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【小説・ヴィーナス症候群】(12)ヴィーナスの声

第1章 声しかなかけん

鬼池詩織(おにいけ・しおり)は、生まれつき両腕がなかった。
ヴィーナス児――いわゆる「第2サリドマイド事件」でそう呼ばれる身体で生まれたことが、彼女の人生を特別にした。でも、詩織にとってそれは、朝起きて義手をつけるのと同じくらい、あたりまえの日常だった。

学校では、気を遣う先生、よそよそしくなる友だち、「かわいそう」と言いたげな大人たち――そんな空気に囲まれて育った。それでも、音楽だけは、何も求めてこなかった。

小学校の音楽室でモーツァルトの《魔笛》が流れた日。夜の女王のアリアに、彼女は息を呑んだ。音が空間を切り裂いて、胸の奥に流れ込んできた。世界の音が、別のかたちで聴こえた瞬間だった。

合唱部に入った彼女は、譜面を見るだけで旋律を理解した。耳で聴いた音は、翌日にはそのまま歌えた。ピアノを習ったこともなければ、楽器に触れた経験もなかったのに、移調された伴奏にもぴたりと合わせた。

「詩織ちゃん、音が聴こえとるだけじゃなか。音の中におるとよ」
顧問の先生はそう呟いた。

ピアノは家にない。父は市役所に勤めていて、母はダイキョーバリューのレジで働いていた。真面目な共働き家庭に、音楽の習い事にかける余裕はなかった。

詩織は、義手をつけて日々の生活をこなしていた。ボタンをかけるのも、水筒のふたを開けるのも、時間はかかったけれど、できないことはなかった。けれど、音楽だけは、義手の力を借りずにできることだった。

中学では、図書館に置かれた楽理の本を独学で読み漁った。ソルフェージュも一人で練習した。譜面を目で追いながら、頭の中で音を響かせる。それは、手がなくてもできたことだった。

音楽科のある私立高校に進学したい――その願いを、ある夜、彼女は家族に告げた。
食卓が静まり返った。

「学費もかかるし、レッスン代や交通費まで含めたら…正直、きつかとよ」
父は箸を止めて、声を絞った。

「うち、普通の高校でいいけん。音楽は趣味で続けるけん、大丈夫」
詩織がそう言いかけたとき、台所から母の声が飛んできた。

「でもさ、あんた、腕はなかけど、声があるっちゃろ? そげんして生きてくしかなかとやったら、やれるとこまで、やってみんね。かあちゃん、レジのシフト増やすけん、大丈夫たい」

その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなった。詩織は声を出さずにうなずいた。

それから家族は、静かに生活を変えていった。父は車を手放し、母は週6日、ダイキョーバリューのレジに立った。詩織も、時間を無駄にせず、音楽と向き合った。

高校では、両腕のない彼女のためにピアノ実技は免除された。その代わり、楽典とソルフェージュでは学年トップの成績を取り続けた。即興演奏に迷いなく歌を合わせることができたのは、彼女ただ一人だった。

「鬼池さんは、音符が見えとるんやなくて、音が見えとるっちゃろ」
教授がぽつりとつぶやいたとき、詩織は初めて、自分の才能が身体を超えて評価された気がした。

音の中でなら、自由になれる。
声があるかぎり、きっと、自分はどこまでも進んでいける。

第2章 かたちのない才能

音楽科のある高校を卒業した鬼池詩織は、福岡県外の私立音大に進学した。
進学先では、地方の高校よりもはるかに多くの「本気の音楽家の卵たち」が集まり、声楽専攻だけでも数十人。留学経験者、絶対音感持ち、音楽家の家系――そんな言葉が何の誇張もなく飛び交っていた。

詩織は、入学式のあと、ひとりで寮の部屋に戻って義手を外した。疲れたときは素手でいたほうが楽だった。手元にあった紙コップの水を足で持ち上げ、一気に飲み干す。息をついて、ためらいがちに鏡を見る。

両肩から先のない自分の姿は、もう何年も見慣れているはずなのに、知らない場所に来ると、途端に「見られること」を意識してしまう。

講義初日、講師が言った。

「このクラスの中から、ほんとうにプロになれるのは、せいぜい数人です。声に“身体”がある人間だけが、舞台に立てます」

声に身体。
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。

ソルフェージュの授業では、相変わらず彼女は群を抜いていた。初見も聴音も誰よりも速く、正確だった。でも、舞台に立つ演習の時間になると、教授の目は別の学生を追っていた。

発声練習のたびに思う。
音を出すことと、音を「見せる」ことの違い。
この世界では、後者のほうが価値があるのだという現実。

ある日、オペラの演習で「魔笛」の一節をソロで歌う機会が巡ってきた。オーディション形式。詩織は歌い切った。講師はこう評した。

「声の線が細いね。もっと腕で表現をつけられれば、印象が変わるかもしれない」

そのとき、教室の空気が一瞬止まった。講師も、言ってから気づいたようだった。

「……あ、ごめん。そういう意味じゃなくて」

詩織は笑って、「大丈夫です」とだけ言った。誰にも責められたくなかった。誰にも同情されたくなかった。

帰り道、駅のホームでイヤホンを差し込む。流れてきたのは、高校時代からずっと聴いていたマリア・カラスのアリア。そこには、身体も、舞台装置も、振り付けもなかった。ただ、声だけが空間を支配していた。

