【小説・ヴィーナス症候群】[842]酸性夕立リングピロー
国立大学が法人化されて久しく、公務員の副業緩和の波は巡り巡って独立行政法人の職員にまで到達していた。
浪速大学の事務方で働く薮内蘭は、すでに三十路を超えている。
20代の頃は、ブライダルフェアや衣装室でウェディングドレスのサイズ合わせを担う試着モデル――業界で言うところの「トルソーさん」のアルバイトで稼いでいたものだが、年齢的にもとっくに「あがって」いた。
それでも、たまに古いツテから声がかかることはあったのだ。トルソーさんを東京から呼ぶよりも、関西にいるトルソー経験者を呼んだ方が安上がりではある。
これまでは「非公務員型とはいえ、うちは副業禁止ですから」と律儀にお断りしていたのだが、就業規則が改定された今、蘭の心境には少しばかりの変化があった。
「こんな30過ぎのおばさんでも、まだトルソーの口があるんやったら……ちょっとした小遣い稼ぎも兼ねて、いっちょやってみょうかな」
そんなわけで、茹だるような暑さの日曜日。
蘭は京都の南側、伏見あたりの国道1号線沿いに建つ結婚式場にいた。
チャペルを一般開放して行われている「ジューンブライドフェア」の特別展示ブース。
蘭は肩出しのシンプルな白いビスチェドレスを身に纏い、義手を外し、すっと背筋を伸ばして静止している。

彼女のすぐ側にある展示テーブルの上には、サテンとレースで飾られた純白のクッションが置かれていた。
結婚指輪を載せるためのリングピローだ。
品定めをするようにやってきた若いカップルが、そのピローに手を伸ばす。
「わ!ふっかふか!」
女の子が声を弾ませ、隣の男の腕を叩いた。
「なあ、これすごいで。ふっかふかや!」
蘭は前を向いたまま、心の中で(展示品にベタベタ触ったらあかんて!)と毒づく。
今日のフェアの客層はあまり上品とは言えなかった。
午後を回ると、京都盆地特有のじっとりとした「油照り」の空気が、急激に怪しくなってきた。
チャペルの大きなガラス窓の向こう、青空がみるみるうちに濁っていく。
ゴロゴロと不穏な地鳴りが響いたかと思うと、一気に外の景色が白く霞む。
バケツをひっくり返したような激しい夕立が、国道1号線のアスファルトを叩きつけ始めた。
フェアに訪れていた客たちが、騒がしく窓の外を眺める。
式場のガラス窓の向こう、国道の斜め向かいには、少し年季の入ったコンクリート造りの商業ビルが建っていた。
雨に濡れたそのビルの外壁には、クラックから染み出した不気味な白いツララのような物体が、いくつも線を描いて浮き上がっている。
「うわ、何やあれ。不気味なツララ垂れてんで」
「あー、あれな。酸性雨ちゃうか。雨が強すぎてコンクリートが溶け出してんねん。知らんけど」
客のひとりが知った風な口を利き、周りの人間が「へえ、怖」と身をすくめるのが見えた。
夕立の激しい雨音のなか、蘭は完璧な「トルソーさん」として、ふっかふかのリングピローの横で、一筋の身じろぎもせず静かに佇み続けていた。
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