芥川賞70年で評価基準はどう変わったのか
2026年7月15日、第175回芥川賞が発表された。受賞は小砂川チト『ゾンビ回収婦』。AIに仕事を奪われた女性が、VRゲームの世界で「ゾンビの骸を拾う掃除婦」として働き始める物語だ。
受賞のたびに「最近の純文学は変わった」と言われる。だが本当に変わったのは作品のほうだろうか。私はむしろ、選考委員と批評の物差しのほうが変わったのだと思う。
格調の時代
1956年、石原慎太郎『太陽の季節』が芥川賞を受賞したとき、選考会は割れた。裕福な若者たちの奔放な生と性を描いたこの作品に対し、選考委員の佐藤春夫は美的節度を欠くとして激しく拒絶した。一方で、新しい時代の感覚を評価して強く推す委員もいた。受賞はしたが、選評には「こんなものは文学ではない」という露骨な抵抗が刻まれている。
この時代の物差しは明確だった。文章の格調、私小説的な真実味、美的節度。それが「文学」の条件であり、風俗的な新しさや話題性はむしろ減点対象だった。選考委員は、文学の門を守る番人として振る舞っていた。
1976年の村上龍『限りなく透明に近いブルー』の受賞でも、同じ構図が繰り返される。ドラッグと乱交の日々を描いた作品への拒否反応と、その身体感覚の新しさへの評価。物差しは揺れながらも、まだ「格調」の側にあった。
反転のポイントはどこにあったか
物差しの反転は、一度に起きたわけではない。いくつかの節目がある。
2015年、又吉直樹『火花』。芸人による受賞は、「文壇の外」から来た書き手と話題性を、選考が正面から受け入れた瞬間だった。かつてなら疑いの対象だった「話題性」が、障害でなくなった。
2016年、村田沙耶香『コンビニ人間』。「普通」の規範に適応できない人間と労働の関係を描いたこの作品への評価は、「社会をどう批評しているか」が物差しの中心に入ってきたことを示した。
2023年、市川沙央『ハンチバック』。重度障害の当事者による、読書のバリアを突きつける作品。「何が書かれているか」だけでなく「誰がどこから書いているか」——当事者性が、評価の言葉として堂々と使われるようになった。
2024年、九段理江『東京都同情塔』。作者が生成AIの使用を公言しても、受賞は揺るがなかった。半世紀前なら「文学への冒涜」と一蹴されたはずの手法が、時代を捉える試みとして評価された。
「文学的」が減点になる時代
第175回の下馬評で、私が最も象徴的だと思った一言がある。候補作『悪い血』に対するある批評家の予想評だ。よく書けているが、血に穢れを象徴させる手つきが「いかにも文学的」で選考では嫌われそうだという趣旨だった。
立ち止まってほしい。「文学的であること」が、文学賞で不利に働くと予想される時代なのだ。70年前、佐藤春夫が『太陽の季節』を「文学的でない」と退けたのと、物差しが完全に反転している。
では今、加点されるのは何か。第175回の候補5作を見れば分かる。AI失業『ゾンビ回収婦』、職場のルールと不眠『アンチ・グッドモーニング』、会社で無為に生きた男の死『ソリティアおじさんがいた頃』選ばれて土俵に上がる時点で、すでに「今という時代を捕まえているか」が問われている。
報道によれば今回の芥川賞は僅差の選考だったという。その僅差を制したのが、候補作の中で最も直接的に「AI時代の労働」を撃った『ゾンビ回収婦』だったことは、現在の物差しの位置を正確に示している。

賞は批評の自画像である
70年前の選考委員は、文学の格調を守る番人だった。新しさは疑い、様式の完成度で測った。しかし、今の選考委員は、時代の探知機であろうとしている。「文学らしさ」への安住をむしろ疑い、アクチュアリティで測る。
どちらが正しいという話ではない。重要なのは、芥川賞の受賞作リストとは「その時代の批評家が、文学に何を求めたかの記録」だということだ。作品史として読むより、批評基準の変遷史として読むほうが、このリストはずっと雄弁になる。
物差しは、これからも動く。生成AIが誰でも「文学的な文章」を出力できるようになった今、「文学的であること」の価値が下落するのは必然だったのかもしれない。次に選考委員が探し始める価値は何か。第176回の候補作リストが出たとき、そこにヒントが書いてあるはずだ。

