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【小説・ヴィーナス症候群】(924)傘の持ち方は個性だ!

外は激しい雨が激しく窓を叩いている。
鉄道警察隊の事務室には、張り詰めた空気と、場にそぐわない場違いな叫び声が響いていた。

「痛えんだよ! 骨が折れてたらどうすんだ! この女、いきなり俺の手首をへし折りやがったんだぞ!」

パイプ椅子をガタガタと鳴らし、四十前後の男が叫ぶ。
その右手首には、先ほど鉄警の救急箱から出された包帯が痛々しく巻きつけられていた。

対面には、タイトなネイビーのワンピースを着た武隈莉子が立っている。
その両肩からは、細く無機質な金属製の肩義手が伸び、電灯の光を鈍く反射させている。

「何ば言いようとね?」
莉子は呆れたように熊本弁で一喝した。興奮したり機嫌が悪かったりすると熊本弁が出るのだ。

「出るとこ出てもよかよ。階段であぎゃん危なか傘の持ち方しよる方が、どぎゃん考えたって悪かろ?」
「危ねえって何だよ! 俺は普通に歩いてただろうが!」

男は立ち上がり、莉子を指差そうとして、自分の右手首の激痛に「ウグッ」と顔を顰める。

階段での出来事は一瞬だった。
男が傘の柄を真横に握り、石突きを真後ろに突き出すようにして階段を上っていた。
すぐ後ろを歩いていた莉子は、その尖った先端が自分の顔面に迫るのを感じ、身を守るために反射的に義手でその傘を強烈に振り払ったのだ。

誤算だったのは、男の「絶対に傘を離すまい」という執着心と、異常に強い握力だった。
義手の硬質な衝撃が傘を介して逃げ場を失い、そのまま男の手首をグキリと捻ったのである。

「傘の持ち方が危ない、ってのはお姉さんの言う通りだよ」
間に入った警察官が、辟易した様子で男をなだめる。

「狭い階段であんな風に傘を横持ちしてたら、後ろの人の目に刺さる。今回はお姉さんの手が当たった形だけど、これが子供の目だったらあんた大惨事だよ?」

警察官のその言葉が、男の脳内で「最悪のトリガー」を引いた。
『お前が悪い』。

その響きが、男のこれまでの人生に澱のように積もっていたトラウマを完全に呼び覚ます。
「またか……またお前らもそれかよ!!」

男の顔が怒りと屈辱で真っ赤に染まり、声が裏返った。
「どいつもこいつも、俺のやることを全部『間違ってる』って否定しやがる! 子供の時だよ! 俺が左手で字を書けば、親も教師も殴るみたいに右手に矯正しやがった! 俺にとっては左手が普通なんだよ! 自然なんだよ!」

事務室の空気が一瞬で凍りつく。
男の被害感情のボルテージは、警察官の制止を振り切って天井知らずに上がっていく。

「中学校に入ったら入ったで、今度は靴下の長さがどうだ、髪型がどうだ! 普通に生きてる分にはどうでもいい、他人に迷惑かけてない部分まで、校則だ何だって雁字搦めにして俺を直そうとしやがった! 俺の形を、俺の存在を、全部潰してきたんだ!」

男は包帯の巻かれた右手を見つめ、まるで世界のすべてを呪うような目で莉子を睨みつけた。
「この傘の持ち方だってな……俺が一番しっくりくる、俺だけの歩き方なんだよ! これが俺の個性なんだよ!! なんでお前に、世間に、俺の最後の個性まで否定されて、怪我までさせられなきゃいけないんだ! 俺の個性を潰そうとするなァ!」

「…………」
男のあまりに斜め上すぎる「命がけの逆ギレ」。

その凄まじい熱量と、狂気すら感じる被害者意識の爆発を前にして、鉄道警察隊の面々は完全に言葉を失った。

(いや、個性じゃなくて、ただの危険行為なんだけどな……)

