私の人生の証人は、あなただった
【あらすじ】
かつて同じ職場で惹かれ合いながらも、家庭を選び別々の人生を歩んだ美緒と誠。
二人をつなぐのは、年に二度だけ交わされる誕生日の短いメッセージだけだった。
雨の日の出会い、触れない距離の緊張、そして避けられなかった別れ。
会わないまま、互いの人生の節目だけを静かに見届け続ける関係は、恋ではなく、「人生の証人」として残り続ける。
選ばなかった未来と共に生きる、大人の愛の物語。
少し長い物語ですが、雨音を聴きながら、
週末のひとときにゆっくりと。
美緒には、年に二度だけ連絡を取る相手がいる。
それは恋人でもなく、友人でもない。
けれど夫よりも、自分の人生の節目を知っている人だった。
*第一部~雨の日の出会い*
【第1章: 誠の誕生日】
朝、目覚ましが鳴るより先に、雨音が耳に届いた。
カーテンの向こうで、細い糸のような雨が絶え間なく落ちている。
「……雨か」
美緒は、ゆっくりと身体を起こした。
50代に入ってから、朝の関節のこわばりが少しだけ増えた。
けれど、それも日常の一部として受け入れている。
キッチンに立ち、湯を沸かす。
夫はもう出勤していて、家の中は静かだった。
娘も独立し、家に残る気配は少ない。
広くなったリビングは、雨の日になると余計に空虚に感じる。
マグカップにコーヒーを注ぎながら、ふとスマートフォンに目がいった。
画面は伏せたまま。
また、この季節が近づいてきた。
誠の誕生日が近づくと、いまだに心がそわそわする。
「今日は……50歳、か」
声に出すと、胸の奥に微かな熱がせり上がってきた。
誠の年齢を数えること自体、もうやめたはずなのに。
誕生日だけは、どうしても忘れられない。
コーヒーを持って窓際に立つ。
雨粒がガラスを伝い、ゆっくりと形を変えて落ちていく。
その軌跡を目で追いながら、美緒は思う。
誠の誕生日に雨が降るのは、何年ぶりだろう。
出勤の準備をしながら、美緒は鏡の前に立った。
髪を整え、薄く化粧をする。誰に見せるわけでもない。
けれど、誠の誕生日だけは、少しだけ丁寧に肌を整えてしまう自分がいる。
「……我ながら、往生際が悪いわね」
鏡の中の自分に、小さく苦笑いを浮かべる。誠に会うわけでもない。
顔を見ることは、もう一生ないのに、この日だけは、あの頃の自分を少しだけ取り戻したくなるのだ。
それは若さへの執着というより、ささやかな儀式のようなものだった。
職場に向かうため車のエンジンをかけた。
スマートフォンが視界の端に入る。
触れないようにしていたのに、指先が勝手に伸びる。
誕生日だけは、今も変わらず元気でいるのかを確かめたくなる。
それは愛情ではなく、執着でもなく、もっと曖昧で、もっと静かで、もっと深い何か。
美緒は、深く息を吸った。
「……送るだけ。いつも通り」
そう言い聞かせて、スマートフォンを手に取る。
「誕生日おめでとう」
スタンプをひとつ。
送信ボタンを押した瞬間、指先から体温が引いていくような感覚に襲われた。
毎年のことなのに、慣れることはない。そして、少し間を置いて、
「50代へようこそ(笑)」
画面を伏せ、助手席に置き、車を走らせた。
見ないようにしようと決めたのに、
信号が変わるたび、視線がそちらへ吸い寄せられる。
雨は、まだ降り続いていた。
ワイパーが一定のリズムで雨を払う。
その音が、20年前の雨音と重なる。
誠の声、車内の温度、あのときの沈黙。
思い出したくないのに、雨の日はどうしても思い出してしまう。
まるで、過去と現在を静かに繋ぎとめるように。
【第2章: 20年前の出会い】
20年前、美緒と誠が出会った日も、たしかこんな雨だった。
すべては、そこから始まったのだ。
11月の雨は、肌に触れるとすぐ冷たさを残した。
ワイパーが動くたび、視界が滲み、雨音だけが車内に残る。
オフィスのドアを開けると、空気がいつもより重かった。
コーヒーの匂い、濡れたコートの湿り気、コピー機の低い音。
「今日から新しい方が入ります」
朝礼の一言で、背筋が伸びる。
「誠です。よろしくお願いします」
低く、よく通る声だった。
顔を上げた瞬間、視線がぶつかった気がした。
背が高い。そして近い。
短く刈った髪の隙間から、美緒の日常にはない匂いがした。
左手の薬指が、蛍光灯の光を反射する。
指輪。
なぜか、そこだけが妙に目に残った。
「美緒です。よろしくお願いします」
自分の声が、少し遅れて耳に届く。
美緒の指にも、同じ場所に指輪がある。
でも誠のとは違って、光を吸い込んでいるように鈍かった。
それからも、ほとんど話すことはなかった。
美緒はパソコンに向かい、 キーボードを叩く指先だけが、やけに忙しい。
誠は電話に出るたび、声が変わった。
「ありがとうございます」
「はい、その件ですね。ではまた伺います」
笑い声が混じる。
その声を聞くたびに、胸の深いところが震えるような、落ち着かない心地になった。でも理由は、分からない。
昼休み、給湯室でコーヒーを淹れていると、背後で足音がした。
「お疲れさまです」
誠の声だった。振り返ると、彼は少しだけ照れたように笑っていた。
その笑顔が、雨の日の光のように柔らかかった。
「……お疲れさまです」
美緒は、カップを持つ手を少しだけ強く握った。
誠の笑顔に反応した自分を、悟られたくなかった。
ほんの数秒の会話。
それだけのことなのに、午後の仕事中、美緒は何度もその笑顔を思い出していた。
誠が職場に来てから、1ヶ月が過ぎた。
雨の匂いが薄れ、空気が冷たくなる頃には、美緒の中のざわつきは、日常の一部になっていた。
誠は、必要以上に距離を詰めてこない。
けれど、必要以上に離れもしなかった。
昼休み、給湯室でコーヒーを淹れていると、誠が入ってくる気配がする。
振り返らなくても分かるようになっていた。
「お疲れさまです」
その声は、いつも少しだけ柔らかい。他の誰に向ける声とも違う。
他の人には言わない弱みを美緒にだけ見せる。
美緒は、その違いに気づかないふりをした。
【第3章: 忘年会と始まりの予感】
忘年会の二次会。
ラウンジの照明は暗く、グラスの縁だけが白く光っていた。
初めて口にするお酒の、甘さと苦さ。
喉を通るたび、体の奥がゆるむ。
「これ、美味しいですよ」
差し出されたグラス。
誠が口をつけた場所を、避けるべきか、なぞるべきか。
迷いは一瞬で、喉を通るアルコールの熱さが、思考を麻痺させていく。
「飲めるんですね」
