【怖い話】夏祭りの面【現代陰陽師シリーズ】
妹から久しぶりに連絡が来たのは、七月の終わりだった。
「ねえ、お兄ちゃん。来週の土曜、空いてる?」
「たぶん。なんで?」
「夏祭り、一緒に行かない?」
「友達と行けばいいだろ」
「予定が合わないんだって。それに、たまには兄妹で出かけてもいいじゃん」
桜乃がそう言うときは、だいたい何か企んでいる。
「浴衣、用意してあげるから」
「やっぱりそれか」
妹の中村桜乃は大学生で、昔から服や衣装を作るのが好きだった。最近では、自作した衣装でコスプレイベントにも参加しているらしい。
「そうだ。お兄ちゃんがよく話すあの人も誘ってみてよ」
「あの人?」
「ほら、陰陽師だっていう」
「ああ……紬な。あいつ、こういうイベントに来るかな」
「いいから誘ってみてよ。陰陽師姿、見てみたい!」
「……何を想像してるのか知らんが、あいつの服装は普通だぞ。平安時代の狩衣みたいな格好をしているところなんて、一度も見たことない」
「えーっ……残念」
その数日後、俺は駅前の喫茶店で桜乃と紬を引き合わせた。
「初めまして。中村桜乃です」
「芦原紬です。奈央樹から話は聞いているよ」
「変なこと話してないでしょうね、お兄ちゃん」
「失礼なことは言ってない」
「『失礼なこと』限定なの、怖いんだけど」
紬はいつものように笑っていたが、桜乃の顔を見た瞬間、ほんのわずかに目を細めた。
「どうした?」
「いや……何でもないよ」
気のせいかと思い、その場では深く考えなかった。
祭りの話をすると、紬は意外にもあっさり頷いた。
「僕も行っていいの?」
「もちろんです!でも、紬さんも浴衣を着てくださいね」
「浴衣なら持っているよ」
「持ってんのか!」
桜乃より先に、俺が声を上げた。
「夏に浴衣を着るのは好きなんだ」
「意外だな」
「どうして?」
「浴衣より作務衣とか着てそうだから」
「あれはあれで良いと思うけどね」
祭り当日、桜乃が用意した紺色の浴衣を着せられ、俺は待ち合わせ場所へ向かった。
先に来ていた桜乃は、淡い桜色の浴衣を着ていた。帯には、小ぶりな扇子が差してある。
少し遅れて現れた紬も、濃い灰色の浴衣姿だった。着慣れているらしく、俺よりよほど自然に見える。
「本当に普通なんですね」
桜乃が少し残念そうに言う。
「普通ではない服を期待されていたのかな」
「烏帽子とか」
「祭りに被ってきたら目立つだろ」
三人で話しながら神社へ向かった。
祭りは地元の小さなものだ。境内と参道に屋台が並び、提灯の明かりの下を家族連れや浴衣姿の学生たちが歩いている。
「私、ここのお祭り好きなんだ」
桜乃が言った。
「そんなに大きいわけじゃないけど、雰囲気とかね。ここの神社にも、たまに来るんだよ」
「そうだったか?」
「お兄ちゃん、昔からこういう場所に興味なかったじゃん」
桜乃は子どもの頃、母に連れられて毎年この祭りへ来ていたらしい。
その話を聞きながら、紬は境内の奥へ目を向けていた。
「何かあるのか?」
「いや。いい神社だと思って」
そう答えたものの、その横顔は少しだけ硬かった。
屋台を見て回り、焼きそばやかき氷を買った。
俺が財布をしまっていると、隣にいたはずの桜乃がいない。
「桜乃?」
少し先の人混みに、桜色の浴衣が見えた。
誰かを追いかけているようだった。
ふとした拍子に、帯へ差していた扇子を落とした。
拾おうとした桜乃より先に、小さな男の子がそれを手に取った。
「あ、ありがとう」
桜乃が手を伸ばす。
しかし、男の子は扇子を抱えたまま駆け出した。
「あ……ちょっと待って!」
子どもは人の間をするすると抜けていく。
浴衣姿ではうまく走れない。桜乃は裾を気にしながら、必死にその背中を追った。
男の子は何度か振り返った。
