「審美眼の深さ」が、作品の限界になる
AIの進化によって「誰でも作品を作れる時代」が来たとよく言われます。
でも、それは本当に“作品”と呼べるのでしょうか?
この時代に表現者が問われる、本当の力について考えてみました。
──AI時代は、芸術家の時代になるか?
AIの進化は想像以上に速く、
「誰もが表現者になれる時代だ」とよく言われるようになった。
確かに、そう言えるかもしれない。
画像生成AI、音楽生成AI、文章生成AIなど、
手間も才能もなく、コンテンツを「出力」することはできるようになった。
けれど私はそこに、ひっかかりを持っている。
たとえば、AIに音楽を作らせてみる。
出てくるものは、整ってはいる。
悪くない。
でも、心に残らない。
それはなぜか?
AI自体が発展中だから、などの理由もある。
けれど、私は次のように考えている。
AIに音楽をつくらせているのは人間であり、
AIが作ったものをそのまま流すだけでは、面白い作品にはならない。
そこには、人間の審美眼が必要だから。
■ 審美眼とは?
「何が良くて、何が美しくて、何が必要で、何が不要か」を見抜く力だ。
この力は、偶然に身につくものではない。
AIにお願いして、いくら作品を出してもらったとしても、
審美眼が不足していれば──
美しい部分を見落としてしまう
醜い部分を無自覚に採用してしまう
そんなことが起こる。
これはつまり、
自分の審美眼の深さの限界が、作品の限界になるということだ。
審美眼は、長い時間をかけて磨かれていくものだ。
自分の感性と向き合い、数多の作品に触れ、
自らも作り、壊し、悩み続けてきた人間にしか、宿らないものだ。
つまり──
深い審美眼を持っているかどうかは、
芸術家であるか、あるいは芸術家のように生きてきたかによって決まる。
いいかえれば、今の時代は、
審美眼を持たないまま表現を始めることができる時代とも言える。
その結果、ネットには**“ノイズのようなコンテンツ”**があふれるようになった。
しかし、ノイズは やはりノイズであり、
人間の自然に反している弱さを宿している限り、
消えていくことになるだろう。
■ これはチャンスでもある
同時に、これは審美眼を持つ者にとってのチャンスとも言える。
AIという強力なツールからの出力を、
「正しくエディットできる」力があるからだ。
審美眼が深く、発想もあるのに、
末節のスキルがないばかりに損をしている人はたくさんいる。
私は音大出身ではない。
音大出身者には、積み上げただけの審美眼の深さを感じることが多いが、
失礼ながら、不釣り合いなほど例えば機材に関することなど末節のスキルが大幅に不足しているような方も一定数いらっしゃる。
でも、こういう方たちには明らかに追い風となり、
ご本人の意思次第で、
美しくかつ現代的な音響技術を駆使した音楽を生み出せるようになると思う。
この新しい世界で本当に活躍できるのは、
AIを“使える人”ではなく、
AIの出力を見極め、削り、選び、意味を与えられる人間、
つまり──
芸術家の時代がやってくるということだ。
■ 表現の本質とは?
表現の本質は、アウトプットではなく、
その前段階に存在する、選びとり、編集し、命を吹き込むことにある。
その能力を持つ人間が、
つまり審美眼を深めた人間が、
今後の表現の世界で本当の意味で活躍していくだろうと思う。
私は、そう信じている。
