【小説・ヴィーナス症候群】[582]本日は人柄もよく
フリーの「トルソーさん」・戸頭紬のこの日の仕事は、横浜のホテル・ノースハーバーのブライダルフェアだった。
湘南新宿ラインに揺られながら、紬は少し憂鬱な気分になっていた。
ノースハーバーは、結婚式場としてよく使われるホテルで、トルソーたちの間でもお馴染みの現場だ。仕事が切れない、という意味ではありがたい場所でもある。
ただし、問題は人だった。
ブライダルプランナーの島本。
この人は、とにかく機嫌の良い時と悪い時の差が激しい。
トルソー同士の情報交換用コミュニティ、いわゆる「トルコミ」では、
「今日は当たりだった」
「昨日はやめといたほうがよかった」
と、半ば天気予報のように名前が出てくる。
過去には、島本と口論になり、その後しばらくノースハーバーの案件が回ってこなくなった先輩もいる、という話まであった。
紬は、なるべく考えないようにして、ホテルの正面玄関をくぐった。
「おはようございます。トルソーの戸頭です」
そう名乗ると、島本は一瞬だけこちらを見てから、表情を崩した。
「あらぁ〜、紬ちゃん!池袋から遠かったでしょ?」
その声色で、今日の機嫌が分かった。
どうやら、今日は“いい日”らしい。
周囲のスタッフたちも、それを察したように、少し距離を取りつつ、それぞれの準備に戻っていく。
逆鱗に触れなければ、今日は平和に終わる。そんな空気だった。
紬も内心で息をつきながら、更衣室へ向かった。
ドレスに着替え、義手を外す。
肩先が軽くなる感覚は、もう何度も経験している。
展示用のドレスは、装飾が多く、布の落ち方がはっきり出るタイプだった。
腕のない身体のほうが、余計な影を作らない。
式場に出ると、島本が軽く顎で位置を示した。
「じゃ、そこね。来場者の動線、ここが一番きれいだから」
「はい」

フェアが始まると、プランナーが来場者を連れて、次々と会場を案内していく。
紬は、立ち位置を変えず、ただドレスの一部としてそこに立った。
途中、若いスタッフが小声で話しているのが聞こえた。
「今日は島本さん、穏やかですね」
「うん……本日はお人柄もよく、って感じ」
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