【小説・ヴィーナス症候群】[643]晴れた日に締め切り
晴れた日に、神俣葵はカフェの窓際でノートパソコンを睨んでいた。
外は、気持ちのいい青空だった。
街路樹が風に揺れ、通りを歩く人たちはどこか楽しそうだ。
本当なら、歩きたい。
ライターという仕事は、歩いているときに文章がまとまる。
川沿いでも、住宅街でも、ただぶらぶらしているだけで、頭の中の原稿が自然に組み上がってくる。
だが、今日は無理だった。
画面には京都取材の記事の下書きが表示されている。
社会福祉法人「洛愛福祉会」の就労支援についての記事。
締め切りは、今日の夕方。
まだ半分も書けていない。
葵は小さくため息をついた。
京都の取材自体は悪くなかった。
話もよく取れたし、記事の材料も十分ある。

問題は——余計な出来事が多すぎたことだ。(第623話)
所長の言葉が、ふっとよみがえる。
——そないに綺麗なおみ足してはって、てっきり二十代や思てましたえ
褒め言葉の形をしているくせに、妙に引っかかる言い方。
つまり、三十過ぎてそのスカートはどうなんですか、ということなのだろう。
「別にいいでしょ」
葵は小さくつぶやいた。
それに、あの後はそれどころではなかった。
京都駅の雑踏。
背後の気配。
振り返った瞬間の、あの男の顔。
葵は思わず苦笑した。
「盗撮犯の心理、なんて取材するつもりなかったんだけど」
阪大出のメーカー部長が、妙に研究熱心に盗撮を語る。
世の中、何が記事になるかわからない。
だが、そんなことを思い出している場合ではない。
カーソルが画面で点滅している。
外では、春の光が静かに街を照らしていた。
——ああ。
こんな日は、歩きたい。
取材でも仕事でもなく、ただ歩く。
それだけでいい。
葵は義手の指をキーボードに置いた。
カチ、カチ、カチ。
金属の関節が小さく鳴る。
文章が少しずつ画面に増えていく。
締め切りは待ってくれない。
葵は小さく笑った。
「……散歩は、原稿出してからね」
窓の外では、春の陽射しが眩しく揺れていた。
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