【小説・ヴィーナス症候群】[811]炭酸の
「炭酸のむなんて、今でも幸せな気分になれるばい。高校でやってた頃は禁止されとったけんね」
万江くるみはそう言って、ペットボトルのコーラを美味そうに喉に流し込んだ。
ベンチの前に立つ彼女の背中には、チーム共通の黄色いビブスが揺れている。
その隣で、髪を低い位置でお団子に結い上げた武隈莉子は、同じ黄色いビブスを見つめながら苦笑いを浮かべていた。
生まれつき両腕がない莉子は、現在はドレスブランド『Felice』で試着モデル、通称「トルソーさん」を務めている。
そんな彼女がなぜ、タンクトップの上にビブスを着てフットサルコートに立っているのかといえば、すべては高校時代の仲間であるくるみに押し切られたからだった。
「どうしても人数が揃わんとたい! このままだと棄権の瀬戸際、お願い莉子、助っ人して!」
そう泣きつかれ、長いことサッカーから離れていた莉子も、昔馴染みの情にほだされてビブスに袖を通すことになったのだ。

熊本の黒髪中学校時代、あの黄色いチャリティ番組に出演して一躍注目を集めた莉子。(本編387話)
その後、女子サッカーの強豪・豊肥女子高校へと進学したものの、莉子はわずか1週間でサッカー部を辞めてしまっていた。
一方のくるみは3年間を死に物狂いで頑張り通し、全国大会の舞台にも立った。
そんな対照的な二人が、今こうして同じユニフォームを着ているのが不思議でならない。
コーラをひと口飲み終えたくるみが、ふと思い出したように莉子を見た。
「ねえ莉子、ずっと気になってたっちゃけどさ、なんであの時サッカー部辞めたと?」
莉子は遠い目をして、当時の記憶を引っ張り出した。
「あのアホ監督よ。鈴木卓。 部活初日にさ、『お前は特別扱いしない!特別扱いしないからな!』ってわざわざ二回も念押ししてきてたい。 こっちは別に特別扱いしてくれなんて一言も頼んどらんと、すごーく面倒臭い人なんだなと思って速攻で辞めちゃった」
「あはは、確かに!」
くるみは声を上げて笑った。
「まあ、あの人はそういうところのあったよね。 うちらみたいに熊本市内の自宅から通っとる子は気軽に辞めとったけど、長崎とか鹿児島とかから推薦で寮に来とる子は、辞めるに辞められんでさ。 一晩中、鈴木ホモの悪口ば言いながら練習しよったよ」
「うわ、地獄じゃん。あの鈴木ホモ、まだ監督やりよると?」
「そうそう。あ、知っとる? 最近、部内で集団退部騒ぎば起こしたらしいよ」
莉子は呆れたように鼻で笑った。
「そりゃ毎年起きん方が不思議たい。 ってか、あのホモ根本的に女子の指導に向いとらん」
「それは本当、みんな言う」
くるみがコーラのボトルを片手に笑い崩れると、ベンチの奥から他のメンバーたちの声が上がった。
「おーい、二人とも! そろそろ始めるよー!」
「はーい、今行く!」
くるみが応え、莉子も気持ちを切り替えるように深く息を吐いた。
懐かしい泥臭い会話を終え、二人はコートへと視線を向ける。
そして、試合前のミーティングが始まった。
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