【小説・ヴィーナス症候群】[414]猫にこんばんは
戸頭紬は、都電雑司ヶ谷の停留所の近くのアパートに住んでいる。
フリーの「トルソーさん」――生まれつき両腕のない女性が衣装やアクセサリーの展示のために雇われる仕事――をしている。
紬もまた、生まれつき両腕のない「ヴィーナス児」のひとりだった。
身体障害者手帳の等級は1級。だから、都電や都営バスは無料で乗れる。
けれど実際には、都電なんてほとんど使うことがなかった。
仕事に出るときは、池袋まで歩いて電車に乗るか、有楽町線の東池袋、副都心線の雑司ヶ谷、仕事場所によってルートを変える。都合よく都電沿線の早稲田や王子あたりで仕事など、ほとんど無いのだ。
都電に乗るのは、仕事帰りに「もう歩くのがだるいな」と思った夜くらいだった。
その日もそうだった。
御徒町でジュエリーの展示仕事。静止したまま何時間も立ち続けて、背筋の奥がじんと痛む。
紬は「今日は都電コースだな」と小さくつぶやいて、大塚駅で乗り換えた。
雑司ヶ谷の停留所で降りると、いつものサバトラの猫がいた。
街灯の下、レールの脇で座り込んで、こちらを見ている。
最近、この時間にいつもいる。まるで忠犬ハチ公みたいに、誰かを待っているのだろうか。
紬はしゃがみこむ代わりに、そっと身体を傾けて目線を合わせた。
「こんばんは」と声をかけてみる。
猫は小さく尻尾を振って、ゆっくりと歩き出し、暗い路地に消えていった。
紬はしばらく、灯りの滲む夜の線路を眺めていた。
トラムの小さな音が近づいてくる。
猫の気まぐれな背中と、自分の一日の終わりが、どこか似ている気がした。

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