【小説・ヴィーナス症候群】(110)海外進出
第1章 航海のはじまり
赤坂・ドレス系ブランド「Felice」の会議室に、低い声が重なっていた。
スライドは映されていない。ただ、数枚の資料と、黙り込む人々。
それが、今日の空気だった。
「──もう限界ですよ。国内だけでやっていくのは」
最初に口火を切ったのは、営業部長だった。
彼は指先でテーブルを軽く叩きながら、言った。
「市場全体が縮小してる。特に若い世代のドレス離れが深刻だ。成人式でもレンタルが主流になってるし、ウェディングドレスだってサブスクで済ませる時代ですからね」
資料に載ったグラフは、緩やかに、それでも確実に右肩下がりだった。
「そもそも、物を所有することに価値を見出してない。『一回映えればいい』って発想なんだよな」
マーケティング担当が補足する。
「だからって、うちがサブスクに迎合したら終わりですよ」
デザインチーフが、ややきつい口調でかぶせた。
「うちのドレスは“選ぶことに意味がある服”なんだから」
しばらく沈黙が落ちた。
「──それは、わかってます」
営業部長はそう言い、視線をホワイトボードに向けた。
そこには、まだ何も書かれていない。
「ただ、動き出すタイミングは、今しかない。パリの合同展示会での反応を、皆さんも見たでしょう」
「はい」
広報担当が、静かにうなずいた。
「素材感、仕立て、シルエット。どれも『日本発』って先入観を持たれずに評価されました」
「しかも、何人かのバイヤーは言ってた。『都市型のドレスラインとして面白い』って」
「都市型?」
デザインチーフが眉をひそめた。
「要は──」
広報が言葉を探しながら続ける。
「結婚式でもない、カジュアルすぎない、でもオフィスにもパーティにもそのまま行ける。
都市で生活する層が、昼も夜も着回せるドレス。そういう需要が、向こうではあるんです」
「……うちは、ウェディングが出自だぞ」
デザインチーフは小さく言ったが、否定はしなかった。
代表取締役が、ようやく重い腰を上げるように言った。
「──出自に縛られるか、広げるか。決めるのは今だろう」
静かな声だったが、誰も言い返せなかった。
テーブルの上に置かれた資料が、わずかに風に震えた。
「Feliceは、海外展開に踏み切ります」
「まずは、ロンドンとパリ。来季の合同展示会を目指して、準備を進めましょう」
会議室の空気が、少しだけ、きりきりと締まった。
これが、Feliceの航海のはじまりだった。
第2章 試作ドレス
「──誰が着る?」
仮縫い室に集まった数人のスタッフたちを前に、デザインチーフが言った。
手には、一枚のデザイン画。
ミッドナイトチャコールのシルクタフタを、ただ直線だけで落としたような、静かなロングドレス。
ピンと張った布。
高めに取られたウエストライン。
肩から脇へ、腕を想定しないラインで落とす無袖の構造。
──これが、Feliceの海外展開、第一作だった。
「……莉子ちゃんがいいんじゃない?」
パタンナーがぽつりとつぶやく。
「身長あるし、バランス取れるでしょ。向こうの基準だと、170は欲しいって言ってたし」
「うん、莉子が一番近い」
奈緒も同意する。
「このドレス、身長ないとただの布に見えちゃうよ」
「……またあたしか」
仮縫いスペースの壁際に立っていた武隈莉子は、苦笑混じりに首をすくめた。
172センチ。Feliceのトルソー陣のなかでも、ひときわ背が高い。
「頼むよ」
デザインチーフが、わずかに笑った。
「今回は“歩かない”から。立ってるだけでいい」
「って言っても、布が動くんでしょ。風とか」
「動くよ。動くけど、動かないみたいに見せるんだ」
莉子は、はあ、とため息をついた。
でも、内心では、少しうれしかった。
Feliceの最初の海外仕様──その“原型”を、自分が最初に着る。
「サイズは大丈夫?」
「この前測った時と変わってなければ……」
すぐに仮縫いに入ることになった。
⸻
作業台に、まだ切り出されたばかりのシルクタフタが広がっていた。
指先でそっとなでると、布はひんやりと肌を撫で、すぐに柔らかく沈んだ。
仮縫い師がピンを打ち、奈緒が細かく微調整をかける。
肩先の布は、ただそっと置かれるだけ──
ドレスに腕を通すという動作そのものが存在しない。
莉子は、じっと立っていた。
呼吸も、動きも、できるだけ抑えて。
生地の重みが、背骨をまっすぐに引っ張る感覚がある。
「……いい」
奈緒が、目を細めた。
「立ってるだけで、ちゃんとドレスが浮いて見える」
「ほんとだ」
パタンナーも、感心したように呟く。
ピンを打つたびに、ドレスが身体に沿って静かに形を変えていく。
足元に溜まるチャコールグレーの波──
その波が、莉子の体温と重なって、少しずつ空間を支配していった。

それは、まだ完成ではない。
ただの試作だった。
けれど、この一着に、Feliceの未来が懸かっていることを、
