水彩画と御城印で巡る 日本の名城 60 後北条氏の領国経営を支えた城 ― 滝山城、小机城、長浜城

小田原城から広がった支城網 ― 滝山城、小机城、長浜城をあるいてみた

前回は、小川城・石脇城・興国寺城を巡った。
伊勢新九郎盛時 のちに北条早雲と呼ばれる人物が、
駿河から歴史の表舞台へ歩み出す姿をたどった。
 
早雲はやがて伊豆へ進み、相模へ勢力を広げ、
小田原城(日本の名城11参照)を手に入れる。
 
その後、氏綱、氏康、氏政、氏直へと受け継がれた後北条氏は、
小田原城を本拠として関東へ勢力を拡大した。
 
小田原は政治や経済の中心として発展し、
戦国末期には城下町全体を囲む巨大な「総構」まで築かれている。
 
しかし、広大な領国を小田原城一城だけで支配することはできない。
 
後北条氏は各地に重要な城を置き、一族や有力家臣を配置した。
それぞれの城が周辺の土地や家臣団をまとめ、交通路を押さえ、
敵の侵入に備えた。
 
いわば、小田原城を中心として多くの支城が結ばれた
「城のネットワーク」である。
 
今回は、その中から滝山城、小机城、長浜城を訪ねる。
 
武蔵の大城郭、街道を押さえる城、そして駿河湾の水軍基地。
 
三城を巡ると、後北条氏が城を「戦うための砦」としてだけでなく、
広い領国を治めるための拠点として利用していたことが見えてくる。
 

滝山城 ― 武田信玄の侵攻に耐えた城

北条氏照が築いた武蔵の大城郭(東京都八王子市)

滝山城は多摩川と秋川の合流点を望む丘陵上に築かれた大規模な平山城で、
戦国時代の関東を代表する土の城の一つである。
 
この城と深く関わったのが、**北条氏康の三男 **北条氏照だった。
 
氏照は武蔵西部の支配を任され、滝山城を拠点とした。
 
城内には本丸、中の丸、二の丸など多くの曲輪が配置され、
それらを深い空堀や土塁、馬出などが複雑に結んでいる。
天守や石垣を中心とする近世城郭とは異なり、
丘陵そのものを削り、土を盛ることで
巨大な要塞を造り上げている。
 
特に二の丸周辺の縄張りは巧妙である。
 
敵が城内へ入っても、一本道で本丸へ進むことはできない。
曲がりくねった虎口や馬出を通らされ、
横方向から攻撃を受けるよう工夫されている。
 
滝山城の歴史でよく知られているのが、
1569年の武田信玄による関東侵攻である。
 
**小田原城を目指した武田軍は武蔵へ入り、
**滝山城周辺で北条氏照軍との激しい攻防が行われた。
 
滝山城は落城を免れたものの、
武田軍の侵攻を受けて、
防御の限界を感じた氏照は、
より険しい山中に **八王寺城(日本の名城 11参照)を築いて拠点を移した。
 
多くの曲輪を持つ広大な城域と複雑な防御施設を見ると、
後北条氏が武蔵西部の支配にどれほど大きな力を注いでいたかが分かる。
 
城は敵を防ぐだけでなく、周辺の家臣や村々をまとめ、
地域を治める拠点でもあった。
 
後北条氏の領国支配を「土の城」という姿で今に伝える城――
ここは **滝山城である。
 
2022年12月17日
日本100名城 No.123 滝山城公式スタンプ取得

御城印は桑都日本遺産センター 八王子博物館にて拝受

小机城 ― 小田原と江戸を結んだ南武蔵の拠点

小机城 北条一族の重臣が配置された城(神奈川県横浜市)

小机城の歴史は後北条氏の成立より古い。
 
十五世紀後半には、太田道灌による攻撃を受けた城として知られている。
その後、後北条氏が南武蔵へ進出すると、小机城もその支配下に入った。
 
後北条氏は領国をいくつかの地域に分け、
それぞれに拠点となる城を置いた。
 
小机周辺も「小机領」と呼ばれる地域となり、
城には北条一族の重臣が配置された。
小机城には北条幻庵の子や養子らが四代にわたって城主となっている。
 
小机城が重要だった理由の一つは、その地理的要因にある。
 
小田原から鎌倉、江戸方面へ向かう道を押さえる場所にあり、
鶴見川流域を支配する拠点でもあった。
小机城が江戸方面や鎌倉街道を押さえ、
小田原城を中心とした防衛網の重要な一角を担ったためとされている。
 