「声しかない自分」と「声だけで世界を動かした人」
その距離が、今日だけは少しだけ近づいたような気がした。

その夜、詩織は久しぶりに義手を外したまま、ベッドに横になった。

第3章 麻帆という光

大学2年の春。新しい学年が始まり、課題と実技に追われる日々の中、鬼池詩織は久しぶりに一人で声楽室に残って譜読みをしていた。

隣の練習室から、誰かの笑い声とスマホの音が漏れてくる。

「ねえ、これ見て。YouTubeのやつ。詩織さんみたいな人なんだけど…」
「うわ、ほんとだ。両腕ないのに足で料理してる! この人、麻帆っていうんだ」
「すごいよね、義手も使わないで全部足でやってる。なんか…見てて泣けた」

その瞬間、譜面を追っていた詩織の視線が止まった。

詩織さんみたいな人。
両腕がない――それは自分のことだった。だからこそ、他人の口からそんな言葉が出たときの空気の揺れに、彼女は誰よりも敏感だった。

夜、寮のベッドに横になっていた詩織は、毛布の中で足をゆっくり伸ばした。
義手は、すでに外していた。誰にも会わないこの時間だけは、自分の本当の姿でいられる。

足の指先で器用につかんだスマートフォンを、そっと胸の上に乗せる。
検索窓に「ヴィーナス児 麻帆」と打ち込むと、すぐにチャンネルが表示された。

Venus diary

ノースリーブのキャミソールを着た若い女性が、ドローンに向かって笑っていた。両腕はなかった。だが、そこに“隠している”様子は一切なかった。

「こんにちは、麻帆です。今日は足で包丁を使うコツを紹介します。ポイントは、指先じゃなくて足の甲を使うこと。力が入りやすいんです」

ごく普通の口調で語られるその説明に、詩織は思わず息を呑んだ。

義手をつけて過ごすことが“普通”だと思っていた自分には、麻帆の姿は別世界のものに見えた。日常の中で隠すでも、闘うでもなく、ただ“見せている”。

動画の途中、麻帆がふとつぶやいた。

『自分の体をいちいち説明するより、見せちゃったほうが楽なんだよね』

その一言が、心の奥を突いた。

詩織はこれまで、説明しないために義手をつけてきた。注目されないように、迷惑をかけないように。
だけど――それはほんとうに“楽”だったのだろうか?

翌朝、大学へ向かう電車の中、詩織は無意識に鞄の中へ足を差し込み、義手の留め具を少しだけ緩めてみた。外すには勇気が要った。周囲の視線が気になって、思わず元に戻した。

でも、初めて「外してもいいのかもしれない」と思えた。
その気持ちだけは、本物だった。

その夜、また麻帆の動画を観た。
今度は、足でギターを弾きながら小さな歌を口ずさむ麻帆の姿だった。

♪ みんな違うよ 当たり前じゃん
なのにどうして そろえたがるの?
わたしは わたしを ほどいていくと

詩織は、スマホを胸に抱いたまま、ぽつりと呟いた。

「……うちも、そうなれたら、よかっちゃけどね」

そのとき、自分が博多弁で言っていたことに少し驚いた。
東京に出てきてから、標準語がすっかり馴染んでいたつもりだったのに、心の奥から出てくる言葉は、やっぱりあの頃のままだった。

彼女はまだ、何も変えていない。
でも、麻帆という存在が、胸の奥に小さな灯をともした。

その火はまだ、小さくて弱かったけれど、
たしかに、そこに光っていた。

第4章 見せる、ということ

夏の終わり、音大では学内コンサートのオーディションが始まっていた。
詩織も声楽専攻の一人として、参加を決めていた。

演目はシューベルトの《アヴェ・マリア》。
派手さはないが、音の美しさが際立つ一曲だ。技巧や動きではなく、純粋に“声”が問われる。
それは、詩織にとってこの上ない勝負曲だった。

「衣装の相談なんだけど、袖どうする?」
舞台衣装担当の学生がそう尋ねたとき、詩織は一瞬、黙った。

これまでは、必ず長袖のドレスを選んでいた。義手を自然に隠せるし、袖があることで「見せる必要のない体」になれる。そうやって、ずっと守ってきた。

けれど、今回は――違った。

「……袖、なくてもいいです。ノースリーブで」

自分でも、声が震えているのがわかった。衣装係の学生は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐにうなずいた。

「了解。素敵だと思います」

その夜、寮の部屋で義手を外し、詩織は鏡の前に立った。
両肩から何もない自分の姿は、見慣れているはずなのに、舞台の衣装を重ねて想像したときだけ、急に心細くなった。

「見せるって、こういうことなんやね……」

誰に言うでもなく呟いたその言葉に、胸の奥が少しだけ震えた。



コンサート当日。舞台袖で義手を外し、スタッフに預ける。
ノースリーブのドレスに両腕のない肩がさらされるのは、これが初めてだった。

客席のざわめきが、遠くに聞こえる。
目立ちたいわけじゃない。むしろ、誰にも見られたくなかった。
でも、声だけで伝わる何かを信じてきたからこそ、今日は「声だけじゃない自分」も見せなければいけないと思った。