莉子は無言で、誰よりも強く感じていた。
第3章 静かなる懸念
「それで──」
営業部長の声が、重たく会議室に落ちた。
仮縫いを終えた試作品は、すでに撮影も済んでいる。
チャコールグレーのドレス。構築的で、静かな存在感。
誰もが、その完成度に異論はなかった。
問題は、展示の方法だった。
「現地展示の際、トルソーさんを起用する方向で……よろしいでしょうか?」
室内の空気が、わずかに硬直する。
Feliceでは、プラスチックのトルソーを使わない。
生身の身体──ヴィーナス児たちを、動かない美の象徴として展示する。
それが、ブランドの哲学だった。
しかし──。
「……日本国内なら問題なかったけど」
広報担当が、慎重に言葉を探した。
「欧米では、違った見え方をされる可能性があります」
代表取締役が、視線を上げた。
「具体的に?」
マーケティング担当が、タブレットを操作しながら答える。
「オーストラリアのステラ・ヤングという方がいまして……TEDトークで、『感動ポルノ』という言葉を広めました」
「感動ポルノ?」
営業若手が首をかしげる。
「障害者を“勇気をくれる存在”として消費することです」
広報が補足する。
「善意に見えても、健常者の自己満足だと批判される。英語圏ではこの意識、かなり浸透してます」
「実際、ナイキも炎上しましたよね」
営業若手が続ける。
「パラアスリートを広告に起用して、“君に言い訳はない”ってキャッチコピーをつけたら、『一般の障害者に過剰な期待を押しつけるな』って叩かれました。Supercrip批判って呼ばれてます」
「……つまり」
代表取締役が、短くまとめる。
「向こうでは、障害者を“強く見せても”“美しく見せても”、リスクになるわけだ」
「はい」
「展示会の運営側が、倫理規定に抵触すると判断する可能性もゼロではありません」
広報の声も、慎重だった。
「表向きは自由と平等を尊重していても、扱いを間違えたら──
たとえそれが“良かれと思って”でも、叩かれるのは出展者側です」
テーブルを囲む面々が、沈黙する。
「──理念で動くのは国内までだな」
代表取締役は、短く結論を出した。
「現地で問題が生じれば、即座にプラスチックトルソーに切り替える。
バックアップは必ず用意しておけ。二の矢を忘れるな」
「了解です」
営業部長がうなずいた。
この場で問われたのは、
「便利か」「リスクがないか」──ただそれだけだった。
第4章 控え室の影
控え室のドアが、軋む音を立てて閉まった。
仮縫いを終えたばかりの莉子は、重たく息を吐きながら、壁際のソファに腰を落とした。
チャコールグレーのドレスは、まだ身体に馴染んでいない。
滑るようなシルクの感触が、皮膚の上を微かに撫でていた。
その向かい、缶コーヒーを手にした夜久野由美と、
ストレッチをしている檜皮谷奈緒がいた。
誰も言葉を発さなかった。
ただ、控え室の古びたエアコンが、静かに唸っている。
莉子は、ぽつりと漏らした。
「ねえ……」
誰も顔を向けなかったが、耳だけはこちらを向いている。
「欧米ってさ、日本より自由で、障害者にも理解あるんじゃなかったの?」
沈黙。
莉子は続けた。
「そう聞いてたんだけど。
でもさ、さっき会議で聞いたよ。“感動ポルノがどうこう”とか、“過剰な期待はダメだ”とか……。
だったら、わたしたちみたいな身体で立ってるだけでも、怒られるかもしれないって」
言葉の端々に、苛立ちがにじんだ。
「自由の国なんじゃないの? 理解のある社会なんじゃないの?
それで、“見せ方が悪いと叩かれる”って、なんなのそれ」
由美は、缶を指でくるくる回しながら答えた。
「……自由って、たぶん“見ない自由”も含まれるんだよ」
「見ない自由?」
「うん。『見たくない』って思ったら、そっとしておく自由。
わたしたちを、“特別な存在”にも、“かわいそうな存在”にもしたくない。
でも、あんまり“普通っぽく”扱われると、それはそれで居心地悪いんだよ、向こうの人は」
奈緒は、背もたれに軽く寄りかかりながら言った。
「あと、健常者のために立たされてるって思われたら、もうアウトだよ。
わたしたちが『ドレスの美しさを伝えるためにここにいる』って理由でもさ、
勝手に“搾取された被害者”みたいに扱われる」
「そんな……」
莉子は呆れたように息をついた。
「どっちにしても、勝手じゃん」
「うん、勝手だよ」
由美は、かすかに笑った。
「でも、それが世界だよ。自由って、きれいなだけじゃない」
奈緒も、小さくうなずいた。
「だから──自分で立つしかないんだよ。
見られようと、見られまいと、立つって決めたら、それが答え」
控え室のエアコンが、また低く唸った。
莉子は、ふっと目を閉じた。
チャコールグレーのドレスの重みが、肩に、胸に、背中に染み込んでいく。
──誰のためでもない。
──自分のために、立つ。
そんな答えが、まだ形にならないまま、彼女の中で生まれつつあった。
