「? の涙」/ 短篇小説(ノイズ文学)#061
最初は、印刷ミスだと思った。
古本屋で買た文庫本の最後のページ。 たった一つだけある「?」の下の点が、ほんの少し右へずれていた。 指先で触ってみる。 もちろん、インクは乾いている。 でも、見ているうちに、その点だけが、そろりそろりと下へ落ちた … 気がした。
私は思わず本を閉じた。 あゝ、変な本を買ってしまった … そう思って鞄へしまい、その日は家に帰った。
ところが翌日、 駅の案内板の「?」を見た瞬間、また同じことが起きた。
点が落ちた …
ぽつん
床に落ちたように見えた。周りの人たちは誰も反応しない。見えなかったのでは無く、どうでも良かったのかも知れない。
私だけは、その小さな音を、確かに聞いた。
その日から、「?」を見るたびに、下の点が涙になって落ちるようになった。 スマホ。 テレビ。 ポスター。 教科書。 スーパーの張り紙。
世の中に存在する「?」が、私の前だけで、静かに泣いていた。理由は解らない。 しかし、いつも悲しそうに落ちた。
私は試しに、ノートへ大きな「?」を書いてみた。 何も起きない。少し待つ。やはり、何も起きない。
「気のせいか …… 」
そう安心した瞬間だった。紙の上の点が、ゆっくり膨らんだ。丸いインク玉が、光を反射して、水滴みたいに揺れた。
そして、私は息を止めた。
ぽたり
本当に落ちた。ノートには、点だけを失った「?」が孤立した。 私は落ちた点を探した。床には何もない。だけど、指先だけは、少し濡れていた。私の中の何処かに、ほんのりとした、悲しみだけが残った。
それから私は、「?」を避けて生活するようになった。 ニュースは見ない。 本も読まない。 ネット検索もしない。 誰にも、質問をしない。 質問されても笑ってごまかす。
「?」を見なければ、涙も見ることもない。 そう思った。
けれど、不思議なことが起き始めた。
ある朝、窓ガラスに水滴が一つ付いていた。
雨ではない。空は晴れている。その水滴の形が、「?」の点だった。
会社の机にも。 冷蔵庫にも。 電車の窓にも。
世界中の丸いものが、「?」の涙に見えてしまう。
ある夜、眠れなくなって鏡を見た。自分の姿勢が少し猫背になっていた。首が前へ曲がる。私は冗談半分で横を向いた。
「 … 」
横顔の輪郭が、「?」だった。 曲がった背中。 うつむいた首。 そして顎の先には、小さな涙が一粒だけ光っている。慌てて顔を洗う。何度拭いても、その一粒だけは消えない。
翌日から、なぜだか、人の姿まで「?」に見え始めた。
信号待ちをする老人も、 ベンチに座る学生も、 買い物袋を提げた母親だって、
みんな少しだけ前かがみで、顎の下に小さな涙をぶら下げて歩いている。誰も悲しそうな顔をしてはいない。 そして、誰も気づいていない。
世の中が「?」になっていることを。
私はスマホを開き、「? 由来」「? 記号 意味」と打ち込んだ。
「疑問符」「インテロゲーションマーク」「ラテン語が起源」
そんな説明ばかりが並ぶ。どの記事にも、「? が泣く理由」は書かれていなかった。
不慣れな SNSにも投稿してみた。 「加工だろ〜 」 「AI 一択」 「病院に急げ」
誰も信じなかった。
ただ、一人だけ匿名の返信が届いた。 「それなら、本じゃなくて"文字そのもの"を調べた方がいい。」その一文だけが妙に引っ掛かった。
私は翌日、市立資料館の古文書閲覧室へ向かった。一般書ではなく、文字史を扱う古い資料の棚だった。 何冊目だっただろう。一冊だけ、貸出記録のほとんどない記号辞典があった。最後のページに、誰かが挟んだらしい黄ばんだ紙が残っていた。
そこには一行だけ。
「『?』は、答えを知らない者の形ではない。答えを知ってしまった者の姿である。」
意味が、まったく分からなかった。その瞬間、本の「?」から、また一粒の涙が落ちた。
ぽつん
私は反射的に、その涙を掌で受け止めた。 冷たい。 透明だ。 …… いや、透明ではない。
涙の中に、小さな私が映っていた。 その私は、本を読んでいた。さらに、その本の中の私は、また涙を見つめていた。 その涙の中にも、小さな私が存在していた。
どこまでも、どこまでも続く自分。 私は、恐ろしくなって本を閉じた。
その日以来、街から「?」が少しずつ消えていった。 本も。 広告も。 案内板も。
誰かが直しているわけではない。最初から存在しなかったように、「?」だけがなくなっていく。 その不在に、人々は別に困っていない。 それは、質問をしなくなったからだと思う。
誰も疑わない。 誰も尋ねない。 誰も立ち止まらない。
皆んな、ただ前だけを向いて歩いている。 しかし、私は、まだ世界に一つだけ残っている「?」を知っている。
毎朝の、洗面所の鏡の中だ。私が少しうつむくと、身体はゆるやかに曲がり、顎の下には、小さな一粒が揺れる。
あれは涙なのか、それとも、私自身なのか。
少なくとも、鏡の中の私は今日も黙っている。 ただ、その一粒だけが、今にも落ちそうに震えている。
追伸:穴凹通信より放送ですョ。
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