返すつもりがあるのか、ただ桜乃が追ってくることを確かめているのか分からない。
気がつけば、参道の明るい場所から外れていた。
屋台の明かりも祭囃子も、木々の向こうへ遠ざかっている。
「どこに行ったの……?」
立ち止まった桜乃の前で、木の影が動いた。
少年が立っている。
手には、桜乃の扇子。
その顔には面がつけられていた。
屋台で売られているような薄いセルロイドのお面ではない。
黒ずんだ木を彫って作った、何の顔とも分からない面だった。
少年は手にしていた扇子を足元へ落とすと、木々の奥へ走り去った。
「なんなのよ、もう……」
桜乃は扇子を拾った。
元の道へ戻ろうと振り返った桜乃の目の前に、いつの間にか少年が立っていた。
その瞬間、右手首を掴まれた。
「え……?」
小さな手が、桜乃の手首を握っている。
「放して」
振りほどこうとしたが、びくともしない。
子どもの力ではなかった。
まるで巨大な岩にでも掴まれているように、腕を引いても、指を一本ずつ外そうとしても動かない。
「ちょっと……痛いって!」
少年は何も言わない。
木彫りの面が、ただ桜乃を見上げている。
人混みの間に、兄の姿が見えた気がした。
「あ、お兄ちゃん!」
奈央樹は背中を向けたまま、人の流れの中に立っている。
「お兄ちゃーん!」
振り返らない。
聞こえていないのだろうか。
もう一度呼ぼうとして、桜乃は口を閉じた。
おかしい。
兄の足が、地面から浮いていた。
いや――浮いているのではない。歩き出そうとした瞬間のまま、止まっているのだ。片足を上げ、身体を少し前に傾けた姿勢で、時間だけが凍りついたように。
「え……?」
よく見ると、奈央樹だけではなかった。
周りを歩いていた家族連れも、屋台の前で並んでいた学生たちも、みな同じだった。歩きかけの姿勢のまま、指先ひとつ動かない。
屋台の店員は、金魚すくいのポイを客へ差し出した格好で止まっている。客の女の子は、そのポイに手を伸ばしかけたまま。二人の間に、時間だけが通っていない。
風は吹いているはずだった。
なのに、頭上に並ぶ提灯は一つも揺れていない。ろうそくの炎さえ、静止した絵のように動かなかった。
「うそ……」
桜乃は自分の声で確かめようとした。
が、出したはずの声が、驚くほど近くから聞こえた。反響しない。祭りのざわめきに紛れて消えるはずの声が、まるで狭い部屋の中で喋っているみたいに、すぐ耳元で潰れて終わる。
試しに、もう一度叫んでみた。
「だ、誰か……!」
声は届かない。人々の誰も振り向かない。
それどころか――誰も、瞬きすらしていないことに気づいた。
開いたままの目。止まったままの表情。楽しそうに笑いかけていたはずの顔が、今はただの作り物のように固まっている。
境内を満たしていたはずの祭囃子も、太鼓の音も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
静かすぎる。
自分の呼吸の音と、心臓の音だけが、やけにはっきりと耳の奥に響いていた。
「な、なんなの、これ……」
振り返ると、木彫りの面をつけた少年が、すぐ後ろに立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
面の奥、目のくり抜かれた穴の向こうに、何かが動いた気がした。
それが自分を見ているのか、それとも別の何かを見ているのか、桜乃には分からなかった。
白いものが、視界の端を横切った。
風に乗って飛んできたのは、人の形に切られた小さな紙だった。
紙のヒトガタはくるくると回り、少年の足元へ落ちる。
「え……?」
その瞬間、手首を掴んでいた力がふっと抜けた。
周囲の時間が動き出す。
人々の話し声。
祭囃子。
風に揺れる提灯。
