火曜日はあなたと一緒に珈琲を。
いつも道のいつもの帰り道。
コンビニでカップコーヒーを買ったあとに冷たくなった手を温める。吐く息が白いまま、あっという間に空気と空に溶けていくのをぼんやり見ていた。
待ち合わせ場所へ時間通りに来ないあなたを、私は火曜日の日暮れ時に待っている。今頃どこで何してるか、私には分からないけど、今この時間をコーヒーで癒している。
まばらに光るヘッドライトの光りをぼんやり眺めながら考えていた。このまま仕事を続けようか止めようか迷っていることを。続けようと思えば続けられる。でも今日、職場で言われたひと言が心に引っかかった。
『また数字をだしていけるように頑張ろう』
入社して、失敗を乗り越えて、やり甲斐を感じて過ごしてきたのに、今日言われた台詞で身動きが取れなくなった。言われた台詞や言葉を発した相手の表情がぐるぐると回りつづける。明日、会社は定休日。楽しみにしていた休日に、こんな台詞を身に付けて過ごすのかと思うとやり切れない。
ミルクと砂糖を入れた甘いカップコーヒーに口を付けたあと、あなたを探して目線を上げると涙が頬を伝う。
その瞬間ふいに心の隙間を埋めるように思い出が溢れて来た。
夢があった。
でも挫折した。
描いていた夢とはかけ離れた仕事をしている、今。毎日、電車に揺られ、会社へ行き、重たい鞄を肩にかけ、数字に追われて線引きされたラインを越えようと、日々あがいてる。だけど今、こうして日常を生きている日々を平凡とは思わない、夢見ていた時と同じくらい大切だから頑張ってきた。なのにどうしてだろう、夕暮れのせいか想いが溢れてきてしまった。
「やば…。カッコ悪…」
ヌルい涙でカップコーヒーの味がよく分からないけど、砂糖の甘みが身体に染みて少しだけホッとした。すぐ側にあった鉄柵に寄りかかって空を見上げた。
____
とことこ、こつこつ、とことこ、こつこつ…アンバランスなコンビのリズム。交差点の向こうから一人と一匹が歩いてくる。
幼なじみの智(トモ)。16歳になる老犬のトイプードルのハナ。
「ハナ」
いつも時間通りに来たことがないあなたをそっと抱きしめる。年相応になった毛並みのあなたが千切れそうに尻尾を振る。
「寒くなかった?そこのコンビニ入ってたら良かったのに」
「そういう気分じゃ、なかったなぁ」
「時間かかってごめんな」
ハナの歩幅は、年々小さな一歩になって、智の一歩の何十分の一。一人と一匹連れ立ってここまで散歩に来るのに何分かかるのか。私の休みは水曜日。その前日だけ、駅に一番近いコンビニまで智とハナは迎えに来てくれる。
「いいよ。大丈夫」
智の顔を見ずにハナを抱きしめていると、智はその姿を静かに見守っていた。
智は察しが良い、昔からいつもそう。言わなくても分かるというよりも、見えてしまうんだろうな、相手の心の色みたいなものが。
「ウチのカウンター行く?今、親父一人でいるから気楽だけど」
「そうだね、行きたいな」
智の実家はお父さんが開いた小さな喫茶店。ジャズ音楽が流れていて、レコードと店内に古いオルガンが置いてある。そして私は何よりもカウンターに並べて置いてあるオルゴールと砂時計のコレクションが好きだった。子供の頃から智と一緒に頬をついて眺めて育った。
私には夢があった。
サックス奏者になる夢が。
叶えられないと分かってからも、変わらずにサックスは私の隣にあって、時々、手入れをしては吹き鳴らす。それは私の夢の足跡。
「ハナ抱っこしてあげよう」
「ああ、そのカップ持つよ」
「…ありがとう」
軽くなったハナを抱き上げると腕の中でクルンと小さくなった。
智は優しい。派手じゃない、でも、地味じゃない。お父さんの後を継いで喫茶店を続ける為に来月から修行に出るらしい。いつも側にいた智がいなくなるのが想像できない、私たちは簡単に寂しいって言ってはいけない年齢になってしまった。そして遠くへ行く智に、今は、本心を言ってはいけない気がする。
「店に着いたら、珈琲淹れようか」
「うん」
頬についた涙の後が乾ききらない事に気付いていた。相手からの言葉はけして消えないけれど、その波にのまれて溺れるのはもったいない気がする。子供に戻ったように小さくなったハナを抱きしめるとスンスンと息をする音が聴こえる。今を生きている声がする。小さくても温かく生きている。そう思うと職場で言われた言葉がもう既に遠く遠い過去の言葉になってしまったらいいと思えてきた。私も今を生きていきたい。微かに小さくても。美しくも、綺麗でなくても。
「修行先のお店にも遊びに来てよ」
智は言う。
「東京か…ここから遠いよね…」
遠く感じてしまう、知らないあなたになってしまいそうで。
「うん、でもたまに、遊びに来て」
恋人になりきれない私たちの精一杯の約束。あなたが淹れてくれた火曜日の珈琲を思い出してきっと涙が溢れてしまうのだろうけれど、会う約束があるなら、それを夢にして生きていきたい。
「そう、先輩がさ。サックス吹ける人探してるんだ」
「そうなの?」
「金曜と土曜日にレストランで生演奏やるバンドメンバー探してるらしくて。良い先輩だよ。タンバリンがうまいんだ」
「ええ、何それ?」
「ジャズ歌いながら、タンバリンを振るの難しいらしいよ」
智の紹介で男女混合のジャズバンドの見学へ行くことになった。先輩のタンバリンさばきを想像して笑っていたら、今日の涙が少しずつ乾いていく気がした。なんて単純な私だろう。
ハナが腕の中で私たちの笑い声を聞きながら小さな息をして眠っている。いつの間にか智は私のカップコーヒーを飲んでいる。
秋の夕暮れ。目の前の景色が、夜に溶け込んでいくような気がした。
1ヶ月後、智から写真が届いた。
修行先のお店だ。看板をズームしてみる「RO…J…」
【cafe ROJIURA】
看板の前で、なんだか楽しそうに笑うあなたの笑顔に会いに行きたくなった火曜日の夜。淹れたこともない珈琲をはじめてドリップで淹れてみる。
#なんのはなしです珈
#なんのはなしですか
#エッセイじゃないもの
今回もフィクションとリアルを混ぜました。割合は秘密ですが、どこをフィクションにしようかリアルをどこまで混ぜるか考えるのが面白かったです。一時期、部活でテナーサックスを吹いていましたが全くの見かけ倒しです。
ハナにはモデルがいます。知人のトイプードルで遊びに行くと抱っこをせがんでくるのがかわいいです。休みの前の日ってなぜわくわくしてあっという間に過ぎるのでしょう。目の前の休みに真っしぐらだからでしょうか。
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