警察官たちは遠い目をし、心底めんどくさいバカを踏んでしまったという表情で天を仰ぐ。

そして莉子も唖然としていた。
「……そぎゃんこと言われても、危なか。個性とか知らんし」

莉子のどこまでも真っ当で冷ややかな正論が、男の熱い絶叫が残る事務室に、雨の音と共に虚しく響き渡っていた。

「……よし。お兄さん、言いたいことは分かった」
ベテラン警官は、男の壮大な『自分史』を完全にスルーし、事務机をコンコンと叩いた。

「左利きがどうとか、中学の校則がどうとかはともかく、ここ新橋駅の階段はあんたの家じゃないんですよ。公共の場所なんです」

「だから、俺の歩き方は俺の自由だろ!」と男がなおも包帯の手首を庇いながら食い下がるが、警官の目は一切笑っていない。

「自由の前に、法律と安全があるの。お兄さん、あんた『個性』がどうたらとか言うけどね、もしさっきお姉さんが避けないで、その傘の先が後ろを歩いてた子供の目に突き刺さって失明でもさせてみなさいよ。あんた今頃、手首の捻挫どころか『重過失致傷罪』で現行犯逮捕されて、人生完全に終わってたよ? お姉さんはそれを防いでくれたんだ」
「え……」
逮捕、という現実的なワードを突きつけられ、男の勢いが急激に萎む。

「お姉さんの方もね」
警官は莉子を振り返った。

「身を守るためとはいえ、これだけ強い衝撃を相手に与えちゃったのは事実だからさ。もしお兄さんがどうしても被害届を出すって言うなら、こっちも事件として受理して、お姉さんにも後日、何度も警察署に出頭してもらって実況見分に付き合ってもらうことになる」

警官は莉子に目くばせをする。
――「面倒だし、この男とこれ以上関わりたくないだろ?」という合図だ。

莉子はフッと視線を外した。
「……私は別に、出頭してもよかですよ。悪うなかですもん。ただ、これ以上この人の妙な話に付き合うとは、時間の無駄でしかんなかです」

「そうだよねえ」
警官は我が意を得たりと頷き、再び男に向き直る。

「さあお兄さん、どうする? 警察としては、このままお互い様ってことで『これ以上の請求も処罰も望まない』って書類にサインして、今回は厳重注意で済ませるのが一番スマートだと思う。もし事件にするなら、あんたの『傘の横持ち』がどれだけ危険で悪質だったか、防犯カメラの映像を引っ張り出して徹底的に調べることになるけど……どうする?」

「……っ」
男は唇を噛み締め、悔しそうに拳を握ろうとしたが、手首の激痛でまた顔を歪めた。

自分のトラウマをぶちまけて世界と戦うつもりだったのに、警察という巨大な組織の前に、自分の「個性」がただの「めんどくさい迷惑行為」として事務処理されていく。
その事実に、男は完全に折れた。

「……分かりましたよ。サインすりゃいいんだろ、サインすれば」
男は投げやりな手つきで、警察官が差し出した書類に、不器用な左手で署名をした。
莉子もまた、細い肩義手を滑らかに動かしてペンを扱い、流れるような動作で署名を終える。

「はい、お疲れさん。じゃあお兄さん、これからは傘はまっすぐ下に持つこと。お姉さんも、次は危ないと思ったら手を出さずにすぐ駅員を呼んでね」
「……チッ」

男は最後まで不満げに舌打ちを残し、湿布の匂いを漂わせながら、トボトボと雨の新橋駅の雑踏へと消えていった。

事務室のドアが閉まると、警官はどっと肩の力を抜いた。
「いや、お姉さん災難だったね。あそこまでこじれた男に絡まれるとは。腕、どっか噛み合わせおかしくなってない? 大丈夫?」
「大丈夫です、頑丈にできとるもんで」

莉子は少しだけ口元を緩め、ネイビーのワンピースの裾を軽く整えた。
「ありがとうございました。……さ、西馬込まで帰らんば」

外の雨はまだ降り続いている。莉子は鉄警の事務室を後にし、少し遅れてしまった帰路につくため、再び地下のホームへと歩き出した。

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