奥千本(おくのせんぼん)の山野草
「一人静」という、山野草がある。
「二人静」という、山野草もある。
吉野山で「静」と言えば、静御前を瞬時に思い出す。
「一人静」も「二人静」も、センリョウ科チャラン属の多年草だ。
この花の違いは、「一人静」が白い花をこんもりと一列だけ咲かせるのに対し、「二人静」は二筋並び咲くことである。
「一人静」という名前は、静御前の美しく舞う姿を表しているとしてつけられた。
「二人静」は、能楽「二人静」に名前の由来がある。
静御前が源義経氏を想う気持ちから亡霊となり、静御前と亡霊の舞姿を表現しているようだとして、この名前になったという。
しかし、私は、源義経氏と静御前が寄り添うように花を咲かせているから、この名前になったという伝承のほうを信じている。
そして吉野山奥千本(おくのせんぼん)には、一つの言い伝えがある。
現代でも日本で唯一の女人禁制である山上ヶ岳。
そこには「女人結界の碑」や「女人結界門」が存在している。
いにしえから、役行者が開いた修験道の聖地であり、平安時代末期には既にこの信仰は根付いていた。
だから、源義経氏と静御前は吉野山に逃げ、隠れ住んでいたものの、いよいよ源頼朝氏に見つかり、山上ヶ岳を越えねばらず、静御前は愛する源義経氏とここで別れたのだった。
だから、女人結界の地までは源義経氏と静御前が寄り添う「二人静」が咲いているが、女人禁制域に入ると「一人静」しか咲かないという。
その言い伝えを胸にしかと抱き、悲しきロマン溢れる「二人静」をできれば見てみたいと思い、私は奥千本(おくのせんぼん)に出掛けたのだった。
奥千本(おくのせんぼん)の見所は「金峯神社」・「義経隠れ塔」・「西行庵」・「苔清水(こけしみず)」などあるが、どこも晴れた日中に訪れても薄暗い雰囲気だ。
2004年7月にユネスコの世界文化遺産として「紀伊山地の霊場と参詣道」に役行者が開いた修験者の奥掛道に入る吉野山から大峰山を経て熊野三山に続く修行場は認定されているが、先にも書いたように女人結界の敷地が存在する。
しかし女人禁制の地域以外なら、いにしえも現代も女性であれど訪れることが叶う。
だが何しろ修行場だ。
決して下千本(しものせんぼん)から上千本(かみのせんぼん)みたいな緩やかな道中ではない。
奥千本(おくのせんぼん)の入口に当たる「金峯神社」より山は、かなり険しい道なき道も存在する。
「義経隠れ塔」は今でも修験者が一晩籠って修行をしている。
山からは法螺貝の音色が聞こえる。
その場所で女人が歩んで行ける一番奥まった場所は「西行庵」ではないかと思う。
私も行った経験者である。
その道のりは片方が崖であり、人一人がやっと歩めるほどの狭い幅しかない。
そうとは知らず、崖道に差し掛かる前の道標に、
「西行庵この先20m、徒歩20分」
とあり、私は、
「道標が間違っているのだわ。この先200mで徒歩20分なのでしょ」
と、内心かなり楽観視して疑わなかった。
だが、崖が見え足元が石で危なく狭い道に落石もある様相が肝を冷やし、甘く考えたことを後悔した。
結局は道標の通り20mに20分、いや、30分かけてしまったのである。
でも、修行の結果、奥千本(おくのせんぼん)までには見られない景色に出会えた。
薄暗い中に西行庵があり、視線を感じて庵(いおり)に目を移せば、人が座っているではないか。
ギョッとしたら、西行法師(ほうし)の像であった。
この凍てつく場所の庵(いおり)で修行なさった西行法師(ほうし)は、最期の時を大阪府河南町にある弘川寺(ひろかわでら)の桜の木の下で眠るように生涯を終えたとされる。
河南町には縁(えにし)がありそちらにも勿論参詣した。
非常に安らかにあの世と繋がれる場所だった。
だからこそ私も西行法師(ほうし)にあやかり、最期は桜の木の下に眠る樹木葬に決めて契約しているのだ。
その西行庵のそばには苔清水が途切れず湧き、山の恵を受けたシダや苔に山野草の楽園となっている。
ただ「二人静」は見つけられなかった。
でもこの地なら「二人静」は密やかに源義経氏と静御前が寄り添う如く咲いていて、二人の魂が花々に宿っていることだろうとロマンを感じ、見られぬからこその二人の永遠の愛を感じたのだった。
静御前は源頼朝氏の家臣に捕まり、鶴岡八幡宮にて北条政子氏から舞を舞うよう強要され、堂々と源義経氏を慕う舞を、白拍子の矜恃にかけて舞ったとされる。
だが、源義経氏と静御前の愛の結晶である子供は、由比ヶ浜に沈められる。
悲恋の後、静御前と源義経氏は最期の時を別々に迎えた。
しかし、「一人静」と「二人静」が今なお咲く吉野山の山頂奥には二人の魂が御座す(おわす)のだろう。
輪廻転生があるのなら、現世でひっそりと結ばれ幸せな時を育くんでいて欲しいと願っている。