名前が呼ばれる。

舞台の中央へ、足でバランスをとりながらゆっくりと進む。
一礼し、立ち止まる。

ピアノの前奏が流れる。
息を吸う。

――そして、歌い始めた。



歌い終えたあと、詩織は一礼して舞台袖に下がった。客席からは、拍手が静かに、しかし確かに続いていた。

誰も何も言わなかった。けれど、それでよかった。
言葉より先に届くものを、確かに自分の声が運んでくれた気がした。

控室に戻ると、机の上にスマホが光っていた。
通知には、後輩からの短いメッセージが届いていた。

「あの姿で、あの歌声だったからこそ、心が震えました」

詩織はスマホを見つめながら、小さく笑った。

見せることは、怖い。
でも、その先にしか届かない場所が、たしかにある。

第5章 届いてしまった声

学内コンサートの翌日、詩織は早朝の声楽室で一人練習していた。
義手はいつも通りつけていたが、身体のどこかにまだ昨日の「素手の記憶」が残っていた。
舞台に立ったときの、ライトの熱。ドレスの肩が風を受けた感触。客席から自分の肩へとまっすぐ向けられた視線――。

「見せたんやけん、もう戻れんとよね」
ぽつりと呟いた言葉に、自分でうなずいた。

控えめな舞台だったはずだった。けれどその日の午後、学内掲示板の一角に動画が貼られていた。録画係の学生が非公開でアップした、詩織の《アヴェ・マリア》。

最初に気づいたのは、1年生の後輩から届いたメッセージだった。

「Twitterで話題になってます。“義手を外したソプラノ”って紹介されてて…詩織さんの歌、すごく拡散されてます」

恐る恐る開いたスマホには、知らないアカウントが共有したリンクが並んでいた。
その中の一つには、こう書かれていた。

「この歌には、言葉を超える何かがある。演出じゃない“生身の祈り”。」

演出じゃない。
それは詩織にとって、一番言われたかった言葉だった。

スクロールすると、いろんな声が並んでいた。

「同じヴィーナス児だけど、あんなふうに“美しさ”として舞台に立つ人は初めて見た」
「“見せる”ことを自分の表現にできるって、すごいことだと思う」
「ヴィーナス児って言葉、ここまでポジティブな意味で聞いたの、初めてかもしれない」

もちろん、戸惑いの声もあった。

「ああいう“見せ方”が正しいって思われるの、ちょっと怖いな」
「当事者にもいろんな生き方があるって、ちゃんと伝わるといいんだけど」

でも、どの言葉にも共通していたのは、“届いた”という事実だった。
見せたからこそ、伝わった。
伝わったからこそ、生まれた議論や共鳴があった。

一週間後。大学の教授に呼ばれた。

「鬼池さん、来月の学外演奏会に出てみないか? 外部の音楽祭だけど、君の舞台が関係者の目に留まったらしい」

思わず言葉を失った。
それは、音大生の中でもほんの一握りだけが立つ舞台だった。

「わたしでいいんですか」

「君じゃなきゃダメだって話が来てる。正直、今の音楽界には“新しい視点”が求められてる。君の歌にはそれがあると思う」

新しい視点。
それは、“声だけの表現”でも、“身体をさらけ出すこと”でもない。
どちらも受け入れた先にあるもの。



その夜、詩織は義手を外し、部屋の明かりを落としてからタブレットを開いた。
Venus diary」の新しい動画が上がっていた。

麻帆が、新しい視聴者からのコメントに答える形で、こう語っていた。

「“見せていい”って、自分で決めることだからね。誰かに『見せてください』って言われたときは、いったん考えたほうがいい。
でも、自分が見せたくなったら、それは自由だと思うよ」

詩織は画面に向かって、小さくうなずいた。

舞台は、きっと怖い。でも今なら、
もう一度あの光の中に立てる気がする。

第6章 光の下に立つ

演奏会の会場は、都内でも指折りの歴史あるホールだった。
席数五百、クラシック専用の舞台。詩織はその下見に訪れた瞬間、無意識に息を呑んだ。

客席が広い。
ステージが深い。
そして何より、スポットライトが「何もかも照らしてしまいそうな」明るさだった。

舞台監督が言った。

「照明プラン、もしご希望があれば調整しますよ。少し陰影をつけるとか、後ろから光を当てて輪郭を和らげるとか…」

詩織は、ほんの一瞬だけ迷った。
けれど、首を横に振った。

「そのままで大丈夫です。全部、見せるつもりなので」

スタッフは少し驚いたようだったが、すぐに笑ってうなずいた。



リハーサル初日。共演するソプラノ歌手や伴奏者たちの間でも、詩織の存在はすでに知られていた。
YouTubeで拡散された映像を見て、舞台を楽しみにしているという声も多かった。

「生で聴けるなんて、嬉しいです」
「ヴィーナス児の表現って、すごく未来的で純粋な感じがして…」

それは確かに好意的な言葉だった。
でもどこか、自分の“身体”だけが先に評価されているような空虚さもあった。

その夜、ホテルの部屋で麻帆の動画を見返した。
麻帆は、淡々とこんなことを言っていた。

「“すごいね”って言われるのも、しんどいことがあるよ。見せてるのは私なのに、“見られる私”ばかりが注目されると、ちょっとね」

詩織は画面を見つめながら、自分の心に起きていたことを初めてはっきりと言葉にできた。

今、自分は“聴かれる人”から“見られる人”に変わろうとしている。

その変化が嬉しいのか、怖いのか、まだうまく言えなかった。



本番の日。舞台袖には、各出演者が衣装に身を包んで待機していた。
詩織はいつものように、控え室で義手を外した。ノースリーブのドレスに着替えた両肩が、冷たい空気に触れる。

