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<ネタバレ注意>読書レビュー&考察:市川沙央氏『女の子の背骨』

一作目の考察はこちら。今回は二作目『女の子の背骨』です。

本著は表題作でもある『女の子の背骨』に加えて、『オフィーリア23号』を併録。

ネタバレあり。
本著を読んでから読んでください。

考察は私が根拠なく好き勝手書いてます。

AI以上に疑いを持って読んでください。


女の子の背骨

前作『ハンチバック』との共通点

本作の主人公は、筋肉の難病を持つ姉妹の妹のガゼル。姉はガゼルよりも症状が重く、5歳の頃に倒れてから2年も一緒にいられず、今やっと在宅移行となって同じ家で暮らせるようになった。

前作『ハンチバッグ』の主人公と類似した病状を姉妹が持つかは分からない。

本作内では背骨が曲がっていく女の子が「怖い話」として消費されていることについて、ガゼルは病気をバカにされたように感じている。

こっくりさんをやって悪霊に憑かれた女の子の背骨がどんどん曲がっていっていって、病気をバカにされた気がしました。

p187

ガゼルは、自分が彼ら(健常者)と違う事実を突きつけられていて、彼らが身体的違いを揶揄するような感覚を持っていることを、嫌だと思っている。
前作は主人公が大人だったので健常者への特権性は明確に表現されたが、今回は子ども視点なのでやや感覚的だ。

『ハンチバック』の主人公である井沢は「生きながら壊れていく存在」だ。
そのような生き方は、人間の身体性を凌駕していると言えるし、健常者には想定しえなかった異分子だ。

本を読むたび背骨は曲がり肺を潰し喉に孔を穿ち歩いては頭をぶつけ、私の身体は生きるために壊れてきた。
生きるために芽生える命を殺すことと何の違いがあるだろう。

『ハンチバッグ』p46

そして本著では、ガゼルと姉がそれぞれの形で「異分子」という役割を担っていると考える。

母が命名した『ガゼル』

登場人物をさらりとおさらいしよう。

物語は、妹である”ガゼル”の視点から語られている。
「ガゼル」という呼び名は小説の一人称なので自分だけの語りかと思いきや、第三者からの呼びかけでも「ガゼル」と呼ばれている。同じ呼びかけ時に姉は「Iちゃん」と呼ばれているので、「ガゼル」として皆に通っているニックネームなのかもしれない。

このニックネームは、ガゼルの母親がつけたのではないかと推測する。
母親については後述するが、母はクリスチャンではないが、山の手のカトリック教会に隣接する幼稚園に通っていた。
ガゼルという動物は、日本語では「かもしか」という単語で、旧約聖書の随所に動物&象徴としても登場する。

例えば、書物の中の一編である雅歌(がか)では、ガゼルは自由で野生な様子や、清純で美しい恋人に例えられている。

雅歌8:14恋しい人よ
急いでください、かもしかや子鹿のように
香り草の山々へ。

旧約聖書雅歌https://yoyoue.jpn.org/bible/sol.htm 

※ガゼルの俊敏な様子から、キリストの受肉と復活を象徴するという教父による寓意的解釈もあるが、聖書ではないので含めない。

想像だが、ガゼルの母はガゼルに「美しさ、優雅さ」を求めて「ガゼル」と名付けたのではないだろうか。
母は、ガゼルにエレガントであってほしいと常々思っている。

母はガゼルにエレガントなお嬢様であってほしい。

p183

しかもボーナス特典として、ガゼルは食肉だ。
色々便利なのだ。

もしガゼルがエレガントでいられなければ、書物で示されているようにガゼルは食用として食べられてしまうのだろうか?
ガゼルを食べる側の強者は社会というよりは、名付けたと想定される大人なのだろうか。
大人たちに、ガゼルは食べられる(or搾取されてしまう)のだろうか。