隣で、低い振動が鼓膜を叩いた。
喧騒の中、そこだけが別の密度を持っているような声だった。
「まあね」
美緒はグラスを傾けたまま、年上らしい余裕を顔に乗せて、ふっと笑ってみせた。
仕事の話、誰かの失敗談、冬の休暇の予定。
混ざり合う笑い声と、氷が溶けてグラスにぶつかる乾いた音。
熱を帯びた空気の中で、私たちはただの同僚として、正しく賑やかな時間を消費していた。
「お疲れ様でした」
「良いお年を」
閉まるドアの音を合図に、夜の冷気がコートの隙間に滑り込んでくる。
数分前までの熱狂が、嘘のように白く凍った。
タクシーの革の座席は、ひんやりと硬い。
窓の外、雨上がりのアスファルトが街灯を反射して、黒い河のように流れていく。
外を見つめながら、ふいに、耳の奥で音が跳ねた。
「飲めるんですね」
隣で、低い振動が鼓膜を叩いた。
何を話したかは、もう霧の向こうだった。
けれど、あの声の質感だけが、消えない。
名前を呼ぶとき、語尾がわずかに下がる癖。
肺の奥まで届くような、深く、静かな響き。
暗い車内、膝の上に置いた左手に、街灯の光が差し込む。
美緒の指輪は、やはり光を吸い込んで、沈黙を守ったままだ。
まぶたの裏に、彼のうなじと、清潔な匂いがよぎった。
ただの忘年会。ただの、声。
それなのに、タクシーが角を曲がるたび美緒の体温だけが、少しずつ、夜に置いていかれたようだった。
誠からの誘いは、季節が巡るたびに、少しずつ増えていった。
「帰り、少しだけ話さない?」
「今度、ランチでもどうですか」
「無理ならいいんですけど」
どれも、逃げ道を残した言い方だった。
強引さは一度もなかった。
美緒は、その優しさに救われながら、同時に苦しんだ。
断る理由はいくらでもあった。
家のこと、仕事のこと、体調のこと。嘘ではない。
けれど、本当の理由は別にあった。
会ってしまったら、感情が砂の城のように崩れてしまう。
その予感が、いつも喉の奥に冷たい棘のように引っかかっていた。
【第4章: 誕生日の約束】
美緒の誕生日。
朝から落ち着かなかった。
誠が知っているはずがない。
そう思いながらも、つい画面を何度も開いてしまう。
昼過ぎ、短い通知が届いた。
「誕生日、おめでとうございます」
ただそれだけ。
それだけなのに、視界の端がじわりと滲み、輪郭を失っていく。
その日の夕方、給湯室でコーヒーカップを洗っていると、誠が言った。
「ショッピングモールで、軽くパスタでもどうですか。
職場の人とランチなら、問題ないでしょ?」
その言い方が、ずるいほど絶妙だった。
特別な誘いではなく、ただの同僚のランチという形を保っている。
美緒は、ほんの一瞬だけ迷った。
その一瞬が、それまでの揺れをすべて押し出した。
「……いいよ」
自分の声が、少しだけ震えていた。
ランチの約束をした日は有給をとった。
朝、美緒は鏡の前で、いつもより丁寧に髪を整えた。
服を選ぶ手が、何度も止まる。
「…どこへいこうとしているの」
鏡の中の自分に問いかけても、答えは返ってこない。
良妻賢母という役割から、ほんの数センチだけ足が浮いているような、危うい浮遊感。罪悪感よりも、自分でも制御できない心の震えに、ただ戸惑うしかなかった。
ショッピングモールの駐車場。
別々に停めた車。
誠が歩いてくる姿を見た瞬間、
美緒の心臓は、思っていたより大きく跳ねた。
「来てくれて、ありがとうございます」
誠は、照れながら口元を緩めた。
雨は降っていなかった。
けれど、美緒の胸の奥では、
静かに、確かに、何かが降り始めていた。
フードコートのざわめきの中、目の前に置かれた冷製パスタ。
パスタは温かいものだと、ずっと思っていた。
こんなことも、あるんだ。
そんなどうでもいい発見が、なぜか、胸に残った。
緊張のせいで、味は、ほとんど覚えていない。
ただ、ひんやりとした喉越しだけが記憶に残った。
食後は別行動。
誠は映画館へ、美緒はショップを巡った。
一緒に歩くことは、できなかった。
時間を合わせて、再び駐車場へ。
帰るには、まだ早い。
二人とも、同じことを考えているのが分かった。
「車の中で、少し話す?」
その一言で、世界が静かに傾いた。
誠の車の助手席。
初めて座る、その場所。
ドアが閉まる音が、思ったより大きく響いた。
二人きり。逃げ場のない空間。エンジンは、かからない。
息遣いが近く、沈黙が、張りつめる。
オフィスで初めて会った時は、彼の髪から自分にはない違う匂いがしたが、この助手席は、自分の匂いと溶け込んでいるような驚くほど無臭だった。
そのことに、美緒は密かに驚いていた。
誠は、こちらを見ないが、見られている気がする。
見えない視線が美緒の心を突き刺す。
美緒は、前を向いたまま、シートに置いた手を、ぎゅっと握った。
触れていない。何もしていない。
それなのに身体の奥が、はっきりと反応している。
大人の恋だと、思った。
だからこそ、この先に進めば、光の届かない深い場所まで沈み込んでいきそうな、底知れぬ予感に、呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。
車内に流れる名もない緊張。秒針の音だけが、やけに大きい。
誠が、ゆっくりと息を吸った。
その気配だけで、美緒は、ゆっくり目を閉じた。
【第5章: 社員旅行と携帯電話】
社員旅行の朝、集合場所に向かうバスの中は、妙にざわついていた。
普段は落ち着いた同僚たちも、旅行となると少し浮き足立つ。
美緒は窓側の席に座り、外の景色をぼんやりと眺めていた。
誠は、少し遅れて乗り込んできた。
目が合わないようにしているのに、
彼が乗ってきた瞬間の空気の変化だけで分かるようになっていた。
誠は、美緒の横を通り過ぎ、数列後ろの席に座った。
その距離は、近すぎず、遠すぎず。
けれど、美緒の背中には、誠の存在がはっきりと感じられていた。
ロープウェイ乗り場に着くと、観光客でごった返していた。
狭いゴンドラに押し込まれ、美緒は自然と誠のすぐ前に立つ形になった。
揺れるたび、背中に誠の体温が触れる。
誠は、美緒のすぐ後ろの手すりに腕を伸ばし、
他の乗客との間に、わずかな空間を作った。
抱き寄せるわけでもない。触れるわけでもない。
ただ、美緒が押しつぶされないように、そっと守るような距離。
「……狭いですね」
耳元で落とされた声は、ロープウェイの揺れよりも、美緒の呼吸を乱した。
見上げると、誠は窓の外の霧を見ていた。
