環境哲学とネイチャーライティング
地誌と民俗に注目し、主に紀行文やエッセイとして表現しています。
その中で意識しているのは「ネイチャーライティング」に寄せること。
旅先での消費活動ではなく、その土地の自然逍遥、気候や生態系についての実感、野生動物との距離感、そして街と自然環境とのシームレスな横断、自然回帰など。
自然を神格化して語るのではなく、専門的な論述をするでもなく、書き手の自然との向き合い方や内省を中心に、「日々の暮らし」や「旅行」など、誰にとっても馴染みあるシチュエーションの中で視野を広げ、視線をシフトする動線を意識して書いています。
ネイチャーライティング
自然環境と人間の関係を主題とする文学ジャンルであり、自然史的な情報、自然に対する個人的な応答、自然についての哲学的解釈を組み合わせたノンフィクションを中心とする散文
最近、私がフォローしている方の文章を読んで、自分が少なからず逃げの姿勢になっているなと気づきました。
いえ、気づいてはいたけれど、その事実から目を背けていました。
だから、あらためて自分の立ち位置や視線の先にあるものについて、書き示しておこうと思います。
私が書く理由の一つは「自分の故郷を中心に過剰な開発と自然環境のロスを緩和し、自然本来のシステムと環境を回復したい」という想いから。
ただ単に都市開発と自然環境のロスについて書いたとしても、自分とは違う世界の話だと受け流されたり、そもそも自然環境の回復に興味のない人には届かなかったり。
興味のある人だけで盛り上がっていても、社会は変わりませんからね。
環境を問題視するのではなく
21世紀に入って私が大学に入学し、一番初めの講義で教授が切り出した話は「レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(原題:Silent Spring)は読んだか?」という問いでした。
人工化学物質が自然環境に与える影響、そしてそれが人間社会に健康被害として還ってくることを追及しました。実践的かつ先駆的に環境問題を告発し、人々の環境意識の形成に大きな役割を果たした作品です。
そしてのちに、デボラ・キャドバリーの『メス化する自然』(原題:The Feminization of nature : our future at risk)では、環境中へ放出された際の振る舞いや、生態系や人間に及ぼす被害から総称として「環境ホルモン」と名付けられた人工化学物質について語られました。
つまるところ、野生動物の性転換現象(オス個体の矮小化、オスの生殖器が小さくなりメスのように卵を産むなど)や、人間の乳がんや前立腺がん、生殖器の奇形などの症例が著しく増加したことについて。
ただ、この手の内容は難しそうだとハードルを感じたり、興味が湧かず視界に入れなかったり、そもそも本1冊分の文章を読めないという場合もある様子。
「環境」というワード自体に忌避感を示す人も少なくはないのでしょう。
複雑で漠然としたものの総称でもあり、捉えどころのなさも否めません。
結局のところ、興味や知識の有無による認識の乖離が、事態の回復や世の中の変化に歯止めをかけてしまう面が大きいように感じてきました。
一方で、立場の違いや利害関係による対立にもなり得ます。
最も厄介なのは、ある論調を過剰に盲信する自覚なき人、あるいは集団。
それが奇抜だったりすると、面白がって仲間入りする人もいます。
いずれも「にわか」であることが少なくなく、自然環境の変化を懸念し、地道に活動を続けてきた人たちを疲弊させる存在になることもあります。
だからこそ、興味のある人だけが集まり盛り上がるのではなく、社会全体から本質的な部分に目を向けてもらい、ベクトルを調整する必要がある。
そのためにはどういった方法があるだろう。
そう考えて思い至ったのが、誰にとっても身近な話題である「日々の暮らし」や「旅行」の視野の中に話題を埋め込む、という手段でした。

地理的に異なる領域の境界を見に行く
といっても、地誌や民俗の話題を利用しようと考えたのではなく、元々私が興味を持って探求していることです。
地理や地質、植生、生態系についてなど。
本当は趣味として「へぇ〜面白い」で済ませたい。
けれど、自然物という題材と共に、私自身が書いていて満足できる話題であり、探究にのめり込むことができるテーマでもあります。
アメリカン・ネイチャーライティングでは、自然への賞賛、個人的瞑想、自然保護の訴えの他に、自然本来の姿を求めて作者がおもむくという特徴がある。おもむく先は森林、海辺、北極、砂漠、峡谷などであり、地理的に異なる領域が接する境界領域にあたるという共通点がある。作者は境界において、動植物や岩、水、風、光、雲なども含めたコミュニティの感覚を得たり考察し、出発の地へ戻るという構成をとる。
そこにあるのは海から河口へ、そして川を遡上して原流域を目指すような感覚です。街と辺境のシームレスな横断も然り。
私は山歩きもしますが、山頂を踏むことを目的とした「登山」には特に拘っていません。むしろ谷が好きだったり、道中できる限り道草したかったり。まあグループ登山で赴く時は、そう我が儘なこともできませんけれど。
日本には元来、自然界における万物に人間性を充てて眺める姿勢『八百万の神』的な思想もあります。しかしエンターテイメント産業が発達した近年は、生身の人間の精神性というよりは、ファンタジーの題材としての視線が強まっているように感じます。
そういう意味では、アメリカの超越主義(客観的な経験論よりも、主観的な直観を強調する)の作家ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『ウォールデン 森の生活』(原題 "Walden; or, LIFE IN THE WOODS.")のような表現で、生身の人間の実感を描きたいと考えます。
彼にあってはウォールデンの湖水や森が有情であるばかりでなく、そこに住むいろいろな小動物や植物も人間のさまざまな性格と運命とを反映する。それは人間の本質を、いわば芸術的デフォルマシオンによって一層立体的に一層自由に、時には怪奇とおもわれるまで生き生きと表現する。「彼は人事に向けて自然という鏡を掲げた」と評される所以である。
WALDEN, OR LIFE IN THE WOODS, Henry David Thoreau