でも、今回は震えなかった。
ステージに立つことが、自分の選択だと思えていた。

スポットライトが落ちる。
足音が響く。
何百という目が、音の前にまず彼女の身体に注がれる。

でもそれでいい、と初めて思えた。

ピアノのイントロが鳴る。
呼吸を整える。
そして、声を放った。



演奏後、舞台を降りると、楽屋には主催者が直々に訪れた。

「あなたのパフォーマンスには、言葉を超えた力がありました。ヴィーナス児という言葉を、芸術として初めて“認識”できた気がします」

詩織は、深く頭を下げた。
この言葉は、自分だけのものではない――同じ身体を持って生きる誰かに向けられたものでもあると、そう感じた。

控室に戻ったとき、スマホに1通のDMが届いていた。

「初めて、麻帆以外のヴィーナス児に憧れたよ。ありがとう」

名前はなかった。
でも、そのひとことが、詩織の胸に深く染み込んだ。

光の下に立つことは、もう怖くない。
これからは、その光を誰かに分けていけるかもしれない――そんな予感がしていた。

第7章 象徴の衣を脱ぐ

演奏会が終わったあと、詩織のもとにはいくつもの依頼が届いた。
次の公演、テレビ番組、雑誌の取材、講演の打診。いずれも、こう始まっていた。

「ヴィーナス児初のプロ声楽家として、ぜひ」

その言葉が嫌なわけではなかった。
けれど、“自分の声”を聴いてほしくて始めたはずの舞台が、いつのまにか“自分の姿”で語られていることに、気づかないふりができなくなっていた。

ある取材で、ライターが言った。

「障害を超えた美しさ、という表現は使っても?」

詩織は微笑みながら、首を横に振った。

「超えるんじゃなくて、そのままでいいんだと思っています。
“そこにあるもの”として、表現しているつもりです」

ライターは「なるほど」と頷いたが、ノートのペンは止まらなかった。



数日後、マネジメント事務所のスタッフが言った。

Venus diaryの麻帆さんが、会いたいそうです。対談じゃなく、オフで。お茶でも、と」

詩織は一瞬、胸の奥がざわついた。
彼女の動画に出会って、自分は変わった。でも、今の自分が、あの麻帆にどう見えるのか――自信はなかった。



都内の小さなカフェ。ガラス越しに光が差し、午後のクラシックが静かに流れている。
先に到着していた麻帆が、詩織に気づいて立ち上がった。

「こんにちは、鬼池さん。お会いできて嬉しいです」

――鬼池さん。
その響きに、詩織は一瞬だけ、肩がこわばった。

「こんにちは、麻帆さん。……あの、呼び方、詩織でいいですよ。
“鬼池さん”って呼ばれると、ちょっと他人行儀な気がして」

麻帆はふっと笑った。

「そう? じゃあ、詩織ちゃんって呼んでもいい?」
「はい。わたしも、麻帆ちゃんって呼んでもいいですか?」

「もちろん!」

名前を呼び合っただけなのに、不思議と心の緊張がとけていった。
麻帆はやっぱり、画面の中と変わらない人だった。ただ少しだけ、思っていたよりも繊細な目をしていた。

「詩織ちゃんのステージ、観たよ。ほんと、すごかった。
でもね、ちょっと心配にもなったんよ」

「心配…?」

「“見せること”って、自分で選んだつもりでも、いつの間にか“見せられてる側”になってることがあるとよ。
詩織ちゃん、今、そういう場所に立ってる気がして」

その言葉に、詩織は顔を伏せた。
自分のどこかが、ぎゅっと掴まれたような感覚があった。

「……最近、本当にわからなくなる時があります。
“声”で生きたいのに、“見られる存在”として語られることが増えてきて。
気づくと、“自分で選んだ”はずの表現が、どこか遠くにいってしまうような気がして」

麻帆ちゃんは、やわらかく笑った。

「わかるよ。わたしもね、そういう時期あった。
でもね、最初に“自分のために”見せた日のことを忘れんかったら、ちゃんと戻ってこれるとよ。
どんなに見られても、“見せる自分”を選びなおせるけん」

詩織はその言葉に、静かにうなずいた。
目の前にいるこの人は、やっぱりあのとき画面越しに光をくれた“麻帆ちゃん”だった。



帰り道、詩織は学内コンサートの動画を再生した。
義手を外して、ノースリーブのドレスで舞台に立った、あの日。

誰かに見られるためじゃなかった。
自分の声で、自分を届けたくて、ただそれだけで立ったあの瞬間。

「……あの日の声を、忘れんようにせんと」

街灯の下、詩織の影がゆっくりと伸びた。
それは、誰の象徴でもない。
ただ“詩織”としての、自分自身の輪郭だった。

第8章 渡す声

「ヴィーナス児の子どもたちの前で歌ってもらえませんか?」

ある日、詩織のもとにそんな依頼が届いた。
自治体が主催する、小中学生向けのインクルーシブ教育プログラム。その一環として、ヴィーナス児の子どもたちが多数通う特別支援学級でミニコンサートを開いてほしい、という内容だった。

「歌うだけでいいです。短くて構いません。もし話せることがあれば、それも少し」

歌って話す――
それだけのことなのに、詩織の中で何かがざわついた。
それは、「自分を語ること」に再び立ち戻るようで、どこか怖くもあった。



当日、体育館の簡易ステージの前に、小さな椅子が並んでいた。
低学年の子が多かったが、真剣な顔で話を聞いてくれる子たちばかりだった。

詩織はノースリーブのワンピースで舞台に立った。義手はつけていない。
けれど、客席の空気はいつもとまったく違っていた。見つめる瞳に、“好奇”ではなく、“わたしも”が混じっている。

