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《映画日記4》 アンドレイ・タルコフスキー、クリスティアン・ペッツォルト作品、ほか

(見出し画像:アンドレイ・タルコフスキー『鏡』)

本エッセイは
《映画日記3》ホドロフスキー、小田香作品、ほか
の続編です。

このエッセイはわたしがつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。


アンドレイ・タルコフスキー『鏡』(1975)

タルコフスキー作品を語るとはどういうことなのか。ストーリーを映画内の時系列で綴ることでもないだろうし、象徴的なイメージを羅列することでもないだろう。それは、作品を痩せ細らせることにしかならない愚行のように思えるからだ。だからといって、何も語らない、ということもできない。タルコスフスキー作品は、語ることの矛盾をあらかじめ内部に孕んでいる。だから、矛盾であることをアプリオリに受け入れることを前提に、目の前のいくつもの交差するイメージ、それを脳裏で再現し、言語化すること、それが、タルコフスキーを正しく語ることなのではないだろうか。
言うまでもないが、わたしにそのような再現能力が備わっているとは思えない。だからここでは、冒頭のシーンを簡単に記すことで、イメージの表象を示すにとどめておきたい。
少年がテレビ受像機のスイッチを入れる。テレビというイメージ世界。テレビという表面、それを唯物的に見るならば、その背後性・奥行きによって支えられている。背後性・奥行きとは鏡のイメージ、つまり、テレビの表面は鏡を内包しているのだ。それは意識の中に隠された記憶・情景・時間・場所という「心の深層」、タルコフスキー作品そのものと言える。
映像はカラーからモノクロに変わり、少年は女医に促されるままに言葉を発しようとする。この状況から、少年は吃音者のようだ。女医は身体に言及する。身体の緊張が少年の言語に影響を及ぼす。身体への集中と解放。女医が言葉を発し、少年はそれに続く。深層に埋まっていた言葉が意識の現れのように顕現する。このように、タルコフスキーの主題が冒頭に呈示され、そしてロシア語のタイトル「ЗЕРКАЛО」(鏡)の呈示。タイトルが示す主題が、冒頭の数分間のイメージで啓示のように顕現するのである。


アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』(1972)

心理学者クリスの妻は夫が自分を愛していないと誤解し、毒を体内に注入して自殺する。クリスはそのことを自己の罪と考え、意識から妻のイメージが離れない。クリスは惑星ソラリスの海の上空の宇宙ステーションに赴任することになる。
ソラリスの海は人の意識やイメージを物質化する。それは触れることのできないVRとしてではなく、生身の物質として目の前に出現させることのできるソラリスの海。ソラリスの海には知性があるのだ。宇宙ステーションの研究員たちはソラリスの海と意思疎通を図ろうと試みる。そこでクリスが見たものは、友人の死体と妻の姿。ソラリスの海の知性が、彼の意識化にある妻のイメージを物質化したのである。これはクリスの罪の償いの現れでもあるのだが、そのことで物質としてイメージ化された妻もクリスの気持ちを理解し、相互の悩みは深くなる。クリスがこの地を去れば物質化された妻は消滅する。クリスはこの地に留まろうと決心する。極限化されたクリスと妻の精神。
ラストシーンの一軒家と凍てついた沼。クリスがたどり着いた一軒家と玄関に佇むクリスの芒父。クリスは父の膝元にすがりつくのだが、フレームは俯瞰へと引きになり、その地はソラリスのような渦巻く海に浮かぶ孤島であった。
本作で描かれたのはソラリスの海というSFではなく、罪と罰である。そして、バッハの音楽がタルコフスキーの映像を神秘化している。タルコフスキー『サクリファイス』(1986)冒頭に呈示される、マタイ受難曲のアルトのアリア「Erbarme dich, mein Gott,…(神よ、わたしを憐れみたまえ…)」を思い出した。
タルコフスキー特有の人体浮遊と鏡、消滅した者たちのイメージの交錯、そして水の落下と蠢く海。難解ではあるけれど、主題的には『鏡』(1975)へとつながるものである。
『惑星ソラリス』には技術的に滑稽と思えるシーンもあるが、スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』(1968)と対比して見るならば、宇宙的な装置も貧弱で人工知能も出現させることなく、SFを形而上学的課題として表象しており、記念碑的作品として特筆すべきである。

(アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』)


アンドレイ・タルコフスキー『ローラーとバイオリン』(1960)

冒頭の階段下のショット。6〜7人の少年たちを遠近に配置したり、配置を乱すかのようなフレーム外からの不意のインがあったりと、見る者の視線を分断させる。分断のイメージはタルコフスキーの作品にはあるけれど、このようなフレームへの運動による分断のイメージがタルコフスキーにあったのかと感動。


アンドレイ・タルコフスキー『僕の村は戦場だった』(1962)
「カッコーの鳴く美しい村で、明るい陽光と戯れる12才の少年イワンはママから水をもらう」
シーンの情景みを叙述するならば、このように無味乾燥でありながらも美しさに満ちた簡潔な表現になるのだろう。だが、このシーンの美しさには銃後のイメージがないだけに、逆説的に残酷である。その直後に、銃声が響き、主人公である少年イワンは両親と妹をドイツ兵に殺され一人ぼっちになる。以下、長くなりそうなのであらためて別の稿で。
本作の論考は下のサイトを。


チャン・ヤン『ラサへの歩き方 祈りの2400キロ』(2015)
ドキュメンタリー映画だというわたしの先入観。
映画が始まり、こんなドキュメンタリーもありかなと思いながら、虚実の境界を見ることの愉楽の中にわたしはいた。だが、である。本作が自己を演じることの到達点にあること理解したのは、上映開始から既に1時間は経過していた。つまり、ドキュメンタリーではなく、フィクションだったのだ。
チベット人にとり、ラサへの巡礼がどのような位置づけなのか、また、現在のラサがどのような状況なのか、わたしはそのことを知らない。ラサの歩道には、日傘をさした観光客の一団(おそらくチベット人ではなく中国人…中国にとり、チベット人も中国人であるのだが…)が闊歩する姿を確認できるのだが、聖地ラサそのものが観光地化されていることは間違いないだろう。現代人にとり、スペインのサンチャゴ巡礼や四国の巡礼も信仰と観光を切り離しては語り得ないのだが、そのことの対極に、物語を紡ぎ出す映画内の11人の巡礼者たちはドキュメンタリーとフィクションの狭間にありながらも、信仰に根ざした1200キロの五体投地により聖地ラサへ、そして、そこからさらに1200キロ離れたカイラス山への巡礼を演じたことには違いないだろう。巡礼途上の出産、そして聖地での老人の死、それらも含めて、これら総体が五体投地による巡礼なのである。つまり、巡礼とは、生命の誕生と消滅、そして生きるということの生々しさのことである。いや、巡礼者は、生と死を〈生々しさ〉と捉えるのだろうか。これは映画を見るわたしの、映画受容の都合のいい解釈に過ぎないのかもしれない。彼らは、〈生々しさ〉という俗世の思考とは少し違うところにいるような気もするのだが、わたしはなんとも判断できないのがもどかしい。これは本作を批判しているのではない。自己の無知さ加減を、本作で確認したのだ。

(チャン・ヤン『ラサへの歩き方 祈りの2400キロ』)


ヤン・ニェメツ『パーティーと招待客』(1966)

上映時間の2/3は寝ていただろうな。朝食にパン一切れ。その後何も口にせず、午後4時半からの上映回。だが、あまりの空腹に、映画館に隣接するスーパーであんぱんを1個購入し食べた。空腹+糖分で、血糖値の急激な上昇で眠くなったのだろうか。映画冒頭のバストショットの連続に、これは見逃せないぞと思いながらも意識は薄れ、気づくと別のシーンに変わっていた。それなりに時間を経過したシーンのようだ。再び意識は薄れ、またもや時間は経過。眠ってはいけないという覚醒意識と眠りを反復し、アレレと思ううちにスクリーンは暗転、そして館内は明転。映画が終わってしまったのだ。バスで駅に向かう途中も欠伸は止まらない。いったいどうしたというのだ。明後日に見る予定の『ひなぎく』は眠らないようにしなくては。『パーティーと招待客』は映画冒頭のバストショットから察する限り、良い映画だと思う。


ヴェラ・ヒティロヴァー『ひなぎく』(1966)

