水彩画と御城印で巡る日本の名城9          天下布武の影 滅びの城

織田信長に滅ぼされた城――小谷城・一乗谷城・観音寺城をあるいてみた

 「天下布武」という四文字は、光に満ちている。
しかし、その光が強ければ強いほど、
濃い影もまた生まれる。
 
織田信長は、城を変えた。
清洲で力を蓄え、岐阜で天下を宣言し、安土で権威を可視化した。
だがその歩みは、同時に多くの城を終わらせた歩みでもあった。
 
それらは信長の前に立ちはだかり、
そして消えていった。
 
近江の観音寺城は、室町秩序を支えた六角氏の城。
越前の一乗谷朝倉氏遺跡は、城下町ごと栄えた文化都市。
そして小谷山の小谷城は、同盟と裏切りの果てに崩れ落ちた山城である。
 
信長は城を築いた。
だが同時に、城の時代を終わらせた。
 
天下布武とは、武をもって天下に布くという宣言である。
それは既存の権威を退け、旧い秩序を壊すことを意味した。
 
山城が落ちるとき、
守護大名の城が崩れるとき、
戦国という長い混沌は終わりに近づいた。
 
安土の石垣が輝くその裏側で、
多くの城が静かに土へと帰っていった。
 
そこには、革命の代償と、
時代が進むということの厳しさが刻まれている。

小谷城――浅井三代の終焉を迎えた城

小谷城 浅井の歴史を重ねた城-浅井長政と市(滋賀県長浜市)

山は、最後まで抗った。
 
近江国小谷山に築かれた小谷城は、戦国屈指の山城である。
急峻な尾根に曲輪を連ね、大堀切を刻み、尾根筋を巧みに遮断する構造。
地形と一体化した防御は、山城の完成形ともいえる。
 
この城は、浅井氏三代の本拠であった。
祖父・浅井亮政が勢力を伸ばし、
父・浅井久政が守り、
そして孫・浅井長政の代に最盛期を迎える。
 
三代にわたり築かれ、拡張され、整備された城であった。
長政は当初、織田信長と同盟を結び、妹・お市の方を妻に迎えた。
だが信長が越前の朝倉氏を攻めたとき、長政は旧恩を重んじて信長に背く。
 
山は堅固だった。
浅井氏の歴史が積み重なっていた。
だが信長は包囲と分断で追い詰める。
 
1573年、小谷城は落城。
長政は自刃し、城は焼かれた。
三代続いた本拠は、ここで終わる。
 
尾根に立つと、曲輪が段々に続く様子がよくわかる。
それは、家の歴史そのもののようだ。
上へ上へと積み重ねられた時間。
 
だが、時代の転換には抗えない。
安土城が未来を示す城なら、
小谷城は積み重ねた過去が崩れた城である。
 
天下布武の光の裏で、
三代の歴史は静かに終わった。
 
信長という存在の強さと、
時代が進むことの残酷さを、いまも山上で語っている城――
ここは**小谷城**である。
 
2022年5月3日
日本100名城 No.49 小谷城公式スタンプ取得

小谷城戦国歴史資料館にて御城印を拝受


一乗谷城――朝倉五代100年の歴史を閉じた城

一乗谷城 室町の雅を再現した都市空間(福井県福井市)

城が落ちるとき、
それは一族だけでなく、ひとつの時代が終わる瞬間でもある。
 
越前に広がる一乗谷朝倉氏遺跡は、戦国大名朝倉氏五代の本拠であった。
朝倉氏は応仁の乱(1467年)を契機に勢力を拡大し、
越前へと地盤を固める。
そして一乗谷を政治の中心と定め、山上に一乗谷城を構え、
谷あいに館と城下町を整備した。
 
以後、五代にわたり越前を支配。
一乗谷は北陸随一の政治・文化の中心地として繁栄した。
 
谷を流れる川沿いに武家屋敷や町屋が整然と並び、
寺院が建ち、庭園文化が花開く。
京から公家や文化人を招き、
室町の雅を地方に移したかのような都市空間が形成された。
戦乱の世にあっても、一乗谷には秩序と洗練があった。
 
