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ビリケンさんの謎

 ビリケンさんは日本では通天閣(大阪・新世界)がほぼ唯一だと思っていた。確かアメリカで考案された神さんで、大阪での第五回勧業博覧会(明治36年)の跡地利用の時に「ルナパーク」というアメリカのテーマパークと一緒に輸入された、という程度は知っていた。商社・田村駒が商標を持っている。「ビリケン音頭」もある。
 内国勧業博覧会はそれまで東京で三回、四回目が京都で開催されていた。そしてこの明治36年の大阪で最後となった。
 2003年1月の朝日新聞紙上で切り絵の成田一徹氏が神戸・兵庫区の松尾稲荷神社のビリケンさんを紹介してあるのを見て驚いた。それはあの愛嬌のあるビリケンさんではなく、カレーパンマンとハクション大魔王と笑うセールスマンを足して踏んづけたような異形をしているではないか。しかし確かにビリケンさん。
 松尾稲荷神社に行くと、神戸のビリケンさんは「松福様」とも命名されて、社の一番奥に鎮座ましましておられた。通天閣5階のビリケンさんよりも何まわりも大きく、木製か鋳物製か、黒光りしていた。顔は切り絵で見るよりも優しい。
 「松福様」は、米俵の上に座り、右手に打出の小槌、左手に宝珠を持ち、バックには大きな小判が配されている。要するに神戸では頭巾と袋はないが、大黒さんバージョンで祀られていたのである。短いが放り出した足の裏が隠れる位の涎掛けも付けており、お地蔵さんチックでもある。「宝珠」について、成田氏は「左手に瑞玉(みずたま)を持ち」と書いている。
その後同じ兵庫区内(西出町)の鎮守稲荷神社で昭和5年製の木製ビリケンさん像が発見された。ガラス越しに見学できる。松尾稲荷のは大正中期製と見られる。兵庫区の西出町と東出町でのビリケンさんの揃い踏みである。
2007年5月19日、新開地で成田一徹さんに初めてお会いした。神戸アートビレッジセンター(KAVC)にて成田一徹展をされた。それまで面識はなかったが、間接的に知っていた成田さんを私がKAVCにご紹介して展覧会が実現、という関節技をしたのだ。成田さんに会えばビリケンさんの話をしようと思っていたのであったが舞い上がっていたのか、何も聞けなかった。成田さんはその前週に大阪・守口のバーボンバー「呂仁」の巽マスターと神戸で飲んだという。残念ながら成田一徹さんは2012年に逝去された。
 ビリケンさんは、明治41(1908)年にミズーリ州カンザス市の美術家フローレンス=プリッツ女史が夢のお告げに従って彫刻したのが最初だという。ということは2028年にはビリケンさん誕生120周年となる。
翌年に27代大統領となったタフト氏のあだ名が「Billy」だったことから「Billiken」と名付けられたというのが通説。同年からシカゴのHorsmanという人形メーカーがビリケンさんの人形を売り出したという。関連が深そうなキューピーさんよりも早く誕生していることになる。
 キューピーさんはヴィーナスの子キューピッドを模したもの、と分かる。安野光雅の『算私語録その2』(朝日新聞社)には、大正3年発行の本から「裸體に翼を負へる盲目の小児」と紹介されてあるが、ギリシア神話にそういう説でもあるのだろうか。
 ビリケンさんには他に、中国の「Joss」という神さんを模したとか、アラスカのエスキモーのHappy-Jackの「ベリケン」という置物が元祖だとかという説もある。後者は『招福縁起物大図鑑』という本に載っているようだし、米国の研究者もウエブ上で発表している。
 神戸のビリケンさんは、大正の初めに神戸・福原の洋食屋が客寄せの為に作ったものが、松尾稲荷に奉納されたもの。神戸っ子は大阪・新世界より前からあったと考えている人も多い、という。
 しかし橋爪紳也氏などの本を見ると、上述の様に勧業博覧会跡地を「新世界」と名付け、ルナパークと初代通天閣(75m、明治45年~昭和18年)がオープンした時にビリケンさんも居たということになっている。その年の7月末には大正に入るので、新世界で祀られてすぐに神戸、が順当なところか。大正の宰相・寺内正毅は頭が尖っていたか、「ビリケン首相」と云われたという。
 その後、船場の橋爪紳也さんの事務所に伺った(2005年)際、私が映画「ビリケン」の時に買ったビリケンさん人形を鞄に付けていたのを見られて「あんた変わってるわ~」と言われた。橋爪さんのコレクション棚にも同じものが鎮座していた。