マリエ1とマリエ2の二人が騙す男たちはすべからく裕福な者たち。彼らがどのような階級にあるのかはわたしには分からないのだが、高級官僚であったり党の幹部に近い人物であったりと、労働者階級とは違ったレベルの者たちなのだろう。もっとも、社会主義には階級などというものはないことになっているのだが、理念と現実は明らかに異なる。
マリエ1とマリエ2はどこまでも社会の撹乱者としてある。撹乱者であるから彼女らは社会の異端としてある。しかも特権階級にはその存在が見えるのだが、労働者階級には不可視の存在としてある。また、撹乱者であり続けることの困難を体現する存在でもある。その結果、撹乱の持続は自らの身体をも撹乱し、身体を切り刻み、破片と化さざるを得ない。その結果、彼女らがたどり着いた自己保全は、新聞で身を包むという反語的なファッションである。新聞とは党の言説であるから、新聞で身を包むとは防御ということである。60年代のチェコスロバキアにおいては、党の言説を身に纏うことが最大の防御である。それゆえ、それは恥辱であり最大の不幸でもある。彼女たちは述べる、「虐げられた草だけが不幸であると信じない人に捧ぐ」と。体制の傘下にいる者たちもまた不幸である、ということなのだ。
ネガティブな社会でポジティブに生きること。それは装うということであり、装うとは、ファッションとして体系化されることである。それは形式においても色彩においてもプロテストという意思のパフォーマンスであり、マリエ1とマリエ2が素人により演じられているのは、制度外というプロテストと関係しているのかもしれない。職業俳優にない演じることの手前にある台詞回しや身体。それは、社会を対象化する一つの手法であるだろう。魅力的なマリエたちの出現を世界は待ち望んでいる。

(ヴェラ・ヒティロヴァー『ひなぎく』マリエ1とマリエ2)


ルイス・ブニュエル『アンダルシアの犬』(1929)
眼球と剃刀。路上に転がる切断された右腕とそれを杖でつつく女装した青年。ピアノと横たわる動物の死骸。蛾と人面文様。掌と群がる蟻。これら断片の脈絡のない遭遇、あるいは非連続性は、ロートレアモンの「手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いのように美しい」(『マルドロールの歌』(1869年))を想起させたりもするのだが、「昔々あるところに…」「8年後」「午前3時ごろ」「16年前」「春が来て…」という時制を挿入することで、確かな物語への試行を見出すこともできるだろう。
本作をシュールレアリスムとの関連で捉えることはすでになされているのだが、映画の本質である時間や空間の切断・接続といった編集は、シュールレアリスムとの親和性なくしては成り立たないだろう。

(ルイス・ブニュエル『アンダルシアの犬』)


クリスティアン・ペッツォルト『イェリヒョウ』(2008)

わたしのペッツォルト解釈はファスビンダーをプラットフォームとした周縁に位置する監督としてある。とりわけ興味深いのは『治安』(2000)。この作品の背後にあるのは、ファスビンダー『ローラ』(1981)の内部への視線である。そこには、肥大化し、腐敗した70年代ドイツ資本主義社会の矛盾という、歌姫ローラと小役人ボームを包み込む強靭な円環が立ちはだかっていた。しかも、この円環の内部には幾つもの小さな円環が交錯していた。『イェリヒョウ』においても同様である。ドイツの底辺を支える移民たちと下層ドイツ人。ラウラは借金の肩代わりにトルコ移民アリと結婚するのだが、ドイツ人トーマスが出現することで悲劇としてのメロドラマが発生する。移民と下層ドイツ人、そして経済の周縁としての旧東独小村。
借金の肩代わりのためにトルコ移民と愛情のない結婚をしたドイツの女。経済の周縁である旧東独小村イェリヒョウ。そして村に戻ってきた若い男。ファスビンダー的というべきだろうか、いくつもの円環が交錯するドイツ的メロドラマの発生にわたしは溺れた。
いつの日か、ファスビンダーからペッツォルトへと至る変位について語ってみたい。たとえば、ファスビンダー『ローラ』とペッツォルト『治安』を題材に、
「ファスビンダー発、ファムファタル経由ペッツォルト行き」
というタイトルで。

(クリスティアン・ペッツォルト『イェリヒョウ』)

《映画日記5》アンゲラ・シャーネレク、ストローブ=ユイレ作品、ほか

に続く。


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