【半生記】"画家"を夢見た少年が、AIと出会うまで
こんにちは、まじんです。
「まじん式プロンプト」の反響から、ありがたいことにウェビナーへ呼んでいただく機会が増えてきました。
自己紹介で必ずお伝えしてるが、私はエンジニアでも文系でもなく、美術畑出身だということ。学生時代は“画家”を志して美術の学校に通っていました。
それが、まさか今AIセミナーで講師をしているなんて。自分が一番驚いています。
そんな私に、先日あるメッセージが届きました。
不登校の中2の子どもがおります。絵を描くのが好きで、プログラミングも得意なので、将来、まじんさんのようになってくれたらなと思いました。
読みながら胸がいっぱいになりました。
私自身も不登校を経験しているからです。
あのころは生きることを諦めそうになりました。
でも、人生には思いがけない転機がある。
いろんな寄り道を経て、いま私は「AI推進担当」として働いています。
だからこそ今日は、AIの知識ではなく、私の物語をお話ししたい。
かつての自分のように立ち止まっている人へ。
「ひとりじゃない」と伝われば、それだけで意味がある気がしています。
幼少期時代
私は九州の端っこ、鹿児島県出身です。
右を向けば海、左を向けば山。
信号はたった二つしかない、超ド田舎で生まれ育ちました。
幼い頃の私は、とにかく好奇心のかたまり。
3歳のときには三輪車で隣町まで冒険に出かけたり、
夏祭りでは「花火ってどこから出てくるんだ?」と気になって姿を消し警察沙汰に。ついには海上自衛隊まで捜索に出動する大騒ぎ。
警察「これで見つからなければ……」
父「そ、そんな……」
母「お願いします…まだ捜索を…」
まじん「ねぇ、さっきから何やってるの~?」
大人たち「……!?!?」
(そのあとこっぴどく叱られました)
そんなふうに、興味があることには異常な行動力を発揮する子どもでしたが、小学校高学年になるにつれ感受性が強くなり、繊細な性格になっていきました。
そういえば、この頃に私の活動名「まじん」が誕生します。
10歳あたりから徐々に太りはじめ、同級生に「魔人ブゥ」と呼ばれるようになりました。ドラゴンボールのあのキャラ、もちろん進化前の。
それが訛っていき、いつしか「まじん」に。
ひどいですよね。「ブゥ」ならまだしも、「魔人」って。
わたし小学生ですよ?「魔」って。
当時は気にして悩むこともありましたが、今ではインパクトのある面白い名前だなと感じるようになり、色々な場で使っています。
さて、話を戻しましょう(笑)。
普通高校時代
高校では地元の進学校に進みましたが、環境の変化にうまく馴染めませんでした。中学で仲の良かった友人たちは新しいグループを作り始め、私はその流れに乗り損ねてしまいます。
バスケ部に所属していたものの、パスが回ってこなかったり、部員に嘘の集合場所を教えられてコーチに叱られたりすることもありました。
今となっては「そんなことで」と思えることばかりですが、当時は同級生の冷たい視線やあの“冷笑”に耐えられませんでした。
特に、中学時代に親しかった友人と駅ですれ違ったときに「見て見ぬふり」をされた瞬間、私の中で何かが崩れてしまったのを覚えています。
その後は保健室登校を経て登校拒否になり、自主退学に至りました。
入学からわずか半年の出来事でした。
引きこもり時代
それから私は、自室から一歩も出なくなりました。
昼夜逆転し、朝方までテレビを観続ける日々。
鹿児島の深夜放送は午前2時を過ぎると朝まで天気予報がループしていて、そのとき流れていた有線の曲は、今聴いても具合が悪くなります。
親戚が来る日はとくに地獄でした。
幼いころは「将来は医者になる!」とか豪語していたのに、現実は高校にも通わず一日中部屋にこもっている自分。
とても顔を合わせられず、毛布にくるまって息を潜めていました。
そんな生活を数ヶ月続けるうちに、
「自分の人生は終わった」と本気で思うようになりました。
深夜、空腹に耐えかねてリビングへ行くと、
食卓にはいつも私のご飯が置いてあります。
ラップをはがして一口、二口と食べながら、
なぜ自分にこれを食べる権利があるのか分からず、
せめてもの親孝行は「今すぐ死ぬこと」ではないかと考えました。
情けなくて、申し訳なくて、声をあげて泣いてしまったとき、寝室から両親が出てきてくれました。母は私を抱きしめ、父は静かに言いました。
「どんなことがあっても、俺たちは味方だから。それだけは忘れないで。」
当時15歳、人並みに反抗期だったと思いますが、
小さな子どものようにワンワン泣いたことを覚えています。
泣き疲れて眠りにつこうとした朝五時。
窓の外から、軽トラのエンジン音が聞こえました。
父は今からどんな気持ちで仕事に向かうんだろう。
