里山の民の感性、移住する都会人の視点
子供の頃から当たり前に里山に馴染みながら育った者と都会で育った者との間には、決して埋めることのできない大きな隔たりがある。たとえ都会から田舎へ移り住んで半世紀という人であっても、里の人に成りきれずに「田舎好きの都会人」を貫く人は少なくはない。
根本的な在り方が全く異なるのだから、そういうものだ
そのことが最近より一層見えてくるようになった。
「三つ子の魂百まで」は真理なのだ、と。
実際のところ「環境問題」は「人間関係の問題」ではないか。
そんな風に考えたことについて、ここに書き残しておく。
あるSF小説に似た構造を見た
以前、街の公共図書館で借りたあるSF小説があまりに詩的でアーティスティックだった。あまりにので感動したので、在庫を探し出して自分の手元にも置くことにした。
地球の資源がついに尽き果て、月で発見された新たな資源を求めて多くの労働者階級が月へ移住した。そんな世界、あるいは時代が舞台で、月世界生まれの少年少女と地球から旅行で月にやって来た少女が交錯する物語だ。ストーリーとは関係ないけれど、地球と月をめぐる登場人物の立場は、先に書いたような移住者とその周辺の関係性と似ている気がする。
母親は地球人、息子は月世界少年。
月へ移住した地球人は月世界人間にはならない。
大阪からやってきた両親と、生駒の里山で生まれ育った自分。
私は決して大阪人にはなれない。
海外で生まれ育てば、血筋が何人でも日本の文化には驚嘆するだろう。
同じく日本から海外へ移住した者は日本人としての誇りを持って生きる。
そして日本に生まれ、日本のコミュニティの中で育つと、どのような肌の色をしていたって日本人らしく感じるものだ。
遺伝子学的にでさえ重要なのは、実は系統ではなく幼少期に置かれた環境ではないか。そんな風にすら感じられる。
環境から得た情報が遺伝子に刻まれる。
ここに書くのはそういった類の話だ。
自らの足元を見ずに、周囲に目を向ける人たち
市制50周年を迎えたこの街は、実に様々な系譜の人たちが入り乱れている。(行政区分では「町」だが、年配の方は「村」と呼ぶ)
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