ガゼルの父はワンマンそうだが、他の大人たちは概してガゼルに優しいので、食用の部分は私が深読みしすぎかも。

姉妹の異分子さ

周囲との差異、つまり社会から見た異分子であることは、本著ひいては前作からの大きなテーマである。

そして、前作同様、本著には宗教の挿入は多い。

ーーお姉ちゃまへ
霊界のシステムにはご褒美の人生というものがあり、輪廻転生を繰り返して人生のレッスンを重ね、カルマをすべて解消すると、最後に1回だけ現世で何不自由ない安楽な人生を送ることができるそうなんです。Iちゃんはその、ボードゲームで言えば<上がり>に到達した人なのだとママがよく言っていますが、本当のところ、本人としてはどうなんでしょう?
でも確かに、そこ(病院)にさえいればお姉ちゃまは安全です。

p181

霊界の概念はよく分からないが、恐らくガゼルがハマっている摩天郎のアニメからの創作だろう。
「カルマ(業)」は、日本人には馴染みが深い。

カルマ(業)は、サンスクリット語で「行為」や「行い」を意味し、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教などのインド発祥の宗教・思想で中心的な概念です。「原因と結果の法則」として、意思を持ってなされた善悪の行為が、未来の運命や次の転生に影響を与えるという「因果応報」の原理を指し、輪廻転生と結びついています。

AI検索参照

ただ、仏教やインド哲学だと、カルマはあくまで次の輪廻転生時に影響する要素だ。
ガゼルが言う「現世で1回だけ」「何不自由ない安楽な人生」は、旧約聖書やコーランの「終わりの日(審判の日)(復活の日)」と混ざっているようにも見えるし、そもそもどの宗教でもないオリジナル設定のようだ。

「最後の審判」の解説はこちら。

そのアニメオリジナル設定はおいておき、つまりは、家族の中でも姉は異分子だということ。
同じ障害を持っているガゼルを差し引いても、姉は<上がっている>状態
というか、<上がっている>と家族が認識している状態

人間とは違うレイヤーにいる、と家族が思っているのだ。
いかに姉が異色なのかは、文中でも説明されている。

癇癪持ちのガゼルにとって姉の何一つ文句を言わない我慢づよい性格は得体が知れなかった。父も母もガゼルも喜怒哀楽のうちで怒の表出ばかりが多い人間たちなのに、姉だけはまるで鬼子のようにちがう、異色の存在だった。

p180

鬼子とは、親に似ていない子供、異様な姿で生まれた子供のことだ。

ただ違うと形容すればいいのに、得体のしれない”鬼”を入れた言葉で表現するのも意図があるだろう。

そしてガゼルもガゼルで、拳銃を盗もうとしている。
盗んでから、生き物を殺すためだ。

世界に酷いことをする悪者を崖の上にやっと追いつめておいて、もたもたとトドメをささない物語が、ガゼルは嫌いだ。
撃った方が正義になるんだよ。
だからガゼルには拳銃が必要だった。

p189

ガゼルは正義になろうとしているのかもしれない。
子供にしては異質な、でもその空想はアニメキャラクターと探偵ごっこを参考にしていて、まだまだ子供らしい幼い発想ではある。

やんちゃないたずらっ子とも言えるが、思慮深い少し変わった子どもだ。ガゼルの異分子な点は、後から明らかにする。

宿命を受け入れる母と奇跡

他にも宗教要素がある。

ガゼルの家には、山の手のカトリック教会に隣接する幼稚園に通っていた母が大事にしているイエズス・キリストの絵が飾られているという。

ハインリヒ・ヨハン・ホフマンというドイツ画家による、<ゲッセマネの祈り>だ。

このシーンは、イエス自身が後にゲッセマネでの十字架の刑に処されるのを知りながら悲しみ苦悩するが、一人で祈ることで、処罰される(つまりは殺される)ことを受け入れたという、神への信頼と受容の精神の現れとも言われている(なので皆も辛いことがあっても、神を信頼して受け入れようね、という教訓になる)。

本とは関係ないが、ゲッセマネの祈りでは、その鬱々と悩む師匠イエスの裏で眠りこける3人の弟子が有名だ。絵画にもよく出てくるモチーフだ。
師匠が死ぬ覚悟をしている時に、弟子は呑気なものだ。聖書はたまに滑稽でもある。