母はどんな思いで私のご飯を作っているんだろう。
今まで自分のことしか考えていなかった。
眠るのをやめて散歩にいきました。まずは昼夜逆転から。
少しずつ前を向くようになりました。
再入学~美術の世界へ~
後日、母がいろんな高校のパンフレットを集めてきてくれました。
隣町の高校…うーん無理だ。同級生の一学年下なんて。
通信制…うーん無理だ。たぶんヤンキーしかいない。(偏見)
そして最後に母が差し出したのが、できたばかりの私立の美術高校。
「あんた、絵は上手だったじゃない!」
確かに絵は得意だったけど、本気で学ぶほどでもない…。
ノートの端に落書きして友達に褒められる程度。
でも……"美術"という未知な世界に飛び込めば、
この一年のロスタイムを帳消しにできるかも知れない。
──脳内シミュレーション──
【普通高校に再入学する場合】
同級生A「まじん、〇〇高校に入り直したらしいよw」
同級生B「次会ったら敬語使わせそうぜw 後輩だしw」
【美術高校に再入学する場合】
同級生A「まじん、美術の学校に行ったらしいよ」
同級生B「もしかして高校やめたのって、美術がしたかったから?」
なんか……なんか……これなら生きていけそう(笑)
そう、当時の私が "美術の道" を選んだ理由は――
このムーブがしたかったからでした。
ダサすぎて草。
でも、時計の針がようやくまた動き始めた気がしました。
美術学校時代
春、入学式。
さて、ここからは少しテンポを上げて、
3年間のハイライトを振り返ってみます。
① クラスメイトはたった7人。人間関係にトラウマがあった私にとって、少人数制は本当に救いでした。
② 1学年上の女の子に恋をする。……同い年なのに“先輩”。なんかモヤモヤ。
③ その子に劣等感を抱かないように、必死で絵を描いた。
④ そして気づいた。「あれ? 美術って、めちゃくちゃ面白いかも。」
高3のときに描いた石膏デッサン。特に好きだった「アリアス」さん。

油絵にも夢中になって、地元の風景をよく描いていました。

美術ガチ勢からすれば「まだまだ」な絵だと思います。
でも、あの頃の私はただひたすら楽しかった。
高校最後の美展では、母をモデルに人物画を描き、念願の入賞。

展覧会当日、両親が会場に足を運んでくれました。
誇らしそうに私の絵を眺めるふたりの横顔を、私はずっと見ていました。
あのときの気持ちは、今でも忘れられません。
『あなたたちの努力は、無駄じゃなかったよ。全部、正しかったよ。』
まるで、私の絵がそう語りかけてくれているようで。
さて、その後は美大に進学するのですが――
人生って、そう簡単にはいかないんですよね。
私、本当に絵が“好き”だったのか?
絵がうまくなることで「自分は生きていていいんだ」と思いたかっただけなんじゃないか?
それってアートって呼べるのか?
……そんな問いが、頭の中でぐるぐる回りはじめました。
気がつけば、私はスランプに陥り、
描けなくなる日が増え、キャンバスに向かっても手が動かない。
それでも周りは、夢に向かって突き進んでいる。
やがて私は、少しずつ美術から離れていきました。
アルバイトばかりしていた記憶があります。
卒業後、就職も決まらず、地元へUターン。
知人の紹介で郵便配達の仕事をはじめます。
社会人(地元編)
美術で大成することはできなかったけれど、地元に戻って郵便局員として働き始めたとき、両親はとても喜んでくれました。
特に私の地元は田舎なので、「郵便配達=公務員」みたいなイメージが強く、立派な仕事に就いたように見えたんだと思います。
それから約5年、配達の仕事を続けました。
その日々のなかで、もうひとつの小さな夢――音楽活動にも打ち込むようになりました。
実は昔から、楽器を弾いたり曲を作ったりするのが好きで、自作の曲をSNSに投稿する活動を細々とやっていたんです。
ある日、そんな私の“はじめて投稿した曲”を、カバーしてくれた女の子が現れました。その女の子はなんと 今の奥さん です。
奥さんは東京に住んでいましたが、2年間の遠距離恋愛を経て、私は28歳で上京を決意しました。
こういうときの行動力、我ながら「自分らしいな」と思います(笑)
社会人(上京編)
上京したはいいものの、特にやりたいことはありませんでした。
目的はただひとつ――「好きな人と一緒にいたい」。
それだけ。だから仕事は何でもよかったんです。
とりあえず「スキル不問」の求人の中から条件の良さそうなものを受けまくり、今の会社に就職しました。配属先は「総務部」。
とはいえ、ビジネススキルはゼロ。Excelもほとんど使えないレベルです。
それも当然、これまでやってきたのは絵を描くか、手紙を配るかですから…。