「こんにちは。声楽をやっています、鬼池詩織です。
わたしは、生まれつき両腕がありません。でも、歌が大好きで、ずっと声で生きてきました」

一人の女の子が、小さくうなずいたのが見えた。左肩から先がない子だった。彼女だけが、視線を逸らさずまっすぐ詩織を見つめていた。

詩織はそのまま、《アメイジング・グレイス》を歌い始めた。ピアノ伴奏は学校の先生。音が始まると、体育館の空気がすっと静かになった。

歌が終わると、少し間があって、ぱらぱらと拍手が起きた。
最初に手を叩いたのは、その女の子だった。

終演後、控室に戻ろうとした詩織の前に、その子がやってきた。
名前は沙耶。小学六年生。両腕はなく、普段は義手をつけているという。

「詩織ちゃん、どうして歌ってるの?」

突然の質問に、詩織は少しだけ考えてから、こう答えた。

「“うたうとき”だけは、自分の身体のかたちを忘れることができるからかもしれない。
でも、いまは、忘れなくても歌えるようになったんよ」

沙耶は黙って聞いていたが、最後にぽつんと呟いた。

「わたしも、歌いたい」

その言葉に、詩織は思わず笑顔になった。

「じゃあ、今度、一緒に歌おうか。わたし、足でピアノくらい弾けるし」

「ほんとに? 足で?」

「ほんと。びっくりするほど不器用だけど、なんとかなるけん」

沙耶は笑った。詩織も笑った。

その笑顔の中に、たしかなものがあった。



帰りの電車の中。詩織は窓に映る自分の姿を見ながら、そっと呟いた。

「渡すって、こういうことなんやね」

自分の声は、もうただ「届ける」だけのものじゃない。
それを受け取った誰かが、いつかまた誰かに歌を手渡していく。
そうして、まだ名もない声が、未来に向かって広がっていく――。

第9章 声の芽

あの日から一ヶ月後、詩織は沙耶の通う学校にもう一度足を運んだ。
あのミニコンサートのあと、校長先生から提案があったのだ。

「もしよろしければ、年に数回でも、子どもたちと“声”で向き合う場を持てませんか?」

それは、声楽家としての活動というより、「言葉と身体をつなげる時間を一緒に作る人」になるということだった。

詩織は迷いながらも、引き受けた。
たった一人の沙耶の「わたしも歌いたい」の声が、ずっと耳の奥に残っていた。



第1回のワークショップの日。体育館には10人ほどの子どもたちが集まっていた。
全員がヴィーナス児というわけではない。義足の子もいれば、発話が難しい子、発達的な特性を持つ子もいた。
でも皆、じっと詩織の方を見ていた。

「今日は、“うまく歌う”ことを目指しません。声を出すって、楽しいなって思えたら、それで十分です」

そう言ってから、詩織は「声で描く花」をテーマに即興の発声を始めた。
「んー」「あー」「うー」
子どもたちが好きな音を、好きな高さで出す。それだけで、体育館は少しずつあたたかくなっていった。

最後に沙耶が、小さな声で「ラ」と歌った。
たった一音。でも、それは確かに“始まり”の音だった。

詩織はその声に、深くうなずいた。



ワークショップが終わったあと、沙耶がこっそり近づいてきた。

「今日ね、ちょっとだけ、自分の声がきれいって思えた」

「……それ、大事なことやん」

「うん。でも、きれいって思ったら、次は“誰かに聴かせたくなる”」

その言葉に、詩織ははっとした。

「そうか。聴いてもらいたいって思うと、声は“自分の外”に向くんやね」

沙耶はうんと頷いて、それから何かを言いかけたあと、急に照れたように口を閉じた。

「何?」

「……いつか、詩織ちゃんと、舞台に立ちたいなって、ちょっと思っただけ」

詩織は、ふわっと笑った。

「思っただけなら、もう半分は始まっとるけん」



その日の夜。詩織は麻帆にメッセージを送った。

今日、小さな“ラ”をもらいました。
あと数年したら、わたし、後ろでピアノ弾く係にまわるかもしれん。

すぐに既読がついて、麻帆から返信が来た。

あんた、足でピアノ弾けたっけ?

めちゃくちゃ下手。でも、音は出るよ。

じゃあそれで十分たい。

詩織は笑いながら、スマホを置いた。
声は芽吹くもの。誰かに水をやられるんじゃなく、自分の中から生まれるもの。

沙耶の“ラ”が、きっと、これから誰かの“ド”や“ソ”になっていく。
その隣にいられるなら、詩織の声は、もう迷わない。

第10章 見せるかたち、見せない声

ワークショップが軌道に乗り始めた頃、ある教育系ウェブメディアが取材にやってきた。
詩織は最初、取材を断るつもりだったが、子どもたちが「出ていいよ」と言ってくれたので、短い動画つきの特集記事というかたちで了承した。

