【小説・ヴィーナス症候群】[713]ひとりごと
ひとりごとを言っているのかと最初は思っていた。
生まれつき両腕のない武隈莉子は、ドレスブランドFeliceで試着モデル、いわゆる「トルソーさん」を務めていた。
その日は、千葉のデパートでブライダルフェアの仕事に入っていた。
通路で独り言を言っている男が目に入る。だがよく見ると、手には携帯電話。
ああ、独り言じゃなくてどこかと電話してるんだな――その割には声がデカすぎるな、と思った程度だった。
だが、声はどんどん大きくなっていく。
「いや、こちらとしてはやることはすでにやっています。あとはそちらがルールを分かってなかったんでしょ?それをこちらに言われても困るんですよ!ちょっとそちらとはもうお取引できません」
ドレスをまとい、静止したまま立つ莉子は、その様子を視界の端で捉えながら、どうやら相手が何か信用をなくすことをして、この男はそれに怒っているらしい、とぼんやり推測した。
「こちらはもう、そちらに言われたことは全てやりましたよね?あとはそちらの仕事だと思います。いや、今更そのようなことを言われましても、こちらでは対応しかねます!」
声はエスカレートし、周囲の客が振り返る。
(あの人、何屋さんなんだろう?)
莉子は思う。カフェでのノマドワークですら情報漏洩がどうこう言われるこのご時世、デパートのど真ん中で、あんな大声で電話できる人間とは一体何者なのか。
翌日。控室で、同じく「トルソーさん」である夜久野由美と檜皮谷奈緒にその話をすると、
奈緒「それってさぁ、エア電話じゃない?」
莉子「エア電話?」
奈緒「人前で大声で電話してるふりするの。俺って仕事できる奴アピール」
由美「それか精神異常者」
莉子「怖・・・」
奈緒「まあ春先はそういうのが出やすいって言うよね」

談笑の合間、控室のテレビではニュースが流れていた。
ナイフを振り回して暴れた男が逮捕され、意味不明な供述を繰り返しており、精神鑑定も視野に慎重に調べを進めている――そんな内容だった。
莉子は、昨日の通路の男を思い出す。
あの電話の向こう側に、本当に誰かはいたのだろうか。
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