有名どころだと、イタリアの巨匠マンテーニャ

閑話休題

姉妹の母は鷹揚としており、姉の話をする時も障害者だからという視点で特別視しているわけでもなく、自身や姉妹の境遇を嘆くような悲壮な面もない。

「ミロの話しないで。腹が立つ。子供が丈夫に育つっていうからIちゃんに一生懸命ミロを飲ませてたのに全然効きやしなかった。ふざけてるわよ。腹立つ」

p164

上の発言に対しても、幼いガゼルでさえ心の中で「それはミロのせいじゃない。姉が特殊な難病だったわけで」と突っ込まれている。
そのくらい思考力が浅い母なのだ。

よく言えばおっとりしており、悪く言えば特に思考せず解決に動くわけでもない人間だ。
大半の人間がそうであると思うが、特に多いのはそうせざるを得なかった弱者だ。

母は裕福な家庭出身であることが示唆されているが、その家では決して娘を自身の力で立ち上がらせるな教育は受けさせなかったのだろう。
自分では何も解決するような力を持たされなかったのだ。

そんな凡庸さでは、<ゲッセマネの祈り>のイエズス様(母が使う呼び名だ)のように、何でも受容せざるを得ないかもしれない。

夫と登場する母の姉については分からないが、少なくとも母は、庇護される対象が持ちうる呑気さがある。
人よりも多い苦難を迎えるであろう姉妹が、どんな困難も受け入れられる母の下に生まれたことは、奇跡なのかもしれない。

私がガゼルの母を一番鷹揚だなと思ったのが、ガゼルが理科で使うから姉の流動食を持っていきたいと言った時、二つ返事でOKを出したこと。

こういう専門的な医療向け流動食は、高いはずだ。
それを、「あら、良いじゃない」で片付けられるのは懐の広さなのか、それとも何も考えてないからなのか。

ところで、ガゼルは母親には嘘をつけないという。
母自身は庇護される社会的弱者でもあるが、ガゼルにとって母は圧倒的強者なのだ。
それは、次のテーマにも関わってくる。

登場人物が見せるインターセクショナリティとその複雑さ

本著のもう一つの大きなテーマとしては、インターセクショナリティが挙げられる。

これは私の妄想という名の考察でもなく、著者御本人がインタビューで語ったことだ。

『ハンチバック』の釈華は経済力の面で強者性を持ち、「女の子の背骨」の主人公は健常児と比べれば身体的弱者でありながら姉に対しては身体的強者である――こうした相対性、インターセクショナリティの提示によってあらゆる二元論の解体を試みることが、障害者につきまとう異物のイメージを粉ふん砕さいするための、私なりのアプローチであると言えそうです。

インターセクショナリティは、交差性とも呼ばれ、例えば黒人の女性は、黒人としての差別に加えて女性としての差別も付加される。

なお、御本人も言っているが、障害者と健常者、白人と非白人、のような二元論でまとめられるほど物事は簡単ではない。障害者といってもその症状や状況や環境などで一括りにできるわけがなく、グラデーションがあると私は考えている。

ちなみに、インターセクショナリティをフェミニズムの概念に早い段階で取り入れたのは、ベル・フックスであり、フェミニズムが高等教育を受けた白人女性の解放だけを目指しているという批判を学術的に行っている。

このインターセクショナリティ(相対性)は、本著にてあらゆるキー場面で提示されている。

一例として、コンドミニアム内で見かけた男の子だ。

頂点にいる白人健常者の男の子

ガゼルは、お友達を欲している。姉のおかげで家には呼べないし、学校では健常者の同年代とは到底張り合えない。

お泊まり会しない?このまま泊まっていかない?こんど君んちに泊まらせてくれない?

p219

常にお泊まり会へのお誘いを心の中でしている。大人同士の旅行なんて、子供にとっては楽しくないはずだから当然だろう。

そこで(?)目をつけたのが、同じコンドミニアムに住む、5つぐらいの白人の男の子だ。

プールで遊ぶ彼に、ガゼルは年齢を聞いたあと、住んでいる階数を聞いた。彼は、10階と答えた。

十階か。うちより上じゃん。

p190

ここで、ガゼルの評価軸では、自分たちよりも彼を”強者”と思ったに違いない。

ガゼルは恐らく7歳なので、彼は年下だ。ガゼルは病気のためガリガリで小柄なはずだから、体格的には5歳の男の子と釣り合っていて、自分が劣らずとも同等だと思ったのだろう。

もしかしたら、住んでいる階数が自分たちよりも低かったら、お泊りしない?と聞いたのかもしれない。
しかし、彼は、8階の自分たちよりも上に住んでいた。お泊りのお誘いは、引っ込めたのだ。