それから数日後、記事が公開された。

「ヴィーナス児の声は、透明だった」
―声楽家・鬼池詩織と子どもたちの“発声教室”記録

記事には、子どもたちの笑顔と、詩織がピアノのそばで足を動かしている後ろ姿が写っていた。

その記事を、どこかで麻帆も読んでいたらしい。

「ねえ、あの子って、沙耶ちゃんって名前?」

ある日、詩織に届いたLINEのメッセージには、記事中の写真が添付されていた。

「そうだよ。最近、すごく声が変わってきた子」

「いい顔してたね。私の動画、見せてみた?」

「まだ。あの子が“自分から知りたい”と思うまでは、待ってる」

「……やっぱり、そういうとこ、詩織らしいな」



ところが、それから意外なかたちで“その時”が来た。

ワークショップの後、沙耶が突然言った。

「ねえ、麻帆ちゃんって、YouTubeの人でしょ?」

詩織は一瞬驚いた。

「どうして知ってるの?」

「お母さんが教えてくれた。“あんたが詩織ちゃんに憧れてるなら、麻帆ちゃんも見てみたら?”って」

「……観た?」

沙耶は、ちょっとだけ間をおいて頷いた。

「すごかった。
足で料理してるのとか、ドローンで自分を撮ってるのとか…びっくりした。
でも、それよりも、ぜんぜん恥ずかしがってなかったのが、一番すごかった」

「うん。私も、最初はそこにいちばん衝撃受けた」

沙耶は、自分の左肩を見つめながら言った。

「わたし、まだ“見せる”のが苦手。義手つけてると安心するし、誰にも聞かれなくて済むから。でも……“見せないと伝わらない”ことも、あるかもしれないって、ちょっと思った」

詩織は、うん、とゆっくり頷いた。

「見せるか、見せないかは、自分で決めていい。でも、“決められる自分”になるには、時間がかかるんだよ」

「……詩織ちゃんは、いつ決めたの?」

詩織は少し考えてから答えた。

「“見せても、声は変わらない”って思えたときかな」

「見せても、声は変わらない…」

沙耶は、その言葉をそっと口の中で繰り返した。



その日の夜、麻帆から再び連絡が来た。

沙耶ちゃん、私に会いたいって言ってくれたら教えて。
詩織と一緒に来るなら、私はいつでも大丈夫だから。

詩織はスマホを見つめながら、小さく笑った。
かつて自分が“会いたかった”人に、今は“つなげる”側になっている。

“声を渡す”っていうのは、たぶんそういうことなんだろう。
手じゃなくても。触れなくても。ちゃんと、伝わっていく。

第11章 まっすぐ見せる

待ち合わせ場所は、小さな撮影スタジオのラウンジだった。
麻帆の動画にたびたび登場する、あの白いソファと観葉植物の並ぶ空間。
画面越しに見ていた風景に、沙耶は足を止めて、しばらく立ち尽くした。

「大丈夫?」
詩織が声をかけると、沙耶はこくりと頷いた。

「緊張してるけど、来てよかったって思ってる」

扉が開く音がして、麻帆が現れた。
キャミソールにワイドパンツ、両腕のない肩をあらわにした姿のまま、ゆっくりと笑顔を見せた。

「こんにちは。沙耶ちゃんだよね? 来てくれてありがとう」

その口調は、動画で話しているときとまったく同じだった。
少し低めで、落ち着いていて、それでいて相手の目をまっすぐ見てくる。

沙耶は少し戸惑いながらも、ぎこちなく頭を下げた。

「……こんにちは。わたし、動画ずっと見てました。
いろんなこと、考えさせられました」

「うん。ありがとう。何か“わかった”とかじゃなくて、考えてもらえたなら、それだけで十分」

三人は、低いテーブルを囲んで座った。
詩織は、沙耶が自分から話し始めるのを待っていた。

「麻帆ちゃんって、なんでそんなに堂々と見せられるんですか?」

その質問に、麻帆は少しだけ目を細めた。

「見せるっていうより、“隠さない”って感じかな。
わたし、自分の身体って、別に特別だと思ってないから。
ただ、隠すと“特別”になっちゃうってことには、あるとき気づいたの」

沙耶は、そっと自分の義手を見下ろした。

「わたし、外すのがすごく怖くて。
人に“見せてもいい”って思えるようになるの、まだ時間かかりそうです」

「いいと思うよ。
わたしも、最初は見せられなかったし。
“見せる”って、自分がそうしたくなったときにだけすればいいことだと思う」

その言葉に、沙耶は肩の力を抜いたようだった。
そばにいた詩織も、小さく微笑んでいた。

「……この間、沙耶が“見せないと伝わらないこともあるかも”って言ったんだよ」

麻帆が、沙耶の顔をまっすぐ見て言った。

「それは、すごく大事な気づきだと思う。
でも、もし“伝えること”より“守ること”が大事な時期があるなら、そっちを選んでもいい。
自分の身体は、自分のものだからね」

沙耶は、しばらく何も言わず、それからポツリとつぶやいた。

「……このままのわたしで、いいって思いたいな。
そのうえで、見せられたらいいなって思います」

麻帆は、嬉しそうに頷いた。

「それが一番、まっすぐな見せ方かもね」



帰り道。スタジオのエレベーターを降りたあと、沙耶が詩織に言った。

「ありがとう、連れてきてくれて。
なんか、わたしの中に“見せたい気持ち”が少しだけ芽生えた気がする」

詩織は、優しく微笑んだ。

「その気持ち、大事に育てていこうね。急がなくていいから」

二人の足音が並んで歩く中、詩織の中には、静かで確かな実感があった。
かつての自分が光に引かれたように、今、誰かにとっての“光”が沙耶にもなりつつある。

それは、“つなぐ”ということの、もう一つのかたち。

第12章 はじめての「ラ」

「沙耶ちゃん、今度の校内音楽会、参加してみない?」

そう声をかけたのは担任の先生だった。
全校生徒の前で一曲歌うだけの、ささやかなイベント。でも、沙耶にとっては、それはとても大きな一歩だった。

その提案を受けた夜、沙耶は詩織にメッセージを送った。

先生に言われたんだけど、ちょっとだけ迷ってます。
歌いたい気持ちはあるけど、人前に立つ勇気があるかどうか…。

無理に決めなくていいよ。でも、もし“歌いたい”って気持ちが先にあるなら、
わたし、一緒に歌ってもいい?

