永遠の春 どこまでも続く坂道 (上)第八話
第八話 崩れゆく柱と、見えない十字架
八月。新曲『扉を開いて』がリリースされ、街角のラジカセや大型ビジョンから彼女の透き通るような歌声が溢れ出していた。
スポーツドリンクの爽やかなCM映像と共に、BARDの存在は1996年の夏を象徴する圧倒的な光となっていた。
しかし、その眩しすぎる光の裏側で、ジーリングという帝国は静かに、だが確実に軋みを上げ始めていた。
ある日の午後、六本木のオフィスの給湯室。僕は紙コップにコーヒーを注ぎながら、A&R担当の加藤さんと、営業の佐々木さんが声を潜めて交わす会話を耳にしていた。
「……やっぱり彼はまだ、喉が戻らないらしいな」
「マジかよ。去年のライブからずっとだろ? この前の三月に出した新曲も、結局は繋ぎのリリースだったしな。公にはまだ伏せられてるが、実質的な活動停止状態じゃねえか」
九十年代前半のジーリングブームを牽引した男臭いロックバンド。そのフロントマンが「心因性発声障害」という残酷な病に襲われ、声を失っているという事実は、社内のごく一部の人間だけが知る極秘事項だった。
「もう一つのユニットの脱退騒動の方はどうなんだよ。三月にベスト盤を出したばっかだろ?」
「それもまずいんだよなあ。ボーカルとギタリストが、方向性と権利のことで黒田さんと完全に平行線だ。もう修復不可能らしいぜ。たぶん来月あたり、正式に脱退の発表が出るんじゃないか……」
僕は静かに給湯室を後にした。
ミリオンセラーを叩き出してきた巨大な柱が、次々と音を立てて崩れようとしている。
小室ファミリーやエイベックスが猛追する中、黒田プロデューサーのプレッシャーと期待は、必然的に残された最大の柱――BARD・浅井清香という一人の女性の細い肩に、重く、重くのしかかっていた。
その日の夕方。黒田氏からの特命である代官山の権利関係の調査を終え、デスクで作業をしていた僕のPHSが、短い電子音を鳴らした。
「冴木。ちょっと頼みがあるんだが」
地下駐車場へ降りると、北尾さんが頭を抱えてしゃがみ込んでいた。傍らには、エンジンのかかった目立たない社用車のバンが停まっている。
「……冴木か。お前、少し車を出してくれ」
「北尾さん? どうしたんですか」
「浅井さんが、ブースの中で少し過呼吸気味になっちまってな……。納得いかないって、もう何十回も同じフレーズを歌い続けて、さっきついに酸欠で倒れかけた。それでも『まだ歌う』ってきかないんだ」
北尾さんは重いため息をつき、ひどく疲労した顔でぽつりと呟いた。
「……昔の海外のロックスターたちが、名曲を生み出すために酒やドラッグ、破滅的な恋愛といった『劇薬』で自分を壊していたりするだろ。彼女の場合は、自分を極限の孤独な密室に追い込んで、他に何も見えなくなる程に集中するんだ。体を壊してでも。誰も止められない……」
北尾さんは、バンの助手席を顎でしゃくった。
「新しい作詞ノートが欲しいって言ってたから、それを口実に無理やりスタジオから出した。今は一応、落ち着いてるから、少し外の空気を吸わせてやってくれ」
「わかりました。」
僕は車のキーを受け取り、運転席に乗り込んだ。後部座席には機材関係が山積みになっている。
「よろしくお願いします、タローくん」
助手席の彼女が、黒いサングラスの奥から短く声をかけた。その呼び方にまだ慣れない僕は、「はい」とだけ短く返し、エンジンをかけた。
車は夕暮れの青山通りを走っていた。カーオーディオからは何も流していない。助手席の彼女は、窓の外の流れる景色を睨みつけながら、手元のノートにペンを走らせては二重線で消し、ブツブツと呪文のように言葉の断片を呟き続けていた。僕は彼女の思考のノイズにならないよう、ひたすらに滑らかなアクセルワークだけを心がけた。
表参道の裏手にある、輸入文具を扱う小さな店。目立たないように店内に入った彼女は、先ほどまでの疲労感を微塵も見せず、異様なほどの集中力で分厚いモレスキンのノートと、何本もの万年筆の試し書きを繰り返していた。紙とペン先の摩擦音だけが、彼女のすべてだった。僕はその少し後ろに立ち、周囲の客の視線を物理的に遮るように、ただの壁(ガード)として徹した。
「……これにします。ありがとう、タローくん」
会計を済ませ、紙袋を抱えて車に戻った彼女は、ようやく少しだけ人間の顔に戻っていた。
すっかり日が落ちた東京の街。沈黙が降りた車内で、不意に彼女がぽつりと呟いた。
「……他のバンドで起きていること、知ってますよ」
予期せぬ言葉に、僕は短く息を呑んで助手席を見た。彼女は窓の外のネオンを見つめたまま、買ってきたばかりのノートの表紙を強く握りしめていた。
「会社の中が、なんだかすごくピリピリしてて。みんな、苦しそう」
喉の奥に、言葉が重くつかえた。隔離されたスタジオにいても、彼女はジーリングという巨大な生態系の軋みを肌で感じ取っていたのだ。
「私が、BARDを止めちゃいけないんですよね。私が歌い続けないと、みんなの居場所がなくなってしまう気がするんです。でも、時々……言葉が、逃げていくの」
トップアーティストとしての責任。絶対に倒れることが許されないという、目に見えない巨大な十字架。その重さは「天才の業」であり、誰にも代われないのだ。
赤信号で車が停まる。僕はハンドルを見つめたまま、静かに口を開いた。
「……浅井さん。僕には、あなたの詞を書くことはできません。」
「え……?」
「でも、あなたが言葉を探すための『環境』を守ることはできます。何かが必要なら、いつでも車を出します。スタジオで煩わしいトラブルがあれば、僕が全部巻き取って処理します。あなたが『浅井清香』でいるための実務は、僕が全部引き受けます」
ウインカーの無機質な音だけが響く中、彼女がゆっくりとこちらを向いた。
「だから……あなたは、あなたの戦いだけをしてください」
三十年越しの、僕の魂からの本音だった。青信号に変わり、車が静かに発進する。横目でチラリと見ると、彼女は泣きもしなかったし、甘えるように微笑みもしなかった。ただ、買ってきたばかりの真新しいノートを開き、暗い車内で再び、静かにペンを走らせ始めた。
「……ありがとう、タローくん」
それは、見えない十字架を背負い続ける「表現者」が、自らの戦いに集中するための『盾』として、僕を静かに認めてくれたような、凛とした響きだった。助手席から聞こえる、紙とペン先が擦れる乾いた音。その孤独で気高い音が決して途切れないように、僕は彼女の静かな呼吸に合わせ、ただ穏やかにハンドルを握り続けた。
次回へ続く
※本作はフィクションです。実在の人物、団体、事件等には一切関係ありません。物語の性質上、モデルとなった地名や施設が登場しますが、実在の場所等へのご迷惑となる行為はお控えください。
【作者より】連載中!
90年代の音楽、アーティスト、ZARD坂井泉水氏に敬意を表します。
