【小説・ヴィーナス症候群】[862]どうにもとまらない
浪速大学研究倫理審査委員会事務局の昼下がり。
窓から差し込む気だるい西日を浴びながら、事務局員の薮内蘭が書類の整理をしていると、またしても前触れなくドアが開いた。
「こんにちは。倫理審査を1件、お願いできないかしら」
入ってきたのは、文学研究部心理学研究科の山本特任准教授だった。
いつもながらの、年相応とは言えない派手な原色の格好である。その放つオーラは強烈だ。
しかし、これでも関西人ではないというから驚きである。
「あ、山本先生。お疲れ様です」
蘭は苦笑いを噛み殺しながら書類を受け取り、目を落とした。
山本は机に手を突き、身を乗り出して熱っぽく語り始める。
「この研究はね、関西人の心理に関する研究なの」
「はぁ……」

蘭の気の抜けた返事など気にする風もなく、山本は言葉を続けた。
「関西人はコナモンが好きよね。タコ焼きとかお好み焼きとか。そうでしょ?」
「そらもう、食べ始めたらどうにもとまらないですわ」
蘭が深く頷くと、山本は「まさにそこよ」と不敵に微笑んだ。
「だから、関西人と非関西人、そして、タコ焼きを与えた群と与えない群に分けるの。それで、どれだけ心理的ストレスに影響が出るかを調査するわけ」
蘭の手がピタリと止まった。書類の文字を二度見し、それから山本を凝視する。
「……は? ちょっと待ってください。関西人に、目の前でタコ焼きをお預けにするんですか?」
「ええ。匂いだけ嗅がせて、数時間隔離するの」
蘭の顔から一気に血の気が引いた。
「そ、そら倫理に反しますがな! 関西人を何や思てますの! 暴動起きますよ、そんなん拷問やないですか!」
「あら」
山本はちっとも悪びれる様子もなく、派手なネイルの指先で顎を突き、冷ややかな視線を蘭に向けた。
「事務局員さんが倫理審査するのかしら?」
「っ……!」
蘭はハッと我に返り、慌てて頭を下げた。
「えらいすんまへんでした……。あまりに残酷なこと考えはるから、つい取り乱してまいました」
「ふふ、いいのよ。でも、あなたのそのリアクションを見る限り――」
山本は満足げに目を細め、書類をトントンと指で叩いた。
「ずいぶん研究し甲斐のありそうなテーマね。審査、よろしく通しておいて頂戴」
嵐のような特任准教授が去った後、蘭は胃のあたりを義手で押さえながら、目の前の恐ろしい研究計画書をそっとファイルに閉じるのだった。
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