その言葉を見て、沙耶はすぐに「はい」と返信を送っていた。



当日、会場は小さな講堂だった。
詩織はピアノの前に座って、深く息を吸った。もちろん、足で鍵盤を押さえる。簡単な伴奏だったが、沙耶が決めたテンポに合わせるには集中が必要だった。

沙耶は、ノースリーブのワンピースを選んでいた。
義手はつけていない。本人が「今日は外す」と言ったのだ。

舞台の袖で、詩織がそっと尋ねた。

「緊張してる?」

沙耶は真顔でうなずいた。

「でも、きれいに歌おうとは思ってないよ。ちゃんと“わたしの声”を出せれば、それでいいから」

「それが、一番伝わる声だよ」



ステージに立つと、まばらな拍手が起きた。
詩織は静かにピアノの前奏を始める。

沙耶の声は小さかった。けれど、まっすぐだった。
練習のときよりも少し震えていたけれど、それも含めて“生きている声”だった。

ラーーー

ひとつの音が、講堂に響いた。
それは、まだ短くて、頼りなくて、でも確かにそこにあった。

観客の中に、静かに涙をぬぐう女性がいた。沙耶の母親だった。

歌い終えたあと、沙耶は客席に向かって軽く頭を下げた。
その背中に、もう「迷い」はなかった。



楽屋に戻った沙耶は、詩織のほうを振り返った。

「終わったー!」

「お疲れさま、めっちゃかっこよかった」

「ぜんぜん声出なかったけど、でも、気持ちは出せたと思う」

「それで、十分すぎるくらい」

沙耶は、少し照れながら言った。

「ねえ、また歌ってもいい? 次は、もうちょっと大きな声で」

詩織は笑いながら頷いた。

「もちろん。次は、わたしがピアノじゃなくて、客席で聴くかもしれないけどね」



帰り道。夕暮れの空に、少しだけ春の気配が混じっていた。

沙耶が歩きながら、小さく口ずさんだ。

ラーーー…

それは、初めてじゃなかった。
けれど、誰よりも“彼女自身”に届いた音だった。

第13章 声を離れて

沙耶の初舞台から、数ヶ月が経った。

あれから沙耶は月に一度、ワークショップの中で小さな発表を続けていた。
少しずつ音域が広がり、発声にも芯が出てきた。
それでも、詩織が何より嬉しかったのは、彼女が**「歌う理由を、自分の言葉で話せるようになった」**ことだった。

「きれいに歌うんじゃなくて、“わたしの声”を大事にしたい。
それを聴いてもらえるなら、もう怖くないって思えるんだ」

その言葉を聞いたとき、詩織は心の中でそっとひと区切りをつけた。

自分が沙耶に渡したかったものは、もうきちんと手渡せた。
だからこそ、次は――



詩織が今、通っているのは、身体表現を扱うワークショップだった。
ダンスでも演技でもない、“身体の存在そのものを使った表現”。
音楽とは別のルートから、言葉や感情を届けるアプローチだった。

