刑法総論のコペルニクス的転回〜鈴木茂嗣説における有責性についての諸要素とそれらを相互に関連づけることの重要性〜
久しぶりに鈴木茂嗣先生の刑法(総論)理論の話をしようと思います。
「刑法総論のコペルニクス的転回を目指す」とテキストの帯にも書かれているように、かなりアグレッシブな刑法学説となっています。
しかし、読み進めていくと、この斬新な犯罪論体系が通説に対する正当なカウンターパンチになっているように思えてきます。
犯罪論体系における鈴木説のざっとした説明は、以下の記事に書いていますので、ぜひご覧ください。
先ず始めに以下を確認します。
通説的な犯罪論体系といえば、
①構成要件該当性
②違法性
③責任
という内容・順序になっています。
したがって、通説的な「犯罪」の定義は、
「構成要件に該当する、違法で有責な行為」ということになります。
ここで、鈴木説による犯罪論体系をみてみると、以下のようになっています。
すなわち、
①違法性
②有責性
③当罰性
④犯罪類型性
という流れで検討していくことになります。
したがって、鈴木説にいう「犯罪」(実体要件論の中の実体要件評価論)の定義は、「規範的に違法・有責であって、かつ当罰的で犯罪類型に該当する行為」ということになります。
これを、各犯罪評価を根拠づける事実(犯罪事実)の面からみると(実体要件論の中の実体要件事実論からみると)、
「違法性・有責性・当罰性・犯罪類型性の各評価が妥当する事実的性質を備えた行為」ということになります。
そして、後者の実体要件事実論を認定論的(訴訟法的)に再構成した形での「犯罪」の定義は、「構成要件に該当しかつ阻却事由の存しない行為」ということになります。
(ここら辺は、冒頭に置いておいたリンク先の記事で概略ですが記しておりますので、よろしければご参照ください。)
つまりは、犯罪成立のための実体的要件に「構成要件」を据えることを放棄し、「構成要件」は実体的要件について事実認定していく作業である刑事訴訟法上の認定論的要件であると考えます。すなわち、犯罪の実体法上の成立要件と、その訴訟法上の認定という作業を明確に分離し、構成要件は後者の認定論的要件だと考えるのです。
さて今回、鈴木説について考えていく点は、「有責性」についての構造です。
通説的な見解では、責任段階で問題になる要素といえば、
①(責任)故意・過失
②違法性の意識(の可能性)
③責任能力
④期待可能性
というものであると考えられています。
しかし、鈴木説は、これら全てを「期待可能性(広義)の問題」として期待可能性の中の要素として位置付けるのです。
規範的責任論を前提として、その中心をなす(広義の)期待可能性に各要素を位置付け、認定論的に一つひとつ検討して、その存否により、有責性を充す場合と責任阻却になる場合とを判断していきます。
では有責性を構成する要素についてみていきましょう。
鈴木説によれば、期待可能性(広義)を構成する要素は、
①自己の行為を結果惹起行為として「認識」するとともに、その認識に基づいて②当該結果惹起行為の違法性を「弁識」し、その弁識に従って③結果回避行為を「決意」する可能性が存在しなければならない。さらには、④決意された結果回避行為をみずから現実に「遂行」しうる可能性も問題となりえよう。このようにして、有責性が認められるためには、①「予見可能性」、②「弁識可能性」、③「決意可能性」、④「遂行可能性」の四つの可能性が存在しなくてはならない。すなわち、行為の危険性を予見し、その予見に基づいて行為の違法性を弁識し、これを遂行するという一連の過程におけるそれぞれの可能性(主観的可能性)が、規範的責任を問うための必要条件である。①②は、結果惹起行為との関連での可能性であり、③④は、結果回避行為との関連での可能性である。
有責性について、上記のように構成していきます。
これを、通説的な学説に対応させると、以下のようになります。
すなわち、
①「予見可能性」は、故意・過失の問題に対応します。
②「弁識可能性」と③「決意可能性」の能力面は、従来の議論においては、それが「精神の障害」によるものである場合には、「責任(無)能力」の問題に対応します。また、それが「精神の障害」によるものでない場合には、②と③の能力面ならびに②の状況面は、「違法性の意識(の可能性)」(狭義)問題として、従来の議論では捉えられていました。そして③の状況面は、従来では、「期待可能性(狭義)」の問題として議論されていたところに対応します。
更に、④「遂行可能性」は、過失犯における「主観的回避可能性」の議論に対応する要件となっています。
このことを、一連の言葉で表現すると、以下のようになります。
行為の危険性を予見し、その予見に基づいて行為の違法性を弁識し、その弁識に基づいて反対動機を形成して当該違法行為を回避する決意をし、これを遂行するという一連の過程におけるそれぞれの可能性(主観的可能性)が、規範的責任を問うための必要条件である。①②は、結果惹起行為との関連での可能性であり、③④は、結果回避行為との関連での可能性である。
このように構成し直された有責性における諸要素ですが、これらの要素を個別バラバラに検討して、当該要素を充しているか否かを確認するだけでは足りないとの旨を、鈴木説は強調しています。
これらの要素は、責任非難を基礎づける要素として、回避可能性という観点から、相互に関連させて検討していかなければならないものであるということが、重要なポイントです。
従来の議論では、責任における各要素を検討して、ひとつでも要件を充たさないものがあれば、その時点で責任阻却になるという、当然といえば当然のことなのですが、ともすれば各要素がそれぞれ完全に独立しており、その判断も、それぞれ機械的になされるといった状態であるように思えます。
しかし、鈴木説においては、有責性の各要素は、責任非難という観点から相互に関連しており、個別的・独立的な検討ではなく、全ての要素を総合的な考慮のもとに置かなければならないと考えられているのです。この判断姿勢への指摘は、非常に重要であると考えられます。
以上、鈴木説における有責性を構成する諸要素と、それらの諸要素を相互に関連させて検討する必要があるということををみてきました。
鈴木説は、その殆どが独自説になっているので、責任の段階ひとつをみても、通説的見解とはかなり異なっています。
しかし、よくみていけば、非常に合理的であり実際的でもあることがわかります。
今回は刑法総論の有責性(責任)についての鈴木説の見解をみていきましたが、これは、僕が刑法総論の責任という分野に特に関心を有しているから、という理由です。もし今後、鈴木説について書いていくことになれば、最終的には体系的に並べ直すなどして、再構成しようと思っております。
ということで、鈴木説については、今後もみていこうと思っておりますので、その際もどうぞよろしくお願いいたします。