当主は朝倉義景。
しかし、その繁栄は永遠ではなかった。
 
天下布武を掲げる織田信長にとって、
朝倉氏は越前の要であり、
反信長勢力の柱でもあった。
浅井氏と結び、信長に対抗する存在となったとき、
一乗谷の運命は決まる。
 
1573年、信長軍は越前へ侵攻。
朝倉氏は敗れ、一乗谷は炎に包まれた。
山城だけでなく、城下町ごと焼き払われる。

復元された町並みを歩くと、
整然と区画された道路、庭石、井戸の跡が残る。
そこには確かに人の暮らしがあった。
 
応仁の乱から始まった地方大名の時代は、
この谷で静かに幕を閉じた。
 
天下布武の光は、
新しい秩序を生むと同時に、
古い秩序を焼き尽くす光でもあった。
 
信長の決断の大きさと、
時代が変わるということの残酷さを、いまも物語っている城――
ここは**一乗谷城**である。
 
2022年6月49日
日本100名城 No.37 一乗谷城公式スタンプ取得

一乗谷朝倉氏遺跡復原町並受付にて御城印を拝受


観音寺城――室町以来続いた守護体制の終焉を迎えた城

観音寺城 戦国動乱の犠牲になった城(滋賀県近江八幡市)

山は静かに、主を失った。
 
近江・繖山(きぬがさやま)に築かれた観音寺城は、
南近江を支配した佐々木六角氏の本拠である。
守護大名として室町幕府を支えた名門は、
代々この山城を拡張し、尾根筋に曲輪を連ね、
石垣を築き、広大な城域を誇った。
 
しかし、1568年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始する。
進軍路に立ちはだかったのが、六角義賢(承禎)・義治父子であった。
だが戦う前に六角氏は山城を捨て、
観音寺城は事実上、戦わずして放棄される。

信長の進軍は、山城の防御を無力化した。
包囲し、兵糧を断ち、圧力をかける。
山に籠もるだけでは支配を維持できない時代へと移っていた。
 
観音寺城の放棄は、
一大名の敗北以上の意味を持つ。
 それは室町以来続いた守護体制の終焉を意味した。
 
天下布武の影のもと、
守護大名の城は静かに山へ帰った。
山は今も広い。
だが、そこに守護の旗が翻ることは、二度とない。
 
信長が壊したのは城だけではなく、
制度そのものであったことを語る城――
ここは**観音寺城**である。
 
2022年4月30日
日本100名城 No.52 観音寺城公式スタンプ

観音正寺 社務所にて御城印を拝受


織田信長に滅ぼされた三つの城を巡ってみて

小谷山に登ると、尾根に連なる曲輪が静かに続いている。
三代にわたり浅井氏の本拠であった小谷城。
堅固な山城は、守るために磨かれた構造の集大成だった。
だがその完成度は、
包囲と分断を徹底した信長の前では意味を持たなかった。
ここで崩れたのは、一大名の城であると同時に、
「山城の時代」でもあった。
 
越前の谷に下りれば、景色は一変する。
整然と復原された町並みが広がる一乗谷朝倉氏遺跡。
応仁の乱を契機に台頭した朝倉氏は、五代にわたり越前を支配し、
北陸随一の政治・文化都市を築いた。
だが1573年、その城と城下町は炎に包まれる。
ここで終わったのは、室町以来の文化秩序だった。
 
そして近江の繖山。
広大な山城観音寺城は、守護大名六角氏の威信を示す城であった。
だが信長の上洛に際し、戦う前に放棄される。
堅固な石垣も、広い曲輪も、時代の流れを止めることはできなかった。
ここで崩れたのは、守護体制そのものだった。
 
天下布武の光は、新時代を照らすと同時に、
旧い秩序を焼き尽くす光でもあった。
 
滅びの城は敗者の記録ではない。
それは時代が動いた痕跡である。
信長が築いたものの大きさと、
失われたものの重さが、同時に胸に迫る。
 
革命とは、
何かを築くことと、
何かを終わらせることが、
ひとつの出来事であるということなのだ。

※次回は、天下人に駆け上がった、
豊臣秀吉の軌跡を巡ってみたいと思います。


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