【小説・ヴィーナス症候群】[545]本を読む
本を読むとは、紙に印刷された文字を目で追い、意味を理解し、記憶する行為だと誰もが思っていた。少なくとも、この日までは。
「本を読むいう概念が根底から覆される一大研究ですねん!」
浪速大学・研究倫理審査委員会事務局。
医学研究科医工学教室の松苗准教授は、開口一番そう言い切った。身振り手振りだけがやたらと大きい。
「人間の目をカメラにして、ストレージと脳につなぐんですわ。まばたきするたびに、カシャッ、カシャッと見たもんが全部画像化される。ページをめくらんでも、本を読まんでも、視界に入った情報は全部保存。無限の記憶が実現できまんのや!」
事務局員の藪内蘭も、事務局長の葛城公一も、しばらく言葉を失っていた。あまりにも話が飛躍している。
「そ、そんなん……人体改造ですやん……」
蘭がようやく絞り出すと、松苗は満面の笑みでうなずいた。
「そやねん。せやから画期的な研究なるんですわ」

葛城は咳払いを一つして、事務局長としての声色に戻る。
「いや、まあ、こちらは事務局なんでね、提出された研究を却下する権限はそら無いですけど……実際、こんな人体実験、誰が応じる想定なんですか」
松苗は待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「そら刑務所になんぼでもいてますやん。凶悪犯やら性犯罪者やら、児童犯罪やら……そんな、生きる価値の無いような犯罪人を有効に使こたらええんですわ」
「ええんですわって……」
葛城は思わず関西弁が濃くなった。
「そら無理でっせ。受刑者相手の人体実験なんて、同意そのものが成立せえへん言われますわ。人権侵害で即アウト、研究倫理は一発否決、文科省も法務省もマスコミも一斉に来ますよ。『ナチス』『人体実験』『優生思想』の三点セットで大学名が見出しに出て、頭下げるん学長ですよ。研究の中身以前に、こんなん発想した時点で終わりです。准教授個人の問題やのうて、大学が組織としてやったと見なされます。守れるもん、何もあらしまへん」
それ以上、議論は深まらなかった。松苗は不満げに唇を尖らせ、形式的な礼を残して部屋を出ていった。
扉が閉まった後、事務局に沈黙が戻る。
「年明け早々、強烈なマッドサイエンティスト来たで……」
蘭の呟きに、葛城は何も返さなかった。
ただ、本を読むという行為が、いつか本当に「まばたきするだけの作業」になるかもしれない未来を、想像してしまった自分に気づいて、小さくため息をついた。
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