語られる「エコ」の本質
けれども「身近なこと」から外れてしまうと、結局のところ「別の世界のおはなし」になってしまいます。
自然保護を掲げるNGO, NPOなども、街から離れた場所に関心を持つ人を集められても、街での暮らしの中で自然環境に及ぼす影響についてダイレクトに関連づけるのは難しいのが現状ではないでしょうか。
あるいは世界遺産登録のような状況を作るにも限界があります。
だから如何にして、日常と自然環境とを紐付けてもらうかが肝心。
それはエコな商品やサービスの開発、それらを買って応援、経済回せ、といった風潮とは全くの別物。それらは本質的にはエコロジーではなく、単なるエコノミー、そしてエゴでしかないケースも少なくはないでしょうから。
技術やサービス、制度も大切ですが、及ばない、本質的でない場合もあり、そればかりに依存すると、むしろ増税するための良い口実に繋がるだけという側面もあります。
最も重要なのは結局のところ、人の心の在り方、暮らし方。
だからこそ、地誌や民俗といった「暮らしと環境」が密接に結びつくところに注目しています。

ただし、それは不都合なこと
ただ「環境」というキーワードを掲げて何かを語る時に配慮すべきは、その殆どが「誰かにとって都合の悪いこと」であるという事実です。
それは前述の二つの著作も然り、社会に流布するそれまでの流れ、主に経済活動や人の営みを遮る形で言及するジャーナリズムに他ならないから。
名誉毀損にならないよう配慮することは大前提。
けれど、言い回しや論調を工夫し抽象化したところで、「環境」に関する話題は、本質的には人の行為に対する指摘でしかありません。
分かりやすくはアル・ゴアの『不都合な真実』という言葉の通り。
この現実に向き合いますか?
目を背けますか?
まさに、これなんです。
ジャーナリズムって、何も戦場へ行かずとも危険と隣り合わせですから。
ネット社会である今は特に。
取り上げた書籍のように科学的根拠をベースに論述するためのデータが出揃うまでには時間がかかります。けれど世の中の変化が一層加速する現代では、そのステップでは到底追いつかない。
それに市井が抱える違和感や疑問ベースで、ボトムアップ型の研究データを出力する流れがあっても良いわけです。実現しないでしょうけれど。
違和感や疑問は気軽に口にできた方がいい。
違和感や疑問をちゃんと感じることのできる人が増えた方がいい。
けれど、なぜか話題にならないこと、紐づかないことも少なくありません。それはもしかすると触れない方が良い部分なのかもしれないのです。
そうやって触れられない間に、誰かの都合の良いように事が運ぶ。
人間はそんな営みをずっと続けてきて、これからも続けていくのだろう。
チャンチャン。
と、したくないから書くわけです。
森の奥の洞窟で
センシティブな領域に触れるかもしれないことを前提として書く場合、いわゆる『闇の魔術に対する防衛術』を身につける必要があります。
闇の魔術に対する防衛術
J・K・ローリングの『ハリーポッター』シリーズに登場する、ホグワーツ魔法魔術学校の科目の一つ。
Defense Against the Dark Arts
(略して「D.A.D.A」と表記されることもある)
と言っても、それは場所を選ぶ、ことに他ならない。
SNSに思ったことを書く。
これはとても手軽で人目に付きやすいが、同時に目も付けられやすい。
それが誰かにとって都合の悪い内容であれば、たとえこちらに何の悪意のない純朴な疑問であっても。フォローや「いいね」だって、望んでいる興味関心でないこともあるのです。
そういう意味では初めからある程度守りを固めた場所で書いた方が良い。
それが私にとってはメンバーシップに相当します。
同時に、真っ当に興味関心を持つ人を守りながら、双方に違和感や疑問を交換できる場所にもなり得るでしょう。
地誌と民俗の視点を交えて「今と未来の暮らし」を哲学するメンバーシップ
The Quest for Speculative Future Prototyping
キーワードは「ほど良いまち」「流域」「環境」
過去〜現在についてのフィールドワーク
現代〜近未来社会への思索
そしてふと感じる違和感や疑問も話題にします
【環境】
人間社会と地球環境との相互作用に目を向けます
自然環境だけでなく、都市環境、住環境、物質やエネルギーなども
【地誌】
その土地の自然環境に基づいて形成される人の暮らしや産業
野生動物との共生のカタチ
【民俗】
代々受け継がれてきた風習や信仰だけでなく、現代民俗にも注目します
【科学技術】
社会基盤に大きな変化をもたらす科学技術やサービスについても時々
【研究者の雑談】
オマケです(ネタが尽きたら終了)
得られた収益はフィールドワークや生態園の整備に使わせていただきます。
(※)プラン名を変更しました。
研究者の雑談
現在、メンバーシップ特典の内容を整理中です。
時々思いつきで綴る『研究者の雑談』もそっと置いておこうかなと。
全プラン共通のオマケ特典です。
チョコレート菓子を買ったら付いてくるシールみたいなもの。
その方が「ここでしか読めないもの」である気がします。
ただし、ここでの「研究者」とは必ずしも肩書き研究者に限りません。
まあ、これは追い追い。
*
メンバーシップ『ある里のFIELD NOTE』は全プラン初月無料です。
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