コピー取り、植木の水やり、書類整理――そんな庶務をこなす毎日でしたが、少しずつ環境は変わっていきます。
やがてパソコンの管理など、ITまわりの仕事を任されるようになりました。分からないことだらけでしたが、調べながらどうにかこうにか乗り越える日々。
そのうち、社員からIT関連の問い合わせを受けるようになり、オフィスのネットワーク管理まで担当するようになって……。
いつの間にか、私は社内で「ITっぽい人」になっていったのです。
そして2023年。
ChatGPTが一気に話題になりました。
会社の同僚は「ただのオモチャじゃん」とすぐ手放したのに対し、私はその可能性の大きさに震えました。
仕事終わりに夢中で試し続け、気づけばそれが毎日のルーティンに。
あれから2年、今もそのルーティンは続いています。
そうした日々の積み重ねの中で、私は次第に 「社内AI推進担当」 という役割を担うようになっていきました。
非エンジニアで、文系ですらない「美術系」出身の私が、いまは会社でAI活用を推進し、外部向けにウェビナー講師まで務めている。
あの日、ただ「一緒にいたい」という理由で上京を決めた自分に、こんな未来を想像できただろうか(笑)
それくらい、AIには運命を変える力があると思います。
そして私にとって、その力を本格的に引き出してくれたのが――あるコミュニティとの出会い でした。
usutakuさんとの出会い
当時の私は、YouTubeでAI関連の動画を漁るのが日課でした。
そのなかでも特に光って見えたインフルエンサーがいました。
――それが usutakuさん です。
AIについて発信している人は数多くいましたが、彼の発信には独特のユーモアと視点があり、当時のインフルエンサーのなかでも頭ひとつ抜けた存在感を放っていました。
そんな彼がAIセミナーを開催すると知り、「これは受けてみたい」と思って飛び込みました。
3時間の講座はあっという間。
AIの知識もすごかったですが、それ以上に「どう実務に落とし込むか」という具体的な視点に強く惹かれました。
気づけば、その流れで紹介されたコミュニティにも入会していました。
――これが、後に私の学びを一気に加速させる「AI木曜会」との出会いです。
AI木曜会での思い出
当時、同僚から「AIスクールに20万円払った」と聞いて驚いたことがあります。
一方で私が入ったAI木曜会は、入会金ゼロ円・年契約なし。しかも講座のアーカイブも見放題。条件面だけでもかなり気軽に参加できました。
ただ、私が本当に心を動かされたのは雰囲気でした。
usutakuさんの徹底した「ギブ精神」がコミュニティ全体に浸透していて、それが居心地の良さや学びの濃さにつながっていたと思います。
実は、私がこのnoteを無料公開しているのも、その精神の影響が大きいです。
コミュニティ活動のなかで仲間と挑んだハッカソンでは、2025年8月に「第2回 AI Agent Hackathon with Google Cloud」で準優勝。
これは間違いなく、あの場で一緒に学んできた時間があったから掴めた成果だと思っています。
現在
その後、諸事情でAI木曜会を離れることになりました。
これまで「組織の中で学べる安心感」に支えられていたのに、急に独りぼっちに。AIへのモチベーションも、一気にしぼんでしまいました。
そんなとき――けいたろうさん が救いの手を差し伸べてくれたのです。
けいたろうさんについては過去のnoteでも触れましたが、もともとAI木曜会で講師をされていた方で、私の尊敬するAIインフルエンサーの一人です。
そのけいたろうさんが、私の「まじん式」に関するnoteを全力で拡散してくださり、一気にSNS活動の道がひらけました。
さらに、新しいAIコミュニティにも招いてくださり、また仲間と一緒に楽しく学び合える環境を取り戻すことができました。
けいたろうさんには本当に感謝しています。だからこそ、このチャンスを無駄にしないよう、これからも誠実に「ギブ」を続けます。
おわりに
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
振り返れば、決してまっすぐな道ではありませんでした。右に左にジグザグ歩き。
でもそれが、大人になったら「引き出し」になったりするものです。
今こうしてnoteを書いてるのもその一つ。
もちろん、物語はまだ途中です。
私のような「超アナログ人材」でもAIの世界で活躍できるという事実が、これから学び始める誰かの希望や勇気になればと思います。
泥臭く、誠実に。
これからもまっすぐ「ギブ」を続けていきます。
では、次の記事でまた会いましょう!
次は「まじん式V3」を投稿予定!お楽しみに!
