか?)
(あれを調べたら、まるであのガキの指摘を認める形になるぞ)
だが、結局、調べることになった。
理由はひとつ――音声記録が回っているから。
無視すれば、「なぜ聞き流したのか」が問題になる。
対応すれば、「本当に何かあった場合、それを無視していた」とは言われずに済む。
課長が低く言う。
「展示パネル31番。裏止め具の構造異常、確認。
“鑑識班の現場再点検中に、偶然判明”で統一しろ」
若い刑事が小さくうなずき、マイク付きのボイスレコーダーにささやくように話しかけた。
「……確認。展示パネルの止め具、他と異なる構造。
鑑識再点検中に偶然確認、異常あり。対象封筒、未開封、無記名」
パネルを外すと、中から白い封筒が出てきた。
きちんと折られたまま、埃ひとつなく、裏面は無記名。
中には薄いカードサイズの何かが入っていた。
鑑識が黙って袋に入れ、撮影し、番号を付ける。
一連の動作はスムーズで、無感情だった。
……そして、
展示パネルの一件が一段落し、誰もが次の確認作業に移ろうとしたその時――
少年が、突然くるりと振り返って、展示室の入口を指差した。
「玄関が怪しい!」
展示室の空気が止まった。
誰もまだその方向には何も注目していなかった。
根拠も理由も語られない。だが少年は、確信した顔で叫んだ。
「行こう!」
あのベージュのコートの警部が、一言も発せずに頷き、
少年と並んで――走り出した。
「おい、え、ちょっと……」
所轄の刑事たちが動けないまま見送るなか、
その後ろ姿は展示室の自動ドアに吸い込まれていった。
岩田課長が、一瞬だけ絶句したあと、咄嗟に振り返って怒鳴る。
「山内! ついてって! 何かあったら記録回せ!」
「了解っす!」
若い巡査部長がレコーダーを手に駆け出していく。
展示室に残された所轄の刑事たちは、誰も声を出さなかった。
重たい沈黙のなか、岩田課長が帽子を外し、静かにぼやいた。
「……本庁にも変わったのはいるって、そりゃ知ってたけどよ……
あそこまで突き抜けてるのが、現場に来るとは思わなかったわ。」
「少年ですよね、明らかに。警備員も入場記録に残してないって言ってたし……」
「書類はない、肩書きもない、年齢は未成年……
あんなのが本庁の捜査に同行してるとか、ありえねえだろ。
……事故に巻き込まれでもしたら、誰が責任取るんだよ」
別の刑事がぼそっと呟いた。
「監察、飛んできますよ、あれ。
本庁がどう言い訳する気か知らんけど、所轄が黙って見てました、じゃ済まされないぞ。」
岩田は肩を回して、背筋を伸ばした。
「だから、録ってる。
全部、“本庁の警部の判断で、所轄は静止・注意・記録したが、指揮権はなかった”――
そう残ってりゃ、こっちは命拾いだ」
芽衣は、展示の隅からその光景を見ていた。
自分が何も発さなくていい場所にいることが、初めてありがたく思えた。
麻由がぽつりと漏らす。
「……玄関って、何があるっていうの……?」
芽衣は答えなかった。
“何があるのか”ではなく、
“なぜ、誰も止めないのか”――それだけが頭の中に残っていた。
⸻
芽衣と麻由が洗足警察署から解放されたのは、夜のことだった。
「送ろうか?」という申し出も、「一応病院寄ってく?」という問いも、
全部やんわりと断った。
外に出ると、もうすっかり暗かった。
昼の光が遠く感じられた。
洗足の駅へ向かうゆるやかな坂道――
シャッターが閉まりかけた商店街を歩いていると、古い電器店の軒先のテレビが音を漏らしていた。
『……大田区内の私立美術館で、男性の遺体が発見されました。
午後一時すぎ、来館者の女性から「人が倒れている」と通報があり、警察が駆けつけたところ、
展示パネル裏で五十代くらいの男性が死亡しているのが確認されました。
警視庁では、洗足警察署が捜査を進めており――』
映像には、美術館の白い外壁と、黄色い規制線が映っていた。
芽衣は足を止めず、ちらりとその画面を横目で見た。
麻由がぼそりと呟いた。
「……やっぱりニュースになってるんだね」
「うん。なって当然だけど……
でも、ほんとに今日のことだったんだって感じ。
テレビで見ると、逆に」
芽衣はうなずいた。
言葉が胸の奥に残る。
テレビは現実を整理し、事実だけを“放送可能な形”にしてしまう。
そこには、あの少年も、あの警部も映っていなかった。
“あの光景”だけが、芽衣の中に確かに残っていた。
(……何だったんだろう、あの子)
そう思いながらも、芽衣はもう振り返らなかった。
駅の改札の先には、人の流れがあった。
イヤホン、コンビニ袋、バイト終わりの学生、塾帰りの親子――
そのすべてが、今日とは無関係に通り過ぎていく。
自分たちが見たものは、今ここには存在しない。
芽衣は、自動改札を前に立ち止まって、小さく呟いた。
「……なんか、布よりも、ずっと静かなものを見た気がする」
麻由は答えず、少しだけ肩を寄せて立った。