しかし物語後半にて、彼が自分たちよりも下の7階に住んでいることが分かる。

「あっ」
目が合う。あの男の子だ。向こうもこちらに気づいて、バツの悪そうな顔をしている。(中略)
嘘だったのか。…嘘だったし、そこは7階で、うちより下じゃん。

p209

ここで、力関係が逆転した
彼よりも、ガゼル家の方が上に住んでいる強者だ。

彼(の家族)は、同じコンドミニアムに住んでいる=裕福な家庭だろう。白人で、男の子で、健常者で、裕福で。
何も勝ち目がない、恐らくコンドミニアムのプール外の世界でも頂点にいるような存在。
それでも、階数はガゼル家の方が上だ。

ここまでは作中言及していないが、付け加えると、男の子は嘘つきだ。
人間性でも、ガゼルは勝ったのではないだろうか。ガゼルは騙されたとしょげてこの後不機嫌になるが、この部分は、強者に勝ったとスカッとする話にしたいところだ。

本著が実験するインターセクショナリティの複雑性の提示

このように従来インターセクショナリティが抱える構造として、
①対立構造に落として括れない複雑さ(例:障害にも幅がある)があり、

それに加えて、
②時と環境、関係性によっても変わる複雑さもある

対象の性質は固定的でなく、変容するということだ。

本著は、インターセクショナリティを提示するだけでなく、この2つの複雑性を示す試みに挑戦している。

そして、物語中でもう一人、力関係が変容した人物がいる。

世間的には没落した虚しいおじさん:カブさん

グアム旅行を楽しむガゼル家族と叔母家族に現れた闖入者、ことカブさん。彼は代々親から伝わる由緒正しい事業を相続したが、自身の不真面目さから借金するまで転落したという。ガゼルの父からも少なくないお金を借りている。

つまり、明らかな社会的・経済的な弱者だ。
しかも、裕福な地点からスタートした健常者であり、没落理由は自分が悪いのだから、なお悪い。
いや、個人の努力不足と詰ることは、適切ではないかもしれない。弱者を社会で救おうとせず、個人の責任転嫁にするのは、日本人が一番多いらしい。

大人同士の間では、カブさんは多少腫れ物として扱われる。
「面白い人間”だが”」「良い人なん”だけど”ね」という、ちょっと含みのある感じ。

ただし、後半そのカブさんは違った面を見せる。

ガゼルが敷地内のガードマンに、銃を見せてくれというシーンだ。
この場は物語のクライマックスと言える。

あの拳銃を盗んで何でもいいから何かを撃ち殺したい。

p153

もしここでガードマンが隙を見せたら、ガゼルはきっと盗んで走り出す。コルセットを付けながらなので、どのくらい長く早く走れるのだろうかと、読者はわくわく期待する。

しかし、ガードマンは一枚上どころか、ガゼルの企みをいとも簡単にあしらう。

彼はガゼルに拳銃を見せてくれと言われても、表情は変えない。
そして後退り(恐らく部屋の奥の方だろうか)、自身の拳銃を、机にごとっと置く。
そして、子供相手の顔に切り替えて、ガゼルに名前と部屋番号を聞くのだ。

