【小説・ヴィーナス症候群】[193]ABC・値切り交渉・目覚まし時計
のんびりした土曜日だった。
午前中は洗濯機を二回まわして、干して、録画してたドラマを早送りで流し見。近くの団地から子どもの声が聞こえる。
武隈莉子の住む西馬込は、そういう町だ。
都営浅草線の終点。障害者手帳があれば、都営地下鉄は無料。たまに芽衣たちと出かけるとき、これって意外と大きいねって話になる。家賃が安くて、エレベーターがある物件で、部屋が南向き。義手でも洗濯物が干せる高さのベランダ。ちょうどいい町。
午後、ソファにもたれてうとうとしていたところ、インターホンが鳴った。
「はーい」
義手の肩を軽く回して玄関を開けると、そこにいたのは赤い作業服の男。いかにもな中年の押し売り顔。顔は丸く、髪は薄く、額にうっすら汗。
「どうも、消防署の方から来ました!」
――“の方”か。
「こちら新製品のABC消火器! A火災・B火災・C火災にすべて対応、泡・粉末・CO₂を総合的に組み合わせた――」
「いくらなん?」
「え? えー、標準価格は4万2千円のところ、今なら2万9千8百円で――」
莉子はじっと男を見た。タンクトップの肩に、鈍く光る金属の義手の付け根がのぞく。
「……500円で、どうね?」

一拍置いて、男は口を歪めた。
「500円って……お嬢ちゃん、いくらなんでも、冗談が過ぎるわ」
作業服の袖で汗をぬぐいながら、言葉を継ぐ。
「これな、見てのとおりABC対応の消火器で、消防法にも準拠しとってな……あんたがどう思ってるか知らんけど、世の中って、もうちょっと金がかかるもんなんよ」
莉子は黙って、まばたき一つしなかった。
「若いから分からんのかな。まあ、今どきは義手でもモデルとかできる時代らしいから。そりゃ俺らみたいな地べた這いつくばってる人間とは、見てる景色も違うんやろうけどな……」
ほんの一瞬、男の声に棘が刺さった。
「義手でも働ける時代らしいから」――それは、持ち上げるようでいて、どこか薄ら笑いを含んだ言い回しだった。
「とにかく、500円で買えるもんじゃないよ。あんたがどんな境遇でも、それぐらい分かってもええやろ?」
――そのとき、
リリリリリリリッ!
目覚まし時計が鳴った。
莉子は軽くあくびをして、玄関のフチに肩義手を当てるようにしてドアを引いた。
「忙しいけん、またね」
バタン、と静かにドアを閉めた。
その向こうで、まだ何か言ってる気配はあったが、莉子はもうスマホにLINEを打っていた。
「今から準備する。遅れたらゴメン」
ABC消火器より、冷麺とカルビのほうが大事な夜だった。
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