動けば、この距離は終わる。
一歩ずれれば、何もなかったことにできる。
それでも、美緒は動かなかった。
それが、美緒の出した小さな答えだった。
観光地を巡るあいだも、触れないまま、けれど確実に、何かが流れ込んでくる。誠は、美緒の歩幅に合わせて歩いた。
人混みで離れそうになると、声をかける代わりに、ほんの一瞬だけ、美緒の肩の近くに手を伸ばす。触れない。けれど、触れられたように感じる距離。
美緒は、そのたびに胸がざわついていた。
夜、宴会が終わり、人の気配が薄くなった旅館の廊下。
自販機の白い光の下で、誠が立っていた。
近づくと、誠は何も言わずに携帯電話を差し出してきた。
「これ……預かっててもらえますか」
「え?」
「なんとなく。明日、返してくれれば」
理由は言わない。説明もしない。
ただ、誠の人生の一部であるその小さな機械が、
美緒の前に無防備に置かれている。
受け取るか、断るか。選ぶのは、いつも美緒だ。
「……酔って失くしたら困るもんね」
美緒は、年上の余裕という仮面を被って受け取った。
部屋に戻り、灯りを消したあと。
布団の中で、美緒はその黒い塊を見つめ続けた。
開こうと思えば、いつでも開ける。
誠の日常も、秘密も、指先ひとつで覗けてしまう。信頼なのか。
それとも、美緒を逃がさないための鎖なのか。
分からないまま、携帯電話が一度だけ、短く震えた。
着信か、通知か、分からない。
けれど、その振動は、掌から心臓へと直接伝わってきた。
美緒は、目を閉じた。
――聞きたい。
どうして携帯を預けたのか。けれど、聞けなかった。
問いを口にした瞬間、この静かな関係が形を持ってしまう気がしたから。
誠に「そんなつもりじゃない」と逃げ道を与えてしまうのが、何より怖かった。
【第6章:給湯室のキス 関係の深まり】
旅行から戻った翌週、職場はいつも通りの空気に戻っていた。
コピー機の音、電話の呼び出し、誰かの笑い声。
そのすべてが、妙に遠く感じられた。
美緒は、誠と目を合わせないようにしていた。
誠もまた、必要以上に近づいてこない。
けれど、同じ空間にいるだけで、胸の奥がざわつく。
――あの夜の携帯の重さ。
――掌に残った体温。
――聞けなかった問い。
それらが、日常の中で静かに疼いていた。
昼休みが終わった午後、
美緒は給湯室でコーヒーカップを洗っていた。
蛇口から落ちる水の音が、やけに大きく響く。
背後で、ドアが開く気配。振り向かなくても分かった。誠だった。
「外、あっつ。」
その声は、いつもより少しだけ硬かった。
外の暑さを連れてきたような、湿った空気が流れ込む。
美緒は冷蔵庫に向かい、
アイスコーヒーのペットボトルを取り出そうとした。
その動作はいつも通りなのに、
なぜか美緒の心臓は落ち着かなかった。
「アイスコーヒー、飲む?」
美緒が振り向いた瞬間、背中に、腕が回った。
美緒は、息を呑んだ。
強く抱きしめられたわけではない。逃げようと思えば逃げられる。
それなのに、身体が動かなかった。誠の体温が、全身に伝わる。
汗の匂いが、夏の空気と混ざって美緒を包む。
「……美緒さん」
名前を呼ばれたわけではない。けれど、呼ばれた気がした。
美緒の心臓が、誠の呼吸のリズムに追いつこうとする。
「……だめ」
そう言おうとした。
言えば、すべてが元に戻る。言わなければ、戻れなくなる。
その一瞬の迷いのあいだに、誠の唇が、美緒の唇に触れた。
深くも、長くもない。
確認するような、ためらうような、
触れたか触れないか分からないほどのキス。
それだけなのに、美緒の膝がわずかに震えた。
心まで触れられた、と分かった。
誠も震えていた。腕の力が、ほんの少しだけ強くなる。
誠も何も言わなかった。
言葉を交わした瞬間、この沈黙が壊れてしまうのが分かっていた。
「……戻りますね」
美緒は、かすれた声で言った。
「……うん」
誠の声も、同じように震えていた。
席に戻ると、いつもの風景が広がっていた。
パソコンの画面、書類の山、同僚たちの会話。
すべてが日常のはずなのに、美緒の指先だけが、まだ熱かった。
キーボードを叩くたび、さっきの感触が蘇る。
誠は数列先の席に座っている。
何事もなかったように仕事をしている。
でも、美緒には分かる。
――もう、戻れない。
その確信だけが、胸の奥で静かに鳴り続けていた。
その日から、二人は時々仕事帰りに会うようになった。
広い駐車場。隣に停まる車。それが合図だった。
誠の助手席に乗り込み、他愛のない話をする。
「娘さん、最近どう?」
ある日、誠が聞いた。
「口が達者になってきた」
美緒は笑う。
「でも可愛い」
「知ってる」
誠も笑った。
「話してる時、いつも嬉しそうだから」
美緒は少し黙った。
夫にも友人にも言わないことを、なぜか誠には話せた。
学校のこと。将来への不安。誠は途中で口を挟まない。
ただ聞いていた。それが心地良かった。
仕事の話もした。失敗した案件のこと。部下のこと。
上司への愚痴。
どちらも家では話せないことだった。
時間は短い。それでも車内では呼吸が楽になった。
時折、誠の携帯電話が鳴る。
仕事の顔に戻る横顔を見るたび、美緒は思った。
この人は、自分の知らない場所でもちゃんと生きている。
夫として。社会人として。
その姿ごと好きになってしまったのだと。
だから苦しかった。だから離れられなかった。
この時間を大切にしたいと思った。少しでも長く……
車を降りる時はいつも短かった。
「じゃあね」
「うん」
それだけ。
余韻を引きずったまま、指定の場所に戻る。
エンジンをかける前に、必ず一度だけ、顔を見合わせ手を振る。
そして、深く息を吸う。
この時間が、いつまで許されるのか。
考えないようにしながら。
*第二部~別れと始まり*
【第7章:崩壊 妻に気づかれる】
どこにいても、気持ちと身体が、わずかにずれている。
その違和感を、誠の妻は見逃さなかった。
問い詰められたのか、気づかれただけなのか。詳細は分からない。
ただ、逃げ道が塞がれたことだけは、はっきりしていた。
美緒に来てもらう。
来なければ、美緒の家に行く。
それが、誠からの伝言だった。駐車場で待ち合わせた車内。
エンジンはかかっているのに、空気は凍っていた。
誠の顔から、血の気が引いている。
「……ごめん」
それだけ。言い訳も、説明もない。その一言が、すべてだった。
ハンドルを握る彼の手が、震えている。
