「テキストには載ってないダモ」
玄関の音がした。
「ただいまー、寒かったぁ」
風香が、買い物袋を両手にぶら下げて帰ってきた。
こたつの上には、開きっぱなしのテキスト。
「ゆっくり進軍、作戦」を始めてから、もう何週間か経つ。
一日一項目。控除のページを過ぎて、もう保険のところまで進んでいる。
多くを望まない代わりに、休まない。
それが、オイラなりの続け方だった。
「おかえりダモ」
オイラは、保険の項目を目で追いながら、生返事をする。
風香が台所で、袋の中身を出していく。
野菜、卵、それから、豚肉のパック。
その時、風香の手が止まった。
パックの端についた、黄色いシールをじっと見てる。
「あ……半額」
小さな声。
でも、その声には、今日いちばんの明るさがあった。
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オイラは、ページから顔を上げた。
風香の顔が、ぱっと緩んでる。
さっきまでの「寒かったぁ」より、ずっと嬉しそうだ。
たった、シール一枚で。
たった、数十円で。
「……」
オイラは、手元のテキストに目を戻した。
「保険の保障内容の見直し」。
黒くて、四角くて、正しいことが書いてある。
でも、そこに、今の風香の顔はない。
胸の奥が、変な感じにざわついた。
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「ダーモ、聞いてる?」
「あ、聞いてるダモ」
聞いてなかった。
風香が晩ごはんの支度をしながら、鼻歌を歌ってる。
半額の豚肉で、今日は何を作るか、もう決めてるみたいだ。
オイラは、こたつの上のテキストと、台所の風香を、交互に見た。
——気づいた。
このページを何ページ進めても、今の風香の顔にはたどり着けない。
台所では、風香が鼻歌まじりに手を動かしながら、ふと、剥がしたシールにもう一度だけ目をやって、小さく笑っていた。
その笑顔を見てから、オイラはテキストを閉じた。
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「……風香」
「なに?」
「今日、機嫌いいダモ」
「え、わかる?」
「半額のシール見た時、いちばん嬉しそうだったダモ」
風香が、フライパンを振りながら笑った。
「バレてた。あれ、地味に一日のハイライトだから」
その言い方が、あんまりにも普通で。
でも、オイラにとっては、教科書の何ページ分よりも、重かった。
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しっぽが、ゆっくり左右に揺れた。
イライラじゃなくて、何かを決める前の合図だった。
「オイラ、しばらく2級の勉強、休むダモ」
風香の手が、一瞬止まった。
「……逃げるの?」
「逃げるんじゃないダモ」
しっぽがピンと立つ。
「べ、別に、教科書が嫌になったわけじゃないダモ。ただ、今は、こっちを見ておきたいだけダモ」
オイラは、台所を指した。
半額のシールと、鼻歌と、湯気を。
「遠回りするダモ。それだけダモ」
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風香が、しばらく黙って、それから小さく笑った。
「じゃあ、今日から助手代わってもらおうかな。半額シール探すの、得意そうだし」
「得意ダモ。オイラ、目がいいダモ」
「それ、シールの色が黄色だから見えやすいだけじゃない?」
「うるさいダモ」
しっぽの先が、くねっと揺れる。
さっきまでのざわつきは、もうどこにもなかった。
こたつの隅に寄せたテキストの代わりに、湯気の匂いが、部屋いっぱいに広がっていった。
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