『舟の行方』
この港では記録しないのだという。
出ていった舟の数も、戻ってきた舟の数も、誰も数えたことなどないらしい。
ただ、桟橋だけが送り迎えをするかのように佇んでいる。
濡れていて、乾いていて、
ときどき、誰かの足音の形だけが沈んで。
人がそこに立つと、しばらく海を眺める。
桟橋では、時間の輪郭がゆるくなる。
舟はいつも、勝手に動いているようだった。
あるものは速く、
あるものは遅く、
あるものは、途中で向きを忘れたみたいに揺れる。
誰かの指示はない。
声をかける者もいない。
桟橋には古い双眼鏡が無造作に置かれている。
使う者もいれば、 そのまま置いていく者もいる。
覗いたあと、何も言わず、元に戻す人もいる。
ある日、私はそれを覗いた。
遠くに舟があった。
近づいているようにも見えたし、離れているようにも見えた。
覗くたびに、少しだけ違って見えた。
隣に立っていた漁師の老人は、同じ方向を見ていたはずなのに、違うことを言った。
「戻っているな」
「出ているね」
どちらも、否定することはなかった。
舟の影が揺れ、これまでと違う動きを始めた。
潮目が変わったのだろう。
舟の影は、いったん薄くなり、そのあと、また現れた。
何かが決まったわけではないのに、見え方だけが変わっていく時間がある。
桟橋の木にはときどき、文字が残っている。
とても短い言葉。
「ここで見た」
「動いていた」
「見失った」
次に来た人は、それを読んだり読まなかったりする。
言葉通りに見えることがある。
あるいは、違う形で見えることもある。
それでも、誰も訂正しようとはしない。
港はずっと同じ場所にあるのに、訪れるたび少しだけ違っている。
舟は戻るのかもしれないし、最初から戻るという概念がないのかもしれない。
潮がそれを少しだけずらしてしまう。
桟橋の木は、いつも何も言わない。
ただ、濡れている場所だけがいつも違う。
「ここには——」
言いかけたものは舟の光が遮った。
そのあと、舟がどこへ向かったのか分からなくなった。