美緒は前を向いたまま、息を整えた。二人は、選択を迫られていた。
「……二人で、どこか行こう」
誠が、小さな声で言う。逃げ道を示す言葉。
今まで、何度も用意してくれた、あの優しさ。
本気なのかただの逃げなのか。美緒の胸が、揺れた。
知らない土地。誰も知らない場所。今のすべてを、捨てるという選択。
一瞬だけ、想像する。
でも、答えは、もう決まっていた。
「……無理」
美緒の声は、思ったより静かだった。
誠は、何も言わなかった。ただ、一瞬だけ、美緒を見た。
その姿の中に、いつも愛おしそうに話していた幼い娘の気配が見えた。
誠はすべてを悟ったように、目を閉じて、深く息を吐いた。
美緒が守ろうとしているのは、自分との未来ではなく、小さな命なのだと。
それで十分だった。
車は、誠の家へ向かう。
フロントガラスの向こう、この日もまた雨だった。
見慣れた住宅街が、近づいてくる。
美緒は、自らドアのロックを解除した。
カチリ、という乾いた音が車内に響く。
逃げる場所など、最初からどこにもなかったのだ。
【第8章: 別れと退職】
美緒は退職の手続きと引き継ぎのために、数日だけ会社に姿を現した。
デスクに座ると、昨日まで当たり前だった景色が、まるで古い映画のセットのように現実味を失って見えた。
電話の音、キーボードを叩く音、同僚たちの笑い声。
そのすべてが遠い。
誠は、数列先の席にいた。一度も目は合わない。
姿を見るだけで、美緒の心は締め付けられた。
席を立つ気配、書類をめくる音、そのすべてが肌を刺すような熱をもって伝わってくる。
「一身上の都合で、急ですが……」
同僚たちには、そう繰り返した。
重苦しい沈黙の中で受け取られた退職願。
それが、美緒がこの場所にいた最後の証拠になるはずだった。
帰り支度の中、逃げ場のない給湯室で一人になった。
背後に人の気配を感じた。
振り返らなくても、空気が震えるのを感じた。
誠の足音。誠の匂い。
「俺も、辞める」
思いつめた小さな声。誠が抱える自責の重さが透けて見える。
美緒は、ゆっくりと蛇口を閉めた。水の音が消え、静寂が二人を包む。
「絶対、やめないで」
美緒は振り返り、初めて誠をまっすぐに見た。
誠の瞳は、ひどく濁って揺れている。
「ここで、偉くなって。誰にも文句を言わせないくらい、上に行って」
「そんなの……」
「お願い」
美緒は一歩踏み出した。二人の間に張り詰めた緊張が漂う。
「あなたはここにいて、活躍して。
名前を呼ばれるたびに……二人のこと思い出してほしい。
ここにいたことを、なかったことにしないで」
それは、祈りというにはあまりに鋭く、呪いというにはあまりに切実な願いだった。
誠が会社を辞めてしまえば、二人のつながりは完全に消える。
誰の記憶からも、二人の時間は「なかったこと」として処理されてしまう。けれど、誠がこの場所に留まり続ける限り、このオフィスを歩くたびに美緒のいた気配は消えない。
逃げ場のない給湯室、二人で言葉を交わした廊下、密かに繋いだ手の熱。
それらを誠の人生に刻みつけること。
それが美緒なりの、最後で最大のわがままだった。
誠は、絞り出すような声で
「分かった」とだけ答えた。
その言葉が、二人の間に楔となって打ち込まれた。
それが、二人が交わした最後の約束になった。
最後の荷物をまとめ、美緒はオフィスを出た。
エレベーターの鏡に映る自分は、驚くほど無表情だった。
逃げ道のない場所で、美緒は新しい孤独を選び取った。
数日経った退職の日。
駐車場に停めた車の中で、美緒は震える指で携帯電話のアドレス帳を開いた。
「誠」の文字を選択し、削除ボタンを押す。
「……っ」
喉の奥が熱くなった。
あの日、誠に「無理」と告げた時の震えとは全く違った。
それは、美緒の人生から誠という存在を、強制的に、そして永久に剥ぎ取るための痛みだった。
何もなかったはずの場所に、これほどまで大きな穴が開くなんて。
美緒はハンドルに額を押しあて、雨音に包まれながら、溢れ出す涙が冷たく頬を伝うのを止めることができなかった。
その夜、誠は家に帰っても、しばらく車から降りられなかった。
ハンドルに置いた手が、小さく震えている。
美緒の「無理」という声が、耳の奥で何度も反響した。
拒絶ではないと分かっている。
それでも、胸のどこかがゆっくりと沈んでいく。
家の灯りが窓に揺れている。妻の気配が、確かにそこにある。
守るべきものがあることを、誠は誰より理解していた。
だからこそ、美緒の選択を責めることもできなかった。
ただ、静かに痛かった。
美緒の人生から消えていく未来を受け入れるしかない自分。
美緒のいなくなった会社に居続けなければいけない自分。
妻と向き合う自分。
これからの事を考えると、心が重く、しばらく動くことができなかった。
【第9章:美緒、新しい日】
退職してしばらくは、立ち止まる暇もなかった。
新しい職場を探し、履歴書を書き、面接を受ける。
慣れない仕事を覚え、人間関係を築いていく。
朝は娘を送り出し、仕事へ向かう。帰れば夕飯の支度が待っている。
一日が終わる頃には、考える余力も残っていなかった。
それでよかったのだと思う。
振り返ってしまえば、あの熱の中に、自分を置き去りにしたことを認めてしまう。思い出してしまえば、立ち止まってしまうから。
だから美緒は、目の前の日常に必死だった。
退職から数年経ち、娘は小学6年生になっていた。
反抗期に入る前、少しおませで、少し生意気になった。
「ママ、それ違うよ」
「何が?」
「今の言い方」
大人顔負けの口調で言い返してくる。
誰に似たのかと思う。 たぶん自分だ。
「はいはい」
そう返すと、
「『はい』は、一回」
とさらに返ってくる。思わず笑ってしまう。
口では敵わないことも増えてきた。
けれど、美緒が仕事から帰ると、
「おかえり」と言い、待ち構えるように話してくる。
友達のこと。先生のこと。好きな男の子のこと。
毎日違う話題を抱えて帰ってくる。
その小さな世界が、愛おしかった。
習い事もたくさんした。
仕事もあったが送り迎えはできるだけした。
習字。塾。時々スイミング。
車の中はいつも賑やかだった。
「今日ね」 から始まる話はなかなか終わらない。
夕飯の買い物をしながら聞き、洗濯物を畳みながら聞き、 宿題を見ながら聞く。気がつけば一日が終わっている。 忙しかった。本当に忙しかった。
けれど、不思議と満たされてもいた。
休日には家族で出かけた。
