【小説・ヴィーナス症候群】(39)弱者の声を拾う現実主義
重度障害児介護・ある母親の朝
目覚ましの鳴る前に、いつものように目が覚める。午前5時30分。
リビングの隣の和室で寝ている翔太の方を見る。手すりで囲まれたベッドの上、静かに人工呼吸器が作動していた。
翔太は脳性麻痺による重度の障害を抱えている。
生後まもなく低酸素状態に陥り、嚥下も発語もできず、四肢は強く緊張したまま。意思の表出は、まばたきとわずかな表情だけ。
食事は胃ろう、呼吸は人工呼吸器。排泄も体位変換も、すべてに24時間の介助が必要だった。
「翔太、起きよっか」
声をかけながら、まずは吸引。鼻と喉に溜まった痰を取り除く。
胃ろうの栄養を準備して、スイッチを入れる。1時間以上かかる。
その間に、排泄ケア。着替え、体位変換。軽くマッサージして、関節が固まらないようにする。
リビングのテレビは、朝のニュース特集を流していた。
コーヒーメーカーのスイッチを入れて、ふと目をやったときだった。
「こちらは昨日、都内で開催された“多様性のパレード”。
主役は重度の障害を持つ子どもたち。
中でも注目を集めたのは、“ヴィーナス症候群”の女性たちの登場でした」
画面には、華やかなレオタードを着た“トルソーさん”たちが映っていた。
両腕のない若い女性たちが、自信に満ちた表情で笑い、体を傾けたり、軽く会釈するように観客に応えていた。
そのうちのひとりがカメラに向かってこう言った。
「私は1級の障害者です。でも、不幸じゃありません!」
——カチン。
マグカップを置く手が止まった。
「……は?」
母親はテレビの音量を上げた。
「1級? あなたが? ……はあ?」
翔太の吸引機が静かに作動する音だけが、部屋に残った。

「うちは、1級って言われたとき、“ああ、当然だよね”って思った。
むしろそれ以外ある?って感じだった。
仕事もできない。夜も寝られない。介護だけで1日が終わる。毎日、戦争よ」
画面では、レポーターが笑顔で締めていた。
「“見た目”ではなく“生き方”で語られる社会に向けて、歩み始めた人たちです」
「見た目? レオタード着て? 堂々と街歩いて?」
リモコンを強めに押して、テレビを切る。
「翔太、ごめんね。ママ、ちょっと怒ってる。ああいうの見てると、ほんと……悔しくなるんだよ」
翔太は静かにまばたきをした。
口元は、少しだけ笑っていた。
特別支援学校・保護者会
月に一度の保護者会。行事予定や給食メニューの話が一通り終わると、ある母親がスマホを取り出した。
「……これ、見ました?」
画面にはネット記事の見出しがあった。
『“ヴィーナス症候群”の女性たちがパレードに登場 “自分らしく生きる”を発信』
ざわつきが走る。
「あの、手がないっていう人たち? レオタードみたいな格好で出てたって」
「“ヴィーナス”って、あれサリドマイドと同じくらい昔から知られてる病気でしょ?
それはいいけど、“同じ1級です”って言われたら、冗談じゃないよね」
「うちなんて24時間介護。仕事もできないし、夜も寝られない。こっちは“1級”って言われても、感謝なんかしてる余裕ないのに」
「SNSとかやって、企業と契約してるんでしょう? “自立してます”って顔して、補助もらってるんだよ?」
「この前、社協の人が言ってたわ。“ヴィーナスの子たち、全然こっちの集まりに顔出さない”って。
自分たちを“同じ障害者”と思ってない節があるって、あきれてた」
「そりゃそうよ。福祉会館で点字カレンダー配るのと、レオタードでパレード出るのじゃ、世界が違うもん」
笑いとため息が交じる中、ひとりの母親がつぶやく。
「共産党の市議に相談したの。“分断を持ち込まないでください”だって。
誰が分断してんのよ……私たちの現実、見たことないくせに」
沈黙が落ちた。
五条誠司・議員会館執務室
五条はスマホを手に、届いたメールをひとつずつスクロールしていた。
例のパレード報道以降、受信数は爆発的に増えた。
当事者の親たちからの長文メール、大学生らしき若者からのDM、福祉職の現場の声。
事務所のスタッフは臨時対応に追われている。
最初は等級制度そのものの話だった。だが、“ヴィーナス”の件が出てから、話は一気に可視化された。
「“あの子と、うちの子が同じ1級?”……なるほどね」
紙の上では平等。だけど現実では、支援の重みも、生活の負担も、まるで違う。
それが“見えない制度”の問題なのだと、五条は確信していた。
この件は使える。
弱者の声を拾う。それも、感情論やスローガンじゃなく、制度の穴として論じられる。
今まで“自己責任の人”と思われていたイメージも払拭できる。
そして、現実を無視したきれいごとしか言えないサヨクに代わって、現場の声を拾う政治家——という立場が取れる。
「パレードなんて企画した奴、どうせ単なるスケベ野郎だろ。
レオタードで街を歩かせて、“多様性”だの“解放”だの、うまいこと言ってごまかしてるだけ。
でもまあ——棚ぼたでも、利用価値があるなら感謝だな……」
五条は呟きながら、次のツイート原稿を打ち始めた。
『「うちの子と同じ等級?」——そんな違和感を、見なかったことにしない社会へ。
今の障害者等級制度は、すべての人の“生活実態”に本当に即しているのでしょうか?
私は、声を受け止め、制度を見直す覚悟があります。#障害福祉 #等級制度改革 #誰ひとり取り残さない社会』