城は二つの主要な曲輪を中心に、空堀と土塁を巡らせた構造となっている。
特に空堀は深く、現在でも城の守りの堅さを感じることができる。
 
しかし、小机城の役割は軍事だけではなかった。
 
小田原から遠く離れた土地を治めるためには、
その地域をよく知る武士たちの協力が欠かせない。
周辺には「小机衆」と呼ばれる家臣団が組織され、
地域の武士たちが後北条氏の支配に組み込まれていった。
後北条氏は城を中心に家臣団をまとめ、
それぞれの地域を支配する仕組みを築いた。
 
現在は「小机城址市民の森」として整備されているが、
竹林の中には空堀や土塁がよく整備されており、
都市のすぐ近くに戦国時代の城郭が残されていることに驚かされる。
 
一つの地域を治める政治・軍事の中心であった城
ここは **小机城である。
 
2022年10月1日
日本100名城 No.125 小机城公式スタンプ取得

御城印は横浜市歴史博物館にて拝受

長浜城 ― 駿河湾を守った北条水軍の城

長浜城 伊豆の海上警備を重視した城(静岡県沼津市)

**長浜城は海を守るための城だった。
 
城は内浦湾に突き出した小さな丘陵に築かれ、すぐ眼下には重須湊がある。
 
後北条氏は相模湾や江戸湾だけでなく、伊豆の海上交通も重視していた。
 
三崎や浦賀には **三浦水軍を置き、
伊豆では水軍を組織して駿河湾に備えた。

その重要な拠点の一つが重須湊と長浜城だった。
 
戦国後期、駿河へ勢力を伸ばした武田氏と後北条氏の関係は悪化する。
 
陸上では国境の城をめぐって争い、海上では水軍同士が対峙した。
 
1579年には、北条水軍を事実上統率していた **梶原景宗が長浜城に置かれ、
翌1580年には **武田水軍と **北条水軍による駿河湾での戦いが勃発した。
 
長浜城の曲輪は、海へ向かって段々に配置されている。
 
規模は滝山城ほど大きくないが、海上を監視し、船を動かし、港を守るためには極めて合理的な立地である。
 
城から見える海そのものが、巨大な「道」だったのである。
 
戦国時代の物資や兵員は、陸路だけで運ばれたわけではない。
 
船を使えば大量の物資を一度に運ぶことができる。
海上交通を支配することは、戦争だけでなく領国経営にも重要だった。
 
1590年、**豊臣秀吉による小田原攻めが始まると、
**北条水軍の主力は小田原方面へ集められ、
**長浜城は水軍基地としての役割を失っていった。
**韮山城の開城とともに廃城になったと考えられている。
 
後北条氏の百年の歴史が終わったとき、役目を終えた海の城――
ここは **長浜城である。
 
 2022年10月1日 
名城指定ではないため公式スタンプなし

御城印は沼津観光案内所にて拝受

小田原城の「ネットワーク」を形成した三つの城を巡って


滝山城、小机城、長浜城。
 
三城は、場所も姿も大きく異なる。
 
**滝山城は、武蔵西部を支配し、甲斐からの侵攻に備えた巨大な土の城。
 
**小机城は、小田原と江戸方面を結ぶ交通路を押さえ、
周辺の家臣団をまとめる南武蔵の拠点。
 
**長浜城は、重須湊と駿河湾を守り、水軍を動かす海の城だった。
 
三城を並べてみると、後北条氏の強さが単に小田原城の巨大さだけにあったのではないことが分かる。
 
領国の要所に城を置き、そこへ一族や家臣を配置する。
 
その城を中心に地域の武士や村々をまとめ、道や港を押さえる。
 
そして敵が侵入すれば、それぞれの城が防衛の拠点となる。
 
こうした支城の連携が、小田原城を中心とする広大な領国を支えていた。
 
前回訪ねた小川城・石脇城・興国寺城の時代、
北条早雲はまだ駿河から伊豆へ歩み出そうとしていた。
それから約百年。
 
後北条氏は関東屈指の戦国大名へ成長し、
小田原城を中心に数多くの城を結ぶ領国を築き上げた。
最盛期には伊豆・相模・武蔵を中心に、
下総や北関東へも勢力を広げている。
 
しかし1590年、豊臣秀吉の大軍が関東へ侵攻すると、
その支城ネットワークも次々と崩れていく。
 
鉢形城、八王子城、韮山城などが相次いで豊臣方の攻撃を受け、
最後には小田原城も開城した。
 
城は、一つだけでは領国を守れない。
 
三つの城を巡ると、後北条氏が五代百年をかけて築いたものが、
単なる巨大な城ではなく、人と土地、道と海、そして数多くの城を結んだ領国そのものだったことが見えてくる。
 

 

いいなと思ったら応援しよう!