夫と娘と三人で外食をしたり、買い物へ行ったり。
特別なことは何もない。 笑い合い、喧嘩もした。
けれど、その平凡さが心地よかった。
この生活を守りたい。そう思う瞬間も増えていた。
季節は静かに巡っていく。
ランドセルを下ろし、娘の反抗期も本格的に始まり、育児にも悩んだ。
少しずつ新しい職場で居場所を見つけ馴染んできた。
誠を思い出さない日もあった。 何日も。何週間も。
もしかしたら何か月も。 それくらい、毎日は慌ただしかった。
だからきっと、大丈夫なのだと思っていた。
時間はちゃんと人を前に進ませる。 失ったものも、いつか過去になる。
そう信じていた。 雨が降るまでは。
ある日の夕方。
娘を迎えに行くため車を走らせていると、フロントガラスに雨粒が落ちてきた。 ワイパーが動く。一定のリズムで雨を払う。
その音を聞いた瞬間だった。
何の前触れもなく、誠の顔が浮かんだ。驚くほど鮮明に。
忘れたわけではなかった。消えたわけでもなかった。
ただ、忙しさの奥に静かに沈んでいただけだった。
信号待ちで空を見上げる。灰色の雲。流れていく雨。
助手席には誰もいない。けれど胸の奥だけが、少しだけ騒がしかった。
青信号に変わる。美緒は小さく息を吐いてアクセルを踏んだ。
迎えに行かなければならない。娘が待っている。
今の自分には、そのことの方がずっと大切だった。
【第10章: 1枚の名刺】
退職してから数年の月日が流れ、娘が中学生になった頃。
日常を淡々とこなしながらも、どこかで「非日常」の影を追いかけている自分がいた。
カレンダーの数字だけが、美緒を置いてきぼりにして過ぎていく。
衣替えを兼ねて押入れの奥を整理していた時のことだった。
美緒は冷たい床に座り込み、見覚えのあるハンドバッグを取り出した。
もう数年も使っていない、あちこちが擦れて汚れた古いバッグ。
捨てようと思い、念のためポケットに手を入れた時、指先に硬い紙の感触が触れた。
取り出してみると、それは一枚の名刺だった。
擦れて汚れたかばんの中で、それだけが折り目のひとつもない、驚くほど綺麗なままだった。見覚えのある会社のロゴ。そして、誠の名前。
記憶を辿る。
そうだ、あの時の忘年会。まだ二人でいられた最後の冬。
騒がしい居酒屋の隅で、自分の名刺入れからそっと取り出し、誰の手にも触れさせないまま、
「これ、僕の。一応持っておいて」
と、悪戯っぽく笑って美緒のかばんに忍ばせていたものだ。
あの日以来、一度も開けていなかった内ポケット。
退職の日、デジタルなデータはすべて消した。
けれど、アナログなこの一枚の紙だけが、あの時の誠の体温を宿したまま生き残っていた。
美緒は、吸い寄せられるようにスマートフォンを手に取った。
もし、誠が番号を変えていたら。
もし、美緒のことを忘れていたら。
反応がなければ、それが答え。
繋がらなければ、私はただの他人になれる。それでいい。
この名刺を捨てて、今度こそ本当に終わりにしよう。
震える指で、名刺に記された数字を打ち込んでいく。
そして消す。何度か繰り返す。部屋は静寂なのに、心だけは、騒がしい。
一言、
「元気?」
と送る勇気はなかった。代わりに、名刺の写真を一枚だけ送った。
メッセージの送信ボタンを押した次の瞬間、雨音は消えた。鼓動。
身体の奥で、それだけが暴力的なまでに重く、速く、頭蓋を揺らす。
沈黙は、深海のように静かだった。
数日後。
諦めかけていた美緒のスマートフォンが、短く震えた。
「元気?」
たった2文字。
けれど、その文字を見た瞬間、美緒の心が弾んだ。
誠はまだあそこにいる。それだけでよかった。
本当に、それだけでよかった。美緒は少し考えてから返信する。
「元気」
送信すると、部屋はまた静かになった。
何かが始まったわけではない。失った時間が戻るわけでもない。
会う約束をしたわけでもない。それでも、不思議と安心したのだった。
もう二度と交わることのないはずだった人生が、ほんの細い糸で繋がったような気がした。
【第11章: 誕生日メッセージの始まり】
美緒の誕生日だった。朝から特別な予定はない。
夫は仕事へ向かい、娘は学校へ行った。いつも通りの一日。
年齢を重ねるにつれ、誕生日は祝われる日というより、静かに通り過ぎる日になっていた。数か月前、押し入れの奥から見つけた名刺。
あの日、何度か短いやり取りをして、それきりだった。
夕方、買い物から戻り、冷蔵庫に食材をしまっていた時だった。
テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。
何気なく手に取る。そして、美緒は動きを止めた。
誠だった。
表示された文章は短かった。
「誕生日おめでとう」
それだけ。
それだけなのに、心が、音もなく溶けていくようだった。
覚えていたんだ。会っていなくても。どれだけ離れていても。
誠は、美緒の誕生日を覚えていた。
美緒はしばらく画面を見つめた。長い言葉は浮かばない。
浮かんでも、送れない。指先でゆっくり文字を打つ。
「ありがとう」
送信する。それで終わりだと思った。数分後。再び通知が届く。
「暑いね」
思わず笑ってしまう。
窓の外では、蝉が鳴いていた。真夏の夕暮れだった。
美緒は少し考えてから返す。
「そうだね」
それだけだった。
近況は聞かない。家族の話もしない。
会いたいとも言わない。あの日々について触れることもない。
けれど、不思議と寂しくなかった。
その年の秋。
誠の誕生日に、美緒はメッセージを送った。
「誕生日おめでとう」
しばらくして返事が届く。
「ありがとう」
短いやり取りだった。
それからだった。
お互いの誕生日だけ、メッセージを送るようになったのは。
*第三部~人生の証人*
【第12章: 誠、父になる】
誠の子どもが生まれたのは、予定日より少し早い、雨の日の朝だった。
病院の廊下は静かで、白い壁だけがどこまでも続いているように見えた。
誠は落ち着かないまま、自動販売機のコーヒーを握りしめていた。
熱いはずなのに、味はよく分からない。
何度も時計を見る。何度もスマートフォンを確認する。
連絡を待つことしかできない自分が、少し情けなかった。
やがて子供の泣き声が聞こえた。分娩室の扉が開き、看護師が、
「おめでとうございます」
と微笑んだ。
その言葉を聞いた瞬間、全身から力が抜けた。案内されるまま部屋へ入る。小さなベッド。
その中に、想像していたよりずっと小さな命。
顔は赤く、目も閉じたまま。