部屋の奥に銃はあるが、入口は彼の巨体で塞がれていて、銃を取りに行こうと滑り込む余地はない。もし盗めたとしても、彼は片手で容易くガゼルを捕まえるだろう。

あれだけ銃について思考していたように見えても、所詮は子ども。
ガードマンからはガゼルは一時の異物、つまりは一人前として扱われていない。それくらい容易そうだ。

一方で、ガゼルにとっては大ピンチだ。
銃を盗むという初心を達成するどころか、親に悪いことをしたと報告されてしまう。

ガゼルは、きっとこの悪行を親に知られたくないだろう。

すると背後から、神出鬼没の摩天郎…
ではなく、カブさんが颯爽と現れる。

カブさんが堂々とした態度で悪戯な子どもを引き取り、今日はスコールが来そうだねというような軽い会話を挨拶に収束させてその場から自然なかたちで離れる。

p212

悪戯な子どもとはガゼルのことだ。
ガードマンからの注意がなくなり、くどくど名前など聞かれず親にも報告されず、何ともスマートに、ガゼルはピンチを逃れた。

そしてコンドミニアムで自室にカブさんと戻った。

ここが、本著二度目のクライマックスだ。

玄関先で、いつもカブさんが携行している頭陀袋としか言いようのない薄汚れた青いビニールのナップサックを隅の床に下ろしたとき、ゴトッ、という音が無音の廊下に響いた。

p212

カブさんは、銃を持っていたのだ。
しかも、頭陀袋のような汚いナップサックに無造作に入れている。

ここでも、社会的・経済的弱者であったカブさんが、
この密室で、子どもであるガゼルを前に、圧倒的な強者に変容した

ここは、緊張するシーンだ。
(ガゼルは緊張しているようには見えないが)

「もしかしたら、カブさんが銃を持ってガゼルに…」と悪い予測をした読者もいるのではないだろうか。

相手は銃を持っている大人の健常者男性だ。
しかもカブさんが、金と善意で救われたら、恵んでくれた相手に殺意を抱いてしまう、と語っている

なかなかに物騒だ。

そんな怖いこと子どもに言うなよ!と思ったが、金銭の貸し借りという大人のドロドロの世界に属しない異分子である子どもだからこそ、言いやすかったのかもしれない。

読者のハラハラをよそに、ここで呑気に「カネ?」とジェスチャー付きで無邪気に返したガゼルだからこそ、カブさんもふと我に返ったのだろう。

「銃が欲しけりゃ、いつかパパに買ってもらいな」

p217

銃を持ちたいということを叱られるわけでもなく、ジャッジされるわけでもなく、ガゼルを意思を持つ一人として扱ってくれた。勿論、子どもなので困ったことになりそうだったら助けてあげる。

カブさんは、弱者かもしれないが、(少なくとも子どもには)力を発揮する良いヤツだ。

孤独な姉妹

ガゼルは、身体的弱者だ。
大人たちのグループにいるグアムでは、身体的弱者であることで生じる弊害は感じられない。
子ども同士のけんかは、立場が近いから発生する。大人は、立場が違うと割り切って接するので、子供には優しい。

その環境は優しいが、子供の立場からすると物足りない。
ガゼルにとっては、今回の旅行は何度も来ている代わり映えのしないグアムだ。
しかも自分と同じ年頃の子供はいない。
姉もいない。
同い年ぐらいの誰かに声をかける試みはしたが、失敗(白人の健常者男子に騙された)に終わった。

ただ孤独だ。

ガゼルだけが一人だった。いつも一人だった。
(中略)
一人に慣れてしまった。
姉もガゼルもそれぞれの居場所で、一人に慣れてしまった。

p200

ガゼルは姉について回想している。たくさんだ。
一人に慣れていても、さみしいのだ。

姉とは身体的機能から対等ではないが、姉は何一つ文句を言わない我慢づよい性格で、ガゼルをかまってくれる。
姉が母に預けたという自分宛の手紙も、一目散に開ける。

「忘れてたわ。これ、Iちゃんが、こっちでガゼルちゃんに渡してって」
手紙?
お姉ちゃまから?
何だ何だ、と期待しながら糊のされていない白い封筒をあける。

p195

大人の中で子供一人という体験は、自分ひとりだけしかいないという孤独とは、また違った疎外感がある。
自分が異分子だとはっきり分かる、居心地の悪さ

その孤独さ、暇さ、つまらなさ。
その結果、一人で摩天郎という怪物を探す探偵ごっこをしたり、何を撃ち殺すか考えたり、ガードマンから拳銃を奪おうという気持ちになったのだろう。

ガゼルは、決して悪い子ではないのだ。
最後におねえちゃまへの手紙も、孤独が表れている。

こんど、一人でいるコツを私にもおしえてください。

p218

ガゼルの、どこにいっても異質で一人ぼっちな旅は、まだまだ続くだろう。それでも、無邪気に銃を探して一人で過ごしたグアムよりは、楽しいのかもしれない。

萩尾望都『半神』の影響?

