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デスカフェ参加の感想と感慨~「死」を語らう事は自分を知ることに繋がるか~

『デスカフェ』という言葉がある。

言葉自体を知ったのは、ほんの数年前。
死についてネット検索をしていた際、ふと目に入ったものだった。

インパクトを持たせたいカフェの店名か何かか・・・と思い、その時はそのままスルーした。

が。
数日たっても「デスカフェ」という単語が、どうにも頭のすみにひっかかったままだったので、けっきょく調べてみることにした。



『デスカフェ』とは?

『デスカフェ(Death Cafe)』とは、いったい何なのか?

「デスカフェ」は、カフェ(店名)ではなく”カフェやレストランでお茶を飲んだりしながらカジュアルに「死」について語り合うイベント”のこと。欧米を中心に密かなムーブメントが起こっており、近年は日本にも上陸している。

調べてみて最初に抱いた感想は「意外と安直だ」
そして、「なんだかおもしろそうだ」の2つだった。

デスカフェの起源は、スイスの社会学者バーナード・クレッタス(Bernard Crettaz)氏が、1999年に妻が亡くなったことをきっかけに、死について語り合う場を思いついたことから始まったと言われている。

イギリスの社会起業家ジョン・アンダーウッド(Jon Underwood)氏が、2011年に『deathcafe.com』を立ち上げ、デスカフェ開催のガイドラインを公開したことから、世界中に広まった。

現在、世界70カ国以上で10000回以上のデスカフェが行われており、日本では、参加する世代が実に幅広く、形式も様々に独自の発展を見せている。
との事。


意外や意外。
国教がないからか、死に関わる事が忌事と扱われているからか。

家族はおろか、自分の死について身近な人間に話すこともためらわれる日本で、そんな文化が根付いていようとは。
とても意外だった。


相続の話、老後の話、延命の話、死に方の話、葬式の話。
そんな話題を振ろうものなら
「そんなの今決めなくてもいいじゃない」
「どうでもいいじゃないか。その時になって考えればいいことだ」
と、有害な煙を払うかのように、大急ぎで雲散霧消させられてしまう。
そしてとても奇異な人間として見られる、

までが、死に関わる事柄を話題にした私への、お決まりのリアクションだった。

このような事がしばしば起きるため、私はこのnoteを作った、と言っても過言ではない。

しかし、毎回判で付いたような同じ反応を返される日本でも、奇異な私と同じく「死について話したい」という欲求をもつ日本人がいたのはとても嬉しい、と感じたことも事実だ。



『デスカフェ』のルール


『デスカフェ』自体は、実は誰でも主催することができるらしい。
『デスカフェ』を主宰するにあたってのルールは4つ。

①議論やジャッジをする場ではない
②グリーフケアやカウンセリングの場ではない
③自死や自殺を誘う場であってはならない
④その場で話した秘密は口外禁止

以上の4つさえ守ることができれば、内容は自由とのこと。



おおまかな枠組みは4つだが、実際に主催する場合はおそらく4つだけで足りることはない。

参加者の年齢・性別・家族関係・宗教など、個々のバックボーンは多種多様なため、【デスカフェサミット運営委員会公式ホームページ】内の「私たちのデスカフェ倫理規範」のような細かな配慮やルールが必要になってくるだろう。


昨今のデスカフェでは、実施される内容も実にさまざまだ。

生きている間に棺桶に入る体験をしたり、自分が食べられなくなった時、亡くなる時など、デスカフェでの話題づくりのきっかけとして、トランプのようなカードが使われたり。



参加しやすい・話のテーマに入りやすくなると、”有害な煙”が”山や畑の野焼きの煙”くらいになっていってくれるのではないか、と考えている。
まあ、野焼きの煙になっても独特の匂いだったり別の有害物質が発生したり、と完全に無害になるわけではないが。



『デスカフェ』に参加した感想

昨年は、デスカフェに参加する機会に恵まれたため、感想や所感を自分のためにも記しておこうと思う。

私が参加したデスカフェは、全部で2つ。
1つ目は、宗教家の方が主催する対面のイベント。
2つ目は、NPO法人が主催するオンラインのイベント。

開催情報を探すと、デスカフェのほとんどが対面形式で行われており、都市部だけでなく地方部でも行われているようだった。

そして、参加を想定される対象者が高齢者、だからか。
”平日の午前~夕方まで”の開催時間の会も多くみられた。

残念ながら、私が足を運べる距離・時間帯にも限りがある。
どうあがいても平日朝から夜まで働いている人間は参加できそうにない。

死について語らう場というのは、やはりメインターゲットは高齢者なのか?
と思いながら、自分が参加できそうな会を探した。

私が参加した2つのデスカフェは、いずれも夜に開催されたものだった。
だが、参加して驚いたのは参加者の平均年齢がいずれも若いことだった。


1)1つ目(宗教家主催)のデスカフェ

はじめて参加したデスカフェは、宗教家主催のものだった。
トークテーマが”死”であるがゆえに、さもありなん、という感想。


会場に着くと、すでに10人ほどの参加者が円形に着席していた。
ぐるっと見渡すと、参加者は20代から40代といったところだった。
参加料を払い、あいている席へ。

こちらのデスカフェ内容は、「テーマに沿ってディスカッションの後、主催者の宗教における教義と解説」といった流れだった。

ディスカッションといいつつ、意見を戦わせることはない。
自分が、他人が、このテーマについて「こう思っている、感じている」と発表するだけだった。
生き方と同じく、死に方も人それぞれなのだから、否定は無意味だろう。
たとえ他人の死生観を否定したとして、自分が望んだとおりに生きたり、死ねたりするわけでもない。
だが、それ故に他人の死生観をストレートに聴けるというのは、とても興味深く貴重な経験だった。


