【小説・ヴィーナス症候群】[604]温泉パジャマ頬骨
福祉関係を専門とするフリーライター・神俣葵は正月から働き詰めだった。
推し活で炎上した休職中の公務員や(第526話)、元暴走族の男の生活保護トラブル(第541話)など、あちこちを駆け回って記事を作った。
ようやく休もうと思った矢先、突然のコタツ記事依頼(第586話)。
“今日中に五千字、即入金”
葵は、こたつに潜り込む猫のような顔でキーボードを叩いた。
ササっと書いたつもりが、意外に出来がよく、意外に良い金が入った。
口座残高を見て、彼女は決意した。
「今度こそ、休む」
そのようなわけで、伊香保温泉行きの高速バスの中の人となっている。
車窓に冬枯れの山並み。
今日明日は絶対に仕事を受けない。通知も切った。
伊香保温泉の石段街に着くと、硫黄とも鉄ともつかぬ、湯の華の香りが広がっていた。
冷たい空気の中で、湯気が白く立ちのぼる。
旅館の引き戸を開けると、番頭が出てきた。
頬骨の出た、印象的な顔立ちの男だった。
「ご予約の神俣さんですね」
その頬骨は、雪国の山の稜線のようにくっきりしていた。
今日は取材じゃない。
仕事はしない。
部屋に案内され、浴衣を置かれ、障子越しに見える庭をぼんやり眺める。
それから、大浴場へ。
湯船に身を沈めた瞬間、肺の奥までほどけるような感覚が広がった。
石の縁に頭を預け、天井を見上げる。
「これしか勝たんのよ」
思わず声が漏れる。
あとはパジャマに着替えて夕食食べるだけ。

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