泣き疲れたのか、静かな寝息を立てている。
誠は恐る恐る覗き込んだ。自分の子どもだった。
その事実が、すぐには実感にならない。
妻が疲れた顔で笑った。
「抱っこしてみる?」
誠は首を横に振った。怖かった。壊してしまいそうだった。
けれど看護師に促され、ぎこちなく腕を伸ばす。
腕の中に収まった命は驚くほど軽かった。
なのに、胸に乗った瞬間、とてつもなく重く感じた。
守らなければならない。自然にそう思った。
誰に言われるでもなく。理屈でもなく。ただ、そう思った。
小さな指が動く。誠の指先に触れる。それだけで胸の奥が熱くなった。
気づけば笑っていた。こんな気持ちは初めてだった。
病室の窓を雨が叩いている。10月ではない。
けれど雨の音は、あの日と少し似ていた。誠は窓の外を見た。
灰色の空。濡れた街路樹。雨に煙る景色。
そして、ふと。思い出してしまった。
美緒のことを。
会いたいわけではなかった。戻りたいわけでもなかった。
ただ、思い出した。
もしあの日、違う選択をしていたら、この子には会えなかった。
そう思った。胸の奥に小さな痛みが走る。
けれどその痛みは、後悔とは少し違っていた。
失ったものと、手に入れたもの。どちらも本物だった。
どちらか一方だけを選ぶことはできない。
人生とは、きっとそういうものなのだろう。
誠は腕の中の子どもを見つめた。
小さな寝息。柔らかな髪。温かな体温。守りたいと思った。
心から。
その気持ちに嘘はなかった。
病室を出る前、もう一度だけ窓の外を見る。
雨はまだ降っている。誠は静かに目を閉じた。
そして胸の奥の記憶にも、そっと蓋をした。
その年の誕生日の夜。スマートフォンが震えた。
「誕生日おめでとう」
美緒からだった。誠は少し迷ってから返信した。
「ありがとう」
そして、もう一行打つ。
「子どもが生まれた」
送信したあと、消そうかと思った。でも消さなかった。
しばらくして返事が届く。
「おめでとう」
五文字。どんな顔でこの文字を送ったかは、わからない。
名前も、性別も、何も聞いてこなかった。
けれど、その潔い祝福が、なにより有難かった。
誠は静かにスマートフォンをポケットにしまい、窓の外に目を向けた。
雨音は静かだった。
【第13章: 父との別れ】
美緒が49歳の春、優しかった父が亡くなった。
病気が見つかってから数年が経っていた。
医師から説明を受けた日から、美緒たち家族は少しずつ覚悟をしていたはずだった。抗がん剤の副作用で痩せていく背中も、日に日に弱くなっていく声も、美緒はずっと隣で見届けてきた。
だから、いつかこの日が来ることは分かっていた。
分かっていたはずだった。
それなのに、病院からの電話を受けた瞬間、美緒の頭は真っ白になった。「お父さまが……」
その先はよく覚えていない。昨日、話したばかりだった。
「また来るね」
そう言って帰ったばかりだった。
それなのに今日、亡くなる?そんなことがある?
頭の中で同じ言葉が何度も何度も繰り返された。
病院へ向かう車の窓を春の雨が流れていく。
ワイパーが視界を拭うたび、現実だけが突きつけられるようだった。
その音だけが、今の美緒には異様に大きく聞こえた。
病室へ着くと、父は静かに目を閉じていた。
眠っているように見えた。
今にも目を開けて、
「何だ、美緒、また来たのか」
と言いそうだった。
けれど、頬に触れた指先に返ってきたのは、命の灯が消えた後の冷たさだった。
その瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
どうして。昨日は話せたのに。どうして今日なの。
死ぬなら死ぬって言ってよ。明日がないなら言ってよ。
そうしたら帰らなかった。もっといた。もっと話した。
聞きたいことだって山ほどあった。若い頃の話も。
母と出会った時の話も。まだ何も聞いてないじゃない。
なのに、どうして勝手にいなくなるの。
子どもみたいな考えだと分かっていた。人はいつか死ぬ。
父は病気だった。そんなことは分かっている。
それでも心のどこかで、来週も、来月も、当たり前に会える気がしていた。だから納得できなかった。
葬儀の日、美緒は泣いた。何度も頭を下げた。
何度も「ありがとうございました」と言った。
けれど何を話したのかほとんど覚えていない。涙が止まらなかった。
線香の匂いだけが服と髪に残った。
数日後、誰もいなくなった実家で、美緒は一人座っていた。
父がいつも座っていた椅子。使いかけの眼鏡。
全部そのままだった。
今にも父が部屋の奥から出てきそうなくらい、そのままだった。
なのに父だけがいない。
その事実だけが受け入れられなかった。
美緒は父の椅子に手を置いた。涙がまたこぼれた。
もっと会えばよかった。もっと話せばよかった。
もっと優しくすればよかった。そんな後悔ばかりが浮かんでくる。
そして、その後悔の奥には別の感情があった。
怒りにも似た気持ちだった。
どうしてこんなに早くいなくなるの。
どうして置いていくの。どうして何も言わないの。
答えが返ってこないことは分かっている。
それでも心は問い続ける。
窓の外では雨が降っていた。
美緒は、机に置かれた父の眼鏡にそっと触れた。
指先に伝わるのは、レンズの硬い冷たさだけだ。
【第14章: 誠の昇進】
時間は、思っていたより早く過ぎていった。
気がつけば、誠は主任になり、係長になっていた。
その頃から、誠の仕事は少しずつ変わった。
自分で結果を出すより、人を動かす時間のほうが増えていく。
部下の失敗の報告を受ける。
取引先から厳しい言葉を向けられる。
若い頃なら自分で片付けたほうが早かった。
けれど今は違う。誠は答えを教えなかった。代わりに問いを返した。
「君はどう思う?」
部下たちは最初戸惑った。
それでも少しずつ自分で考えるようになっていった。
誠は人を育てるのが上手いと言われるようになった。
本人にそんな自覚はなかった。
ただ、自分が若かった頃に欲しかった上司でいようと思っていただけだった。
若い頃は想像もしなかった。出世したいと思ったことはない。
ただ目の前の仕事を片付けていただけだった。
それでも気づけば、ここまで来ていた。
肩書きが変わるたび、机の位置が変わる。
見る景色も少しずつ変わっていった。
昇進の辞令を受けた日。
帰宅すると、妻がささやかなご馳走を用意していた。
「おめでとう」
照れくさそうに笑う。