 初代通天閣は土台が巴里の凱旋門、上がエッフェル塔、そこから放射状に道を作った。ルナパークはアメリカのテーマパーク。香港のタイガーバームガーデンもあっと驚く国際性である。初代通天閣は昭和18年に失火により解体され、国(軍)に鉄を供給したそうだが、本当だろうか。私は単に空襲の標的になる事を避けて解体したのだと思うが。知らんけど。
 そのビリケンさんは、初代通天閣の中に居たのではなく、ルナパーク内のホワイトタワーという建物の中に「ビリケン堂」が祀られ、鎮座していたということである。
 日本のルナパークは、明治43年、東京の浅草六区に出来たのが最初。ルナパークと共にビリケンさんも輸入されたとすると、大阪よりも先に浅草六区にビリケンさんが居た、とする考えは成立しないだろうか。私は浅草にも居た、と見る。浅草のルナパークは火災が原因で8ヵ月で閉園したが、大阪のルナパークが明治45年開業なので、浅草の方が先ではないか。
 その後に読んだ高峰秀子の『人情話 松太郎』(文春文庫)に川口松太郎の貴重な話が掲載されている。曰く浅草で、「そして一四歳のときに(中略)お前さんビリケンって知ってるかい?(中略)金物で出来て、ちっぽけな人形だ。西洋の福の神って書いてあったな。(中略)俺はそのビリケンとくろもじ屋の間が空いてたからそこへゴザ敷いて本を並べたんだ」とある。浅草寺の伝法院脇の塀際に古本を並べて売っていた時分のことだ。川口松太郎は明治32年(1899)生まれなのでこの話は大正元年辺りか。ビリケンさんが金属製であったなどと具体的である。
 初代通天閣と同じ明治45(1912)年に開園した大阪のルナパークは、大正12(1923)年に閉園した。
 北原白秋の「東京景物詩」に「ルナアパークの道化もの」という件がある。
 大阪・新世界のルナパーク、初代通天閣が無くなり、ビリケンさんも忘れ去られた。現在の二代目通天閣(103m、昭和31年~)が出来てもビリケンさんは帰ってこなかった。ルナパークにあった初代ビリケンさんはどこへ行ったのか。初代通天閣の写真は当時の絵葉書等が比較的入手し易いが、私は「初代ビリケンさん」の写真は今まで見たことが無い。
 初代春団治の落語「八問答」には「今、ピリケンさんに信心してんねん」と出てくる。この録音は昭和初期のものなのだが、「八問答」には「おひさん(太陽)」が神戸辺りで泊まっているかも知れないので聞いてみる、という件がある。私はこの「ピリケンさん」は神戸のビリケンさんの可能性もあると見ている。初代春団治は、新開地にあった劇場、「聚楽館」や寄席の「神戸松竹座」、兵庫の寄席「パレス」などに出入りしていたものと思われる。初代春団治に存外と神戸ネタが多い事については別途単独で研究に値するテーマである。
 大阪人は「ビスケット」を「ピスケット」と云ったり、「ビンタ」のことを「ピンタ」と云ったりする。大阪では当時からビリケンさんはピリケンさんとも呼ばれて居たかも知れない。ビリケンさんのことを「ビリケン」と呼び捨てにする人が居るが、嘘でも神さまを呼び捨てはないだろうと思う。尤も今や「ビリケン」という音楽グループも居るので、呼び捨ても止む無しか。
 昭和54(1979)年、通天閣の3階を多目的に使うこととなった時にビリケンさんを復活させることとなった。商標元の田村駒社にあった「ビリケン」を参考に復元させたものが現在のものという。田村駒社にあるビリケンさんとはいつのどんなものなのか。
 映画「哀愁」(1940)ではラストでロバート=テイラーが、ビリケン人形を握りしめるというシーンがある。
 私には阪妻の映画「王将」に出てくる初代通天閣が忘れられないが、あれが実写であるとすると貴重な映像資料だと思う。阪本順治監督の映画「ビリケン」が完成した年、「王将」の作者北条秀司が逝った。阪本監督には新世界を舞台にした「王手」という映画もある。「どついたるねん」と共に「新世界三部作」だ。
 とまれ、大阪人として常にビリケンさんのことは気にかかる。
神戸・兵庫区に諸田茂さんというビリケンさんの収集家で研究家の方が居られるという。会いにいかねば。
 新世界のルナパークに居た初代ビリケンさんはどこかで現存していて、こそっとこの世間を笑っている様な気がする。
 
吉川公二

底本:「滑稽時評」(2003年、ウエブ電藝)

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