指導者の女性が言った。

「声を捨てるわけじゃない。でも、声がなくても“伝わる”ことってありますよね?
鬼池さんの身体には、そういう“説得力”があります」

詩織はその言葉に、驚かなかった。むしろ、納得していた。
音楽のなかで自分を見せ続けた先に、たしかに次の扉が見えていたから。

声に頼らない表現。
それは、彼女にとって新しい挑戦であり、ある意味で“原点回帰”でもあった。

だって、音楽を始めた頃――まだ誰にも見せられなかった頃――
身体は、ただそこに「ある」だけだったから。

今なら、その「ある」ことに意味を与えられる気がした。



沙耶は最近、地元の子ども向け合唱クラブに通い始めていた。
もう、詩織がついて行く必要はなかった。

「詩織ちゃん、わたしさ。いろんな人に会って、いろんな声と混ざってみたい。
この前、“重ねる”って感じが、なんか初めて楽しいって思えたんだ」

「それ、すごく素敵やん」

「でね、詩織ちゃんは? 次、なにするの?」

詩織は少し笑って答えた。

「今ね、“声を出さない表現”の勉強してる。音も言葉も使わないけど、“伝える”っていう意味では、歌と同じかも」

沙耶は目を丸くしたあと、ふっと笑った。

「詩織ちゃんって、どこまで行くんだろ。
たぶん、わたしが追いつく頃には、また新しい場所にいるんだろうな」

「追いつかなくていいよ。
横に並んでくれたら、それだけでうちは嬉しいけん」



春の光の中、詩織はひとりスタジオに立っていた。
ノースリーブのトップスと、動きやすいパンツ。
両腕のない肩に照明が柔らかく落ちる。

音はない。
声もない。
でも、身体はそこにあった。

静かに歩き出す。
足を、肩を、背中を、空間の中に投げ出す。

何も語らない身体が、何かを語っていた。

それはきっと――「ここにいる」という、たったひとつの事実だった。

第14章 もう一度、歌う

「伝わってますか?」

初めての身体表現公演の終演後、観客の一人がそう話しかけてきた。
詩織は汗ばんだ肩をタオルで押さえながら、少しだけ黙って、それからうなずいた。

「たぶん、伝わってたと思います。
でも、“わからなかったけど目を離せなかった”って言われることが多いです」

「それって、たぶん“伝わってる”ってことですよ」

自分の身体だけで空間を動かす。
腕がないという事実が、ダンサーとしての表現に制限を与えるのではなく、独特の重力感を生み出していた。

舞台の関係者の中には「あなたの動きは、“言葉を拒絶した声”に見える」と評する人もいた。

その言葉は不思議と腑に落ちた。

言葉も声も使わないのに、誰かが“声のようなもの”を感じてくれている。
それは、かつて自分が目指していた「歌」の本質そのものではないかとさえ思えた。



ある日、沙耶から連絡があった。

「今度の学校の音楽会でね、ひとりで歌ってみることにした」

詩織はメッセージを見て、しばらく何も返さなかった。
ただ、胸の奥で何かがじんわりと膨らむのを感じていた。

ようやく返信した。

聴きたかったなあ。でも、たぶん、その声はもうわたしの手を離れて、ちゃんと遠くに届いてるよ

そのあと、沙耶から短く返ってきた。

詩織ちゃんも、また歌ってね



そのメッセージを見たとき、不意に“喉”が反応していた。
舞台で身体を動かしているときは感じなかったのに、沙耶の声を想像した瞬間、なぜか自分の中の“声”が、うずいた。

その夜、詩織は久しぶりに譜面を開いた。
リビングの片隅、ひとりきりの空間で、小さく息を吸い、喉を震わせてみる。

あああ――

それは、言葉でも旋律でもない、ただのロングトーンだった。
でも、その響きが自分の身体に跳ね返ってきたとき、かつての「歌いたい」という衝動が、まだそこに残っていることに気づいた。

そして、心の奥に浮かんだ思いは、驚くほど静かだった。

「ああ、わたし、まだ歌いたかったんだ」



数週間後。ある自主企画のフライヤーが完成した。

ひとりのソプラノ、ひとりの身体
―鬼池詩織 パフォーマンス公演
『声になるまえの声』

前半は身体表現による無言のパフォーマンス。
後半はピアノの横で立ち、ただ一曲だけ、アカペラで歌う。

照明の中、両腕のない肩に、また光が落ちる。
でも今回は、それが“隠さない姿”ではなく、**“ありのままの声が宿る場所”**に思えた。

彼女の表現は、もう歌でも踊りでもない。
それはただ、「生きてここに在る」ということを、音と身体で語る試みだった。

第15章 声になるまえの声

開演30分前。
客席は静かだった。会場は小劇場サイズ、100席にも満たない空間だったが、すでに9割が埋まっていた。

舞台袖では、詩織が深く息を整えていた。
義手はつけていない。ノースリーブの黒いトップス。肩先まで照明を受けるその姿は、見せることを目的とせず、ただ“そこに在る”ように見えた。

スタッフが合図を出す。開演。



前半のパートは、音楽を使わない身体表現だった。
呼吸の音、足音、布が擦れる音だけが、会場に響く。
両腕のない肩と背中が、空間に向かって語りかける。

観客は最初、息を飲むようにその動きを見守っていた。
でも途中から、明らかに“音がないこと”を忘れていた。
それはまるで、無音の中から旋律が立ち上がってくるような時間だった。

10分間の無音の演目が終わり、詩織は舞台上に立ったまま、静かに頭を下げた。
そして、そのまま中央に置かれた椅子の横へ歩いていく。

スタッフが、無言でピッチパイプを差し出す。
詩織はそれを足の指でつかみ、低く音を鳴らした。

ひとつ、深く息を吸って――歌い始める。



♪ いのちの声が まだ形になる前に
わたしはここで うまれなおすの
音にならない その一瞬が
わたしの歌の いちばん深い場所にある

客席には、ただの静けさがあった。
誰も咳をせず、スマホの光もなかった。
それは“聴いている”というより、“受け取っている”という時間だった。

短い歌だった。
三連の詩を淡々と歌いきると、詩織はそっと口を閉じた。

そして、ただ一度だけ、視線を客席の中段に向けて笑った。
そこには沙耶の姿があった。
手を振っていた。
そして、その隣には――麻帆もいた。



終演後、舞台裏でスタッフが言った。

「不思議な舞台でした。
音があってもなくても、伝わる人って、こういう人なんですね」

詩織は笑いながら、言った。

「“伝える”って、届けることじゃなくて、“残る”ことかもしれないですね」

その言葉を、自分自身に言い聞かせるように。



客席を出たところで、沙耶と麻帆が待っていた。

「歌、よかった」
「……いや、もう“歌”って言葉じゃ足りなかったかも」

詩織は、照れくさそうにうなずいた。

「でも、また歌ってたでしょ?」
「うん。きっと、これからも。声が出るかぎり」

「じゃあ今度、わたしも出る」沙耶が言った。
「“声になるまえの声”の、次のやつ。詩織ちゃんと一緒に出たい」

詩織はほんの少し間を置いてから、頷いた。

「じゃあ、今度はふたりで“声になる”ところから、始めようか」



舞台は終わった。でも、声は終わらなかった。

それはまた、
あらたな「始まり」の音だった。

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