鏡の揺らぎの共犯者 03|第二章 スタッフとの共犯

第二章 スタッフとの共犯
誰かが、静かに沈んでいることがある。
経営者は、その沈黙に、気づけないことがある。
二〇二一年、十二月。
パソコンから、目が離せなかった。
100万円。
胸の奥に、小さな灯りがともったようだった。
みんなが、頑張ってくれた。
お客様が、選んでくれた。
本当に、うれしかった。
何がその数字に辿り着かせたのか
この時は、まったく分からない。
何かを掴んだ気がした。
掴んでなんか、いなかったのに。
⸻
その「うれしい」の裏側で、
静かに限界を迎えていた人がいた。
スタッフはいつも笑っていた。
「大丈夫です」と言ってくれた。
お客様の前では明るく丁寧で、
ちゃんと笑っていた。
だから私は、安心していた。
その日、彼女はいつもより早口だった。
ドライヤーを置く手が、少しだけ強い。
鏡の中で目が合うと、ちゃんと笑ってくれた。
でもその笑顔は、すぐに鏡の奥へ消えていった。
私は、気づいていた。
気づいていて、声をかけなかった。
長く一緒に働いてきたスタッフが、
私の向かいに座った。
コーヒーカップに両手を添えたまま
なかなか顔を上げなかった。
そして、静かに言った。
「もう、ついて行けません」
その言葉を聞いたとき、
最初の一瞬、私は固まった。
息を、忘れた。
達成したばかりだった。
みんなで、喜んだばかりだった。
でも、その人の顔を見た瞬間、
分かった。
これは、突然の言葉では、なかった。
ずっと、抱えてきた言葉だった。
私が「やったね」と喜んでいた、
その時間、その人は、別の場所にいた。
胸の奥が、静かに、痛んだ。
その時の私はどうだったのだろう。
何と言ったのか、よく覚えていない。
ただ、ごめん、と言った気がする。
もう一度ちゃんと話したい、と。
言えていたのか、今でも分からない。
コーヒーは、冷めていた。
⸻
そして、ずっと前に聞いた言葉が、
静かに戻ってきた。
「何のために、やるんですか」
その問いに、答えられなかった。
今夜も、答えは出なかった。
⸻
人の心は
経営者の都合では戻ってこない。
信頼は
急いだ瞬間に、また遠くなる。
悩んだ。
落ち込んだ。
それでも、店を開ける朝は来た。
ある夜、閉店後のサロンに一人残った。
電気を落とした鏡の前に、ただ座っていた。
冷えていた。椅子も、指先も。
シャンプーの香りだけが、うっすらと残っていた。
鏡の中に、自分の顔が映っていた。
疲れていた。
でも、それよりも——
何かを見失っているような顔だった。
私は、何のために、
この店をやっているのだろう。
答えは、出なかった。
でも、ひとつだけ、分かったことがあった。
このままでは、 スタッフに同じ顔をさせてしまう。
そう気づいた夜、 私はひとつの決断をした。
スタッフに、数字を背負わせることを、やめた。
経営者としては
あり得ないことかもしれない。
怖かった。
売上が、下がるかもしれない。
正解かどうか、分からなかった。
分からないまま、進もうとしていた。
夜中に何度も、不安が押し寄せた。
それよりも怖かったのは、
スタッフの顔だった。
ひとりひとりに、生活がある。
家族がいる人も、夢を持って
来てくれた人もいた。
その想像が胸の奥に
張りついて、離れなかった。
私がこの決断を間違えたら、
傷つくのは、自分だけではない。
それでも、決めた。
⸻
翌日から、
売上目標の紙を、いちばん前に置くのをやめた。
「あといくら」
「誰がいくつ」
そんな言葉を、スタッフの前に置くのもやめた。
数字を見なくなったわけではない。
ただ、それをスタッフの背中に乗せるのをやめた。
数字は、私が背負う。
その人の髪に触れながら、その人の暮らしを、
想像すること。
私は、そういう美容室にしたかった。
数字を、捨てたのではない。
数字の場所を、変えた。
それは、正しい決断だったのか。
そのときの私には、まだ分からなかった。
ただ、もう二度と、
誰かの笑顔の奥にある沈黙を、
見ないふりはしたくなかった。
それが私たちの、静かな共犯の始まりだった。
⸻
決めたあと、しばらくは静かだった。
劇的な変化は、なかった。
でも、何も起きていなかったわけではない。
目には見えない場所で、
店の空気が、少しずつ動き始めていた。
〔共犯メモ〕 数字の場所を変えた夜
・数字を、いちばん前から下ろす。
見ないのではなく、経営者が後ろで背負う。
・スタッフの顔を、数字より先に見る。
笑っていても、表情の小さな変化に気づく。