ところで、私がこの本を読みながら最初に連想したのが、萩尾望都の『半神』だ。

『半神』は本著と違って姉妹でなく双子という差はあるが、知能はあるが醜い姉と、美人だが何も話せない妹という結合双生児の物語だ。

そして、お気づきだろうか。

タイトルにもなっている「半神」という言葉。
「半神」は、神と人間の間に生まれた存在で、超越的な力を持っているという。
『半神』では、二人が生きているだけでも医者が驚くぐらいの奇跡だという。しかし、(漫画のネタバレになるが)後ほど双子の一人は死んでしまう。
だから、二人揃って神様だったのが、一人欠けて半神となったとも考えられる。

『半神』は有名かつ、著者は少女小説ガイドに貴重なコラムを献上しているぐらい少女文学詳しいから、読んだことがあると思う。

著者が二人で一人前として扱われる『半神』を思い出しながら、『女の子の背骨』の姉妹が、どこでも異分子として一人前じゃないように扱われている、と対比させた、と勝手に考えた。これは完全に私の妄想です

オフィーリア23号

スペキュラティブフィクションの現代版

ページ数としては、こちらの方が多い。
こちらは、世間との常識とあまりにもずれている登場人物やストーリーに対して、ツッコミをしながら読むもの、として認識した。

要は、スペキュラティブフィクションの現代版だ。

スペキュラティブフィクションとは、現実とは異なる社会を描くことで、現実の社会のあり方を批判するフィクションのこと。

例えば、『侍女の物語』もその部類だ。物語が描く社会に対して倫理的な嫌悪感や怒りを覚え、その世界や精度は駄目だよねと認識させる。

『オフィーリア23号』は、現代の東京を描いているが、どこか現実味が薄い。
批判している現実は、家父長制、男尊女卑、ポルノ、ホモソーシャルだろう。

よくいる男、知的な活動で加害性を隠す男

中でも取り上げたいのは、自分の欲望と加害性を”それらしく”知的な活動として周りに強要する南村和人という、有害な男らしさの権化のような男だ。

この男は、読者を不快にさせるスノッブさで描かれており、解像度が高い。
主人公である大学院生の那緒に、劇団リーダーで彼氏である和人が、三島由紀夫原作のAVを撮りたいと誘ったのだ。

三島由紀夫の『憂国』で、エロ映画を撮る

こんなこと、電車にいる隣の人が言ったら、まともに取り合うか?

破廉恥なバカとしか思わない。
これを言われた時点で、攻撃を受けたに等しいぐらいの暴言だ。

ただし、発言者である和人は、劇団のリーダーだった。
那緒よりも年上で、学生ではなく社会人という権力勾配がある関係性。
彼らが所属するコミュニティでは、一番の権威を持つ人間だ

権威者に対しては、「そんなことするのは嫌だ」「ちょっとおかしくない?」を言えない空気感が作られてしまう。

権力者は、意見の良さ悪さを正当に分析される前に、すっと意見が通ってしまうことが多い。

1800万部突破の漫画『ミステリと言う勿れ』でも、地元の権力者である先生が持つ何気ない特権性を描いている。

権力者は周りから忖度される、とも言えよう。

しかも和人が行ったのは強要とは言えないのが、巧妙なところで卑怯であることだ。嫌ならその意見を大事にしたいと言っている。
じゃあ、そもそも言うなよ
相手が嫌だと思いそうなことなら、わざわざ言わなくていいだろう

言ってもいいと、相手をなめてるんだよね、そもそも。

この狭いコミュニティ内での権力者である和人に、真っ向から向き合って説得しようとした、同じ劇団メンバーの吉野くんは勇気があり、まともだと思う。長いものには巻かれろが楽なのに、間違っていると権力者に言い切った(しかし彼は和人を説得できず、彼のみが去ることとなる)。

このような自身の理屈に都合の良く振る舞う権力者に出くわす場は、暴力や差別が駄目と認識されている、高学歴でホワイトワーカーのグループの方が、確率が高いのではないだろうのか。

要は、それっぽい言い訳を作る人達がいるかどうかだ。

性暴力を振るった東大男子学生らによる、「彼女は頭が悪いから」という、偏差値最下層の言い訳もある。

女性なら誰もが、ポルノ脳に侵されたパートナーの打算的な打診を受けたことがあるのではないだろうか。(もし貴方にそのような経験がなければ、ご自身を尊重し、素敵な男性を選ぶことができているのでしょう)