少年は桜乃を掴んでいた手を宙に浮かせたまま、ただ立っていた。
「だめだよ。そんなことしちゃ」
少年の手を、上から優しく押さえる者がいた。
「紬さん……」
いつの間にここへ来たのだろう。
紬は面をつけた少年を見ても、少しも動じていなかった。
「さあ、君の場所へ還ろうか」
少年の身体が揺らいだ。
夜風に流される煙のように、その姿が薄れていく。
最後まで残った面が宙で傾き、
カラン、カララン。
乾いた音を立てて地面へ落ちた。
紬がお面を拾い上げる。
「紬さん、あの子、いったい……」
「紬!」
石段を駆け上がってきた俺は、その場に立ち止まった。
「桜乃、いたか!? ……っ、ハァ、ハァ……」
桜乃の無事を確かめ、ようやく息を吐く。
紬は木彫りの面を手に、俺たち兄妹へいつもの笑顔を向けた。
「さて……神主さんのところへ行こうか」
社務所で話を聞いた神主は、面を見るなり目を見開いた。
「これは……」
桜乃と紬が、これまでに起きたことを説明した。
といっても、はっきり分かることなどほとんどない。
神主はしばらく面を見つめた後、桜乃へ顔を向けた。
「君はたしか……お母さんに連れられて、神事を見に来ていなかったかね」
「え……知ってるんですか?」
「神事を見ながら、元気にはしゃぐ女の子がいたのを思い出してね。その頃の面影があるよ」
昔、この神社では祭りの夜に、木彫りの面を使う神事が行われていたという。
桜乃が中学生になる前、担い手がいなくなったことで途絶えた。
使われていた面も、いつの間にか所在が分からなくなっていたらしい。
「そういえば……」
桜乃が面を見つめる。
「小さい頃、このお面を見た気がします」
神主は立ち上がると、面を本殿へ運んだ。
柱の上を渡る長押へ、木彫りの面をそっと立てかける。
「祭りの間は、ここへ出すようにしましょう」
紬は穏やかに頷いた。
「ええ。それがいいと思いますよ」
祭りの間だけでも表へ出て、人々の姿を見ることができる。
それなら、もう誰かを追いかける必要もないのかもしれない。
神主がお面を整えている間に、紬がそっと指を組んだ。
印を結んだのだと気づいたのは、俺だけだった。
「どうだ?」
「うん。もう何も感じないよ」
紬が小さく答えた。
少し離れた場所で、そのやり取りを桜乃は静かに見ていた。
少年の前へ舞い降りた紙のヒトガタ。
誰にも気づかれないように結ばれた印。
あの出来事を思い返すたび、さっきまで現実味がなかったものが、少しずつ実感へと変わっていく。
「……本当に陰陽師なんだ」
思わず漏れたその声は、小さすぎて誰にも聞こえなかった。
そこへ、お面を飾り終えた神主が戻ってきた。
「ところで、さっきの話ぶり……君は神社のことについて詳しいようだね」
「失礼。申し遅れました」
紬が一礼する。
「芦原紬と申します」
「芦原……もしや、岩手にある……」
「今は、ただのカレー屋店員ですが」
「そうか。あそこは継がないのかい」
「僕なんかより優秀な姉がいますので」
隣で聞いていた俺は、思わず紬を見る。
姉がいることも、実家が神職の間で知られていることも初耳だった。
神社を出ると、祭りは終わりに近づいていた。
桜乃が紬の隣へ並ぶ。
「ねえ、紬さん」
「ん?」
「今度、陰陽師の格好してみません? 私、作ります!」
「え?つ、作る?」
「すまん、紬。桜乃、こういうことが好きで」
「任せてください! 烏帽子とかもバッチリ用意しますんで!」
「あ、アハハ……ええっと」
「そして、イベントに出ましょう! 私、合わせで巫女やりますから」
「い、イベント?」
助けを求めるような紬の視線に、俺はため息をついた。
「……コスプレイベントだ」
境内の奥では、あの木彫りの面が静かに祭りを見下ろしていた。
(終)