先に感想を述べておくと「教義と解説より、ディスカッションや他人の意見・価値観を聴いている方が楽しかった」が正直なところだ。


ディスカッションの後にはじまった、教義を元にした解説。

”宗教観・世界観”という知識としてはとても興味深い。
教義ゆえに、魂や精神・思考の話がメインで、現実よりはスピリチュアル方面な話になりがちだったが、趣味の範囲でその手の話題は好きな方だ。


ただ。
その教義のみをベースにして生き死にを語る事は、謎の束縛を受けたようでなんだか居心地が悪い。
宗教ごとに死の概念や死後の世界の解釈が違うので、わかってたことだが・・・なんだか釈然としなかった。

宗教否定というわけではなく「私の思考の好みには合っていないな」が、素直な所感だった。

某作品でみた「人間が死という概念を獲得し、その恐怖から逃れるために作りだしたものが神」というセリフに得心がいった人間であるからか。

重ねて言っておくが、主催者ひいてはその宗教・教義を否定するつもりは微塵もない。

加えて日本では、自分の領分(ある一定のボーダーライン)を踏み越えてこなければ他宗教にも寛容な所がある。

おしつけられれば反発心も生まれるが、そうでなければ「ふーん、貴方はそうなのか」で終わる。
他人の信仰心についてとやかくいうこと自体不毛だろう。


2)2つ目(NPO法人主催)のデスカフェ

2つ目のデスカフェは、NPO法人主催のオンライン形式のものだった。
こちらも決まったテーマについて、ディスカッションという名の意見発表という形だった。

今回は参加人数が少ないゆえか、法人の活動内容ゆえか、参加者間でテーマを決める形式だった。

1つ目のデスカフェとは異なり、テーマは「肉体的な死後の話や葬儀、散骨のについてどう考えているか」という現実に直面するであろう場面に即したものだった。

感想としては、こちらの内容の方がディスカッションしていて楽しかった(語弊があるのは承知している)記憶がある。

テーマが肉体的な死の後の話だったため、
身近な家族の、自分の延命治療はどうしたいか?
亡くなった後の墓や葬式の有無。
納骨なのか、散骨なのか?
など、いい意味で即物的な話だった。

それでも感想が「楽しかった」ということは、私が他者と話したかった内容は、こちらの死後に対する即物的な話だったのかもしれない、と一人で納得していた。


それとともに、ディスカッション中に頭に浮かんだ、別作品のセリフ。
「死を恐れている人はおらず、死に至る生を恐れている。苦しまずに死ねるとわかっているのならば、誰も死を恐れることはない」は、とても当てはまっている、と感じた。

死ぬ時に光の粒になって消えることができれば「誰が家を、墓を引き継ぐのか、火葬代が、維持費が、手数料が」と悩む必要もないのにな・・・と常々考えている。
だが、現実に光の粒になって消えることができないのだから、ただの妄想でしかない。

後は「生きることについては気が済んだから、もういいか」と思った時に死ぬ権利が与えられること、苦しまずに死ねることがセットだと万々歳だ。ま、これも妄想でしかない。


とりわけ、現代日本では”生存権”という名前の覆いで完全防御された”死ぬ権利”は、自身が思った時に行使できない状態である。
だから自殺がなくならないのか?とも考えるが、まあ死ぬのも体力・気力を使うし、生物としての本能もあるからだろう。

いつも通りであるが、自分がどうこうできない問題について考えても、ただの妄想でしかないのだ。



3)感想・所感


「死ぬことはおおごとである」と捉えがちだが、いざ話す・言葉にするとなると、
「肉体の話(病気になる、体が衰えて動かなくなる、認知機能が低下する、孤独死、葬儀のお金や手配、遺骨の処遇どうするか?」

と、

「精神の話(死に向かう気持ち、恐怖、人生においての後悔の有無、死後に報われるか、救われるか。死に至る身近な他者を見てどう感じるか。)」

の2つに大別する事ができ、意外にシンプルに考えることができるのではないか?と思い至った。

『知らないから怖い』というフレーズを耳にすることがあるが、”言い得て妙”とはこのことだ。



たしかに、自分の死後、その後始末を考えたり、しがらみを考えたりしなければならないのは、人間社会という枠の中で生きているが故の悩みの種なのだろう。

動物には、痛みに対する恐怖はあれど、”死”への恐怖は持ち合わせていない、とも聞く
(この件については動物と言語を介し、明確にコミュニケーションが取れたことがないので、人間側の勝手な憶測の可能性も十二分にあるが)。


野生動物のように自然の中で生きていれば、死んだあとは山の中で死体は野ざらしとなり、他の動物に食われ骨しか残らず。
さらに長い年月をかければ、骨さえも痕跡が残らない。

人間社会のような”枠”に囚われない生き死にができれば、死に関わる事柄に悩むことなく、もっと単純に生きることができるだろう。



しかし、”人間社会”という安全なエリアで生きていなければ、「死について深く考える」「自分の生に意義を見出す」「自分の死に対する意識をじっくり考える」なんて悠長なことはやっていられないのも事実だ。

結果として、2つのデスカフェに参加した後、
「私は、死について・死後について、自分または他者がどのように考え、生きているのか、という点に関心をもっている」という事実が認識できた。



デスカフェには、自分探しをしに行ったわけではない。
が、結果として、デスカフェを通して自分の生死感の輪郭や、興味の対象をつかむことができたのは僥倖だった。

また機会を見つけ、デスカフェに参加していこうと思う。

願わくば、納得のいく人生の幕引きへの至り方に、出会えることを祈りながら。

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