そして自己形成が十分にできていない、主人公含めた10代、20代の女性は、期待に応えないと自分が器量不足に感じられて、嫌なのに受け入れてしまう。
本著での主人公の葛藤は、性暴力の切り取りを見たかのようだ。

近年はSNSの広まりもあり、性暴力は低年齢化している。小学生男子が、同級生女子に「裸を送って」と送ったという事件もある。

そのような時、被害者が自分の印象を損ねず円満に(じゃないと危険なので)どう答えるか悩む前に、その打診をした時点で明確な加害であるということを、誰もが知っておく必要がある

性暴力は、性欲ではなく加害・支配欲

このような暴力を行使することで、加害者は試している。
自分の加害性がどこまで受け入れられるか
自分の権力ならどこまで許されるか

よく性暴力は、性欲が関係していると言われるが、それは断じて違う。
性欲が関係しているなら、その衝動を抱いた時に自分で解消すればいいのだ。
解消に他者を利用しようとする行為の根本にあるのは、加害欲であり支配欲だ。
そして、今回の挑戦は、和人にとって一つの成功体験になったと言える。

徐々に痴漢行為がエスカレートしていく、加害者の加害・支配欲が膨らみ、認知の歪みが形成される過程はこちらの本でも描かれている。

読者への嫌悪感を巧みに引き出す小説

ただし、賢い読者は引いている。

和人きもい。それに付き合う主人公もおかしい。
お兄ちゃまも気持ち悪いと思うし、パパも狂ってる。

日本では#MeTooが欧米ほど盛り上がらず、被害者が叩かれた時代から、今の社会的通念が出来上がった(とはいえまだ完璧には程遠い)ことから、まともな現代の読者は、この本を読んで多少の居心地の悪さを感じる。

それができているのは、この現代的なスペキュラティブフィクションを組んだ著者の頭脳と、「こういう奴いたいた」と思わせるほど気持ち悪く正確に加害者を描写できる著者の筆力の賜物だ。

「国家権力が、家庭内のことに何でもかんでも介入してくる世界の方が危険だと思うぞ」

p132

このお兄ちゃまの言葉は、配偶者暴力防止法(DV法)が2001年まで成立しなかった大きな理由だ。
今では、「いやいや、家で暴力起きたら即通報だろうが」という感覚の人の方が多いだろう。
こういう登場人物へのツッコミが至るところに散りばめられている。

現実の性加害を批判するには、悪を懲罰するまともなストーリーじゃ駄目なのかもしれない。
『オフィーリア23号』のように、かけ離れた異物すぎる発想の人間らが、(彼らにとっては)まともに社会生活を送っているストーリーを描く方が、読者に課題感と不快感をじわじわと起こさせやすい。

その効果は絶大だ。
現実への批判に、著者は大いに成功したといえる。

読者の誰もが「葬式でパパの骨を汚い靴底でぐりぐり踏んでくれ!」と思っているだろう。

オフィーリアのモデルとなった芸術家エリザベス・シダル

ミレイの《オフィーリア》は名画で、小説内で大きな存在感を誇る。
小説内では気味の悪い、美しいものが腐っていく対象(これは内包するミソジニーという比喩)として描かれている。

その《オフィーリア》のモデルも優れた芸術家だったのは有名な話。エリザベス・シダルという、ラファエル前派の仲間に加わっていた芸術家だ。

実際の彼女は意志の強い人物であり、男性の画家仲間が描いた、無表情で消極的で、まるで犠牲者のような姿とはまるで異なっていました。

『男性のいない美術史』

近年では、芸術自体が男性社会でメールゲーズ(男性視点。女性を無個性でかつ裸に描いた芸術、多すぎるでしょ)だという批判も増えている。男性視点で決められた評価軸に対して、新しい芸術的表現と価値が見出されることで、様々な埋もれた芸術家を発掘することができるだろう。

※サムネイルは、《マリー・ジョゼフィーヌ・シャルロット・デュ・ヴァル・ドーニュ》。長らく《ナポレオン》などを描いたフランスの古典主義ジャック=ルイ・ダヴィッドによる絵だと思われていたが、メトロポリタン美術館が20万ドルという高額で購入した後、マリー=ドニーズ・ヴィレールという女性の芸術家だと判明した。

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