【小説・ヴィーナス症候群】[652]ロマンスが足りない
多摩川の堤防は、風がよく通る。
草の匂い。
川面を渡る湿った空気。
遠くで電車の音。
檜皮谷奈緒は、河川敷の舗装路をゆっくり歩いていた。
ドレスブランド「Felice」で試着モデル(いわゆる「トルソーさん」)をやっているから、体型維持に努めないといけない。しかしそれだって若いうちしかできないので、引退したら作家に転身しようと思っていた。それで小説投稿サイトに作品を投稿し続けていたが、「いいね」はあまり付かない。相互フォローからおぎりで付く程度。
少し前のことを思い出した。
ネットの「プロ作家による講評サービス」に、試しに短編を送ったことがある。
数日後、返ってきた講評。
奈緒はその一文を、今でもはっきり覚えている。
山田ニャオさんは、文章力はありますが、
ロマンスが足りないですね。
奈緒は思わず小さく笑った。
「……ロマンスねえ」
歩きながら、空を見上げる。

ロマンス。
恋愛。
甘い関係。
そういうものを、奈緒はいつも無意識に避けて書いていた。
理由は、たぶん単純だ。
奈緒は生まれつき両腕がないヴィーナス児。
恋愛小説を書くたびに、どこかで思ってしまうのだ。
――手無しの私が、ろくなロマンスできるわけじゃない。
だから書かない。
書かなければ、嘘にもならない。
多摩川の川面が風で揺れている。
奈緒は少しだけ歩調をゆるめた。
「……でも」
ぽつりと呟く。
「ロマンスって、手をつなぐことだけじゃないよね」
肩に風が当たる。
遠くで、ジョギングしている人がすれ違っていった。
奈緒は前を見て歩きながら、少しだけ口元を緩めた。
「……今度、書いてみるか」
河川敷の道は、まっすぐ川沿いに続いていた。
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