子どもも拍手をしてくれた。まだ小さな手だった。
誠は笑って礼を言った。幸せだと思った。
守りたいものがあり、帰る場所がある。
それは間違いなく、自分が選んだ人生だった。
けれど。
新しい名刺を受け取った夜。
一人になった書斎で、その名刺を眺めていると、不意に思い出す。
あの日の給湯室。蛇口から落ちる水の音。薄暗い蛍光灯。
美緒の声。
「ここで、偉くなって」
掠れた声だった。けれど不思議なくらい鮮明に覚えている。
「誰にも文句を言わせないくらい、上に行って」
あれは願いだったのだろうか。それとも罰だったのだろうか。
今でも分からない。
美緒に「ここで偉くなって」と縛り付けられたあの日から、一度もこの場所から逃げようとはしなかった。いや、逃げられなかったのだ。
朝になれば美緒のいないオフィスで戦い、夜になれば妻の待つ家に帰る。
逃げ場のない日常の中で、自分を支えていたのは、皮肉にも美緒が残していったあの言葉だった。
あの言葉は誠の中に残り続けた。昇進するたびに思い出した。
部下に囲まれた時も。大きな案件を任された時も。
そのたびに、美緒が見ていたら何と言うだろうと思った。
喜ぶだろうか。呆れるだろうか。
それとも、
「まだまだだね」
と笑うだろうか。
もちろん答えは返ってこない。連絡を取ることもない。
名前を呼ぶこともない。それでも不思議だった。
人生の節目に立つたびに、いないはずの美緒の気配を感じていたのだ。
会議室の窓から見える景色は、昔とは随分変わった。建物も増えた。
若かった社員たちは管理職になり、新入社員だった子たちは家庭を持ち始めている。それでも給湯室だけは、なぜか足を止めてしまう。
改装され、コーヒーメーカーも新しくなった。壁紙も変わった。
けれど、誠の記憶の中では何一つ変わらない。
そこにはいつも、美緒が立っている。
カップを洗う後ろ姿。振り返った時の顔。
そして最後に見せた、あの真っ直ぐな瞳。
役職名が変わるたび、あの給湯室に立ち寄り、心の中で彼女に報告する。 「約束通り、ここまで来たよ」と。
それは痛みであり、同時に、この世界を実直に生き抜くための、お守りでもあった。
誠はもう一度、名刺を見つめた。
営業本部長。
そこに書かれた肩書きを静かに見つめる。
約束は守れただろうか。ふと、そんなことを思った。
答えは分からない。ただ一つだけ確かなことがある。
ここまで歩いてこられたのは、自分の努力だけではなかった。
忘れられない誰かの言葉が、ずっと背中を押していた。
誠は名刺をしまい、窓の外へ目を向けた。
雨が降っていた。
細い糸のような雨が、街の灯りを滲ませている。
【第15章:美緒の日常と人生の証人】
雨の日が続くと、家の中の静けさが少しだけ重くなる。
娘が大学を卒業し、県外の会社へ就職して家を出てから、もう2年も経つ。今では立派な社会人だ。 休日には時々連絡が来る。
近況報告だったり、仕事の愚痴だったり。
けれど、もう毎日顔を合わせることはない。
あの日、引っ越しの荷物を積み終えた車を見送ったあと、美緒はしばらく玄関から動けなかった。
「じゃあね」 娘は笑って手を振った。
それは結婚でもなければ、生涯の別れでもない。
会おうと思えばいつでも会える。 それなのに、胸の奥で何かが静かに終わった気がした。
娘の部屋の扉を開けると、驚くほど広かった。
勉強机も、本棚も、そのまま残っている。
けれど、そこにいたはずの気配だけが綺麗に消えていた。
いつもなら聞こえてくるはずの音楽も、お気に入りのヘアスプレーの甘い匂いも、床に脱ぎ捨てられた靴下もない。
ただ、窓の外を流れる雨の音だけが、がらんとした部屋に冷たく響いていた。
洗濯物が減った。冷蔵庫の中身が減った。 食卓に並べる皿も減った。
20年以上かけて積み重ねてきた日常が、少しずつ形を変えていく。
夫と二人だけの生活。
それは決して不幸ではなかった。
むしろ穏やかだった。
若い頃には想像もしなかったほど、夫とは自然に言葉を交わすようになっていた。
休みの日には一緒に買い物へ行き、テレビを見る。
お昼に湯気の立つナポリタンスパゲティーを食べながら、他愛のない話をする。ふうふうと息を吹きかけ、口に運ぶたびに、お腹の底がじんわりと温かくなっていく。
長い時間をかけて家族になったのだと思う。
けれど同時に、誠の「どこかへ行こう」という言葉に、もしあの日頷いていたら、と思う瞬間がなかったわけではない。
本当は、喉元まで出かかっていた言葉があった。
「この子の、父親を奪うことはできない。」
美緒は誠を愛していたからこそ、誠の守らなければいけない「現在」と、今、目の前にある小さな命の「当たり前の日常」を選んだのだ。
人は失ったものばかりを数えてしまう。けれど本当は、選ばなかった道の向こうで、美緒がこの手でしっかりと抱きしめてきたものがある。
娘の就職が決まった年。
誠から届いた短いメッセージに、美緒はいつものように返した。
「ありがとう」
少し考えてから、もう一行だけ打つ。
「娘が独立しました」
送信してから、スマートフォンを置く。数分後。
「おめでとう」
返信はそれだけだった。けれど、しばらくして、もう1通届いた。
「おつかれさま」
たった6文字。美緒は思わず笑った。
画面を見つめる視界が、みるみるうちに熱いもので滲んでいく。
スマートフォンを両手で包み込むように強く握りしめ、胸元に引き寄せた。あの日、美緒が何を捨てて、何を守る道を選んだのかを。
「おつかれさま」
という言葉は、美緒が母親として生きてきた20年余りの時間を、誠だけが正しく肯定してくれた証だった。 長かった。本当に長かった。
本音を言えば、一度くらい、今の誠の顔をこの目で見たいと思ったことはある。 けれど、そのたびに美緒は、自分の指先を見つめて思いとどまる。
一度触れてしまえば、指先だけでは足りなくなる。
もっと、もっとと、互いの存在を求めてしまう。
そしてその波紋は、長い時間をかけてようやく凪いだ今の日常を、容赦なく飲み込んでいくだろう。
誠には、守るべき小さな手の温もりがある。
美緒には、静かに積み上げてきた、この穏やかな食卓がある。
だから、会わない。
会わないまま、ただ、生きているという微かな振動だけを、掌で受け取る。
最後に見た彼の横顔は、もう記憶の隅で淡く滲んでいる。
声の響きも、肌の熱も、時間の砂に埋もれて久しい。
それでも2人は、知っている。
彼が父になり、その腕に重みを感じた日のことを。
