見出し画像

脳のエネルギー源の本当の話

脳のエネルギー源についての本当の話をします。
これは、こちらで紹介した「あなたの脳は壊れていない」の内容の一部の再構成となります。



脳のエネルギー源はグルコースだけ?

「脳はグルコース(ブドウ糖)しかエネルギー源にできない」
こう言われたことはないでしょうか。栄養の教科書にも、ダイエット本にも、よくそう書いてあります。だから脳のために糖質を摂れ、という話になります。

しかし、これは正確ではありません。

いや、もっとはっきり言いましょう。神経細胞はグルコースをほとんど直接使っていません。

本書の中で最も「え?」となる事実の一つがここです。そして、この事実こそが、なぜ脳のエネルギーが壊れると精神疾患につながるのかを理解するための、決定的な鍵になります。


神経細胞のお母さん、アストロサイト

まず、脳の構造について少し知っておいてください。

脳は神経細胞だけで構成されているわけではありません。神経細胞のすぐ隣には、アストロサイトという細胞が張り付いています。本書ではアストロサイトを「神経細胞のお母さん」と表現しています。乳酸という「母乳」を与え、神経細胞から出る代謝物を処理し、毒物から神経細胞を守る。アストロサイトが登場するたびに、その役割の多さに驚かされます。

そして、神経細胞のエネルギー供給において、このアストロサイトが主役を担っています。

その仕組みが、「アストロサイト-ニューロン乳酸シャトル(ANLS)」です。


ANLSとは何か——神経細胞の本当のエネルギー回路

仕組みはシンプルです。
アストロサイトが血液中のグルコースを取り込みます。自分のエネルギー源にしながら、それを乳酸に変換します。そしてその乳酸を神経細胞(ニューロン)に渡します。神経細胞はその乳酸を燃料として使います。

血中のグルコース→アストロサイトが取り込み→乳酸→神経細胞が取り込み→エネルギー(ATP)

これがANLS、神経細胞への通常のエネルギー供給ルートです。

「神経細胞はグルコースを直接使えるのでは?」と思った方は鋭いです。正確に言うと、緊急時には神経細胞でグルコースを取り込んでエネルギーを作ることはあります。しかしそれは一時的なバックアップです。長時間のグルコース代謝はできないのです。通常、神経細胞はアストロサイトを経由して届けられる乳酸をメインの燃料として使うように設計されています。アストロサイトというお母さんに養ってもらっているのが、神経細胞の本来の姿なのです。


ANLSが破綻するとき——「弾切れ」が精神疾患に接続する

通常の発火頻度であれば、このシステムは問題なく機能します。しかし、ノイズ(前回の記事で解説したBBB破綻による侵入物質)によって神経細胞が過剰に発火し続けると、話が変わってきます。

特に深刻なのが、BBBの破綻によって大量の長鎖飽和脂肪酸が脳内に流入するケースです。通常、この脂肪酸はアストロサイトが処理(β酸化)してエネルギーに変換することで無害化します。しかし、流入量が多くなりすぎると、アストロサイトのβ酸化が亢進しすぎます。ATPが過剰になり、その過剰なATPがグルコース代謝を抑制する律速酵素(PFK-1)を阻害してしまいます。つまり——

ANLSが停止します。

アストロサイト自身はATPがダダ余りしているのに、神経細胞にはエネルギーが届かなくなります。しかもATPを直接神経細胞に渡すことはできません。アストロサイトが満腹で動けなくなり、神経細胞だけが飢えます。

母乳を得られなくなった神経細胞はまともに機能することができなくなります。神経細胞の飢餓が精神神経疾患の一つの大きな原因であることが理解できるでしょう。


ケトン体——もう一つの燃料ライン

ここで、本書の中でも特に重要な視点が登場します。

ANLSが破綻しても、神経細胞がエネルギー欠乏に陥らずに済む道があります。それがケトン体です。

ケトン体(特にβ-ヒドロキシ酪酸)は、主に肝臓で脂肪酸から合成されます。そしてここが決定的に重要なのですが、ケトン体は神経細胞がミトコンドリアで直接酸化できる燃料です。アストロサイトを経由しません。ANLSに依存しません。

本書の中では、断食72時間という「自然実験」がこれを鮮やかに証明しています。72時間断食すると血糖値は50〜60 mg/dLまで低下します。通常の食事をしている人ならば低血糖発作が起きてもおかしくない数値です。しかし断食者には発作が起きません。理由は単純です。72時間の断食で肝臓のケトン体産生が本格化し、神経細胞はケトン体からエネルギーを確保できるからです。ANLSが機能しなくても、ケトン体がオンラインになっているから、エネルギー危機にならないのです。

逆に言えば、通常の高糖質食を続けている人はインスリンが常に高く、ケトン体産生が慢性的に抑制されて、ケトン体の燃料供給がオフラインのままなのです。


それでも「脳はグルコースだけ」と言われ続ける理由

では、なぜ今も「脳のエネルギー源はグルコースのみ」という説明が広まっているのでしょうか。

これはある意味、正しい観察から誤った結論が導かれた例です。

血液中のグルコースが枯渇すると意識を失う、というのは事実です。しかしそれはグルコースがアストロサイトを通じたANLSの原料だからです。グルコースが途絶えれば乳酸が作れなくなり、神経細胞が飢えます。だから「グルコースが必要」は正しい。しかし「神経細胞がグルコースを直接使っている」は正確ではありません。


まとめ——エネルギーの話は、治療の話です

脳のエネルギー源についての本当の話は、単なる生化学の話ではありません。

ANLSが破綻することが精神疾患の共通メカニズムにつながるなら、そしてケトン体がそのANLS破綻を緩衝できるなら——治療のアプローチは根本から変わってきます。

ケトン体というもう一つの燃料ラインをオンラインにすること。BBBを修復してそもそもの破綻を起きにくくすること。薬で神経伝達物質の量を調整することの前に、脳のエネルギーシステムそのものを立て直すこと。

本書が「治らない」と言われてきた精神疾患に希望を見出す理由の一つが、ここにあります。

「あなたの脳は壊れていない。エネルギーが届いていないだけかもしれない。」


続きの記事を書きました!


「あなたの脳は壊れていない」

ペーパーバック版、電子書籍版、どちらも発売中です。


いいなと思ったら応援しよう!

浮島 真一 記事は全て無料です。内容がいいと思ったら応援していただけると励みになります!