美緒が肉親を送り、冷たい雨の中で孤独を噛みしめた夜のことを。
彼が重責を背負い、白髪の混じった頭を下げながら戦っていることを。
そして美緒が、一人の娘を「母親」として立派に育て上げ、空っぽになった部屋で一人、お茶を啜っていることを。
人生の大切な出来事だけを、まるで暗い河に置かれた飛び石を渡るように知りながら、二人はここまで歩いてきた。
夫婦にもなれなかった。家族という絆を結ぶことも許されなかった。
それでも、世界中でたった一人。
誠が父になった喜びを、美緒が母として生きた矜持を、誰よりも深く、誰よりも正しく知っているのは、お互いだった。
「おつかれさま」
その6文字が、孤独を溶かしていく。
誰も見ていなかった美緒の奮闘を、誰も知らなかった彼女の涙を、誠だけがその短い言葉で抱きしめてくれた。
交わることのない二本の線が、ただ一度だけ、あの雨の日に結び目を作った。
その結び目を解かないまま、互いに反対方向へと引き合いながら、私たちはそれぞれの人生を、精一杯に生きてきたのだ。
【第16章:誠の誕生日】
誠、50歳の誕生日。
若い頃は節目の年齢に何か意味があると思っていた。
30歳、40歳。そのたびに少し身構えた。
けれど50歳になった朝は、驚くほどいつも通りだった。
目覚ましが鳴る前に目が覚める。洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
目尻の皺が少し増えた。白髪も、染める頻度が早くなった。
朝食を並べながら妻が言った。
「お誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「白髪、増えたね」
「そりゃ、もう50歳だからな」
「私もだけどね」
二人で笑う。若い頃のようなときめきはない。
けれど、同じ時間を生きてきた人にしか出せない空気がそこにはあった。
長年連れ添った夫婦らしい、穏やかなやり取りだった。
「パパ、おめでとう」
「ありがとう」
誠は笑って返事をした。子どももやっと10歳になった。
子どもが生まれてからは、驚くほど早かった。
初めて歩いた日。運動会で転んで泣いた日。
自転車の補助輪が外れた日。
仕事から帰ると、毎日のように話を聞かされた。
今日学校であったこと。友達と喧嘩したこと。
どれも些細なことだった。けれど、誠はその時間が嫌いではなかった。
むしろ忙しい仕事の合間に、自分を父親へ戻してくれる大切な時間だった。
十分幸せな人生だと思う。
少なくとも、誰かに説明するならそう答える。
会社へ向かう車の中で、雨が降り始めた。
フロントガラスを流れる雨粒を見ながら、誠は小さく息を吐く。
十月の雨は嫌いではない。嫌いになれなかった。
会社に着くと、朝から会議だ。
会議中、スマートフォンが震えた。短い通知。
会議が終わり、廊下に出て画面を確認した。
「誕生日おめでとう」
少し間を置いて、もう一通。
「50代へようこそ(笑)」
誠は思わず笑った。声には出なかった。ただ口元だけが少し緩んだ。
「ありがとう」送信する。
少し考えてから、もう一行。
「元気です」
それだけで十分だった。
窓の外では雨が降っている。
【第17章:愛の成れの果て】
一年に二度、お互いの誕生日。
「おめでとう」
「ありがとう」
数回のスマートフォンの振動と、短いやり取り。
それ以上を望むことも、踏み込むこともない。
誰にも見せない、誰にも触れさせない心の奥底。
そこには、誠という名の記憶が、今も美緒の体温をわずかに上げていた。
その痛みがあるからこそ、美緒は、自分がかつて誰かを狂おしいほど求めた「あの時の自分」を忘れずにいられる。
美緒は、窓を流れる雨筋をぼんやりと目で追った。
誠の声も、横顔も、もう正確には思い出せない。
けれど、あの頃の自分がどんな呼吸をしていたかは覚えている。
触れれば崩れてしまいそうな関係に、それでも手を伸ばしてしまった夜の温度。あの温度だけは、時間に奪われなかった。
ガラス窓を叩く雨の音を聴いていると、耳の奥で、あの日二人で閉じこもっていた車の規則正しい駆動音が蘇るような気がした。
美緒はそっと自分の左手の薬指に触れる。
そこにある指輪の冷たさが、現実の時間を彼女に突きつける。
人生は、選ばなかった道のほうが長く心に残る。
けれどその向こう側で失われていたものの大きさも、美緒は知っていた。
娘の笑顔も、夫との静かな時間も、誠が父として抱いた小さな命の重みも。 どれも、あの瞬間に手放すにはあまりに尊いものだった。
だからこそ、今の二人の距離は、後悔ではなく、選択の結果としてそこにある。
触れないことで守られたものがあり、会わないことで続いてきた関係がある。それは愛と呼ぶには静かすぎて、別れと呼ぶには温かすぎる。
その絶妙な距離感のなかで、二人はお互いを傷つけない方法を、長い年月をかけて学び合ってきたのかもしれない。
雨がガラスを伝い落ちる。
その軌跡は、まるで二人の人生のように、交わらないまま、どこかで同じ方向へ流れていく。触れない距離で、互いの存在を確かめながら。
ねえ、ズルいよね。
君を解放したつもりで、一番深いところで繋ぎ止めているのは、私のほうかもしれないのに。
誠をあの場所に縛り付けたのは、他ならぬ美緒自身だった。
私たちは、お互いの人生を台無しにするほど情熱的でもなければ、お互いを忘れるほど薄情でもなかった。 愛と呼ぶにはあまりに静かで、呪いと呼ぶにはあまりに温かい。
この「会わない」という選択こそが、私たちが長年かけて辿り着いた、愛の成れの果てだった。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。
美緒はスマートフォンを伏せ、ゆっくりと立ち上がった。
雨戸を閉め、窓の鍵を確かめ、カーテンを引く。
不意に訪れた静寂が、今の暮らしの平穏を教えてくれるようだった。
深呼吸をひとつして、小さく微笑む。
明日になれば、また何事もなかったように日常が始まる。
別々の場所で、別々の人生を、私たちは精一杯に生きていく。
私の人生の証人は、あなただった。
それだけで、もう、十分だった。
--END--
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします😊いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます