単層な夫と、モーツァルト
夫は毎朝窓を開ける。
「風が入って気持ちいいな」
私は真っ先に窓を閉める。
光だけ入ればいい。
「あっそ」
そんな夫とある日、清塚信也さんのピアノコンサートへ行った。
20年前、ドラマ『のだめカンタービレ』を夢中で観ていた。
千秋真一が大好きだった。
演奏シーンのピアノを担当していたのが清塚信也さんだ。
だから私はワクワクしていた。
あの頃の千秋真一にもう一度会える気がした。
何ヶ月も前からカレンダーに丸をつけてこの日を待っていた。
席は前から3列目だった。
ステージの上のグランドピアノがよく見えた。
こんなに近くで生演奏を聴けるなんて。
しばらくして照明が暗くなった。客席が静まり返った。
20年前大好きだったその人が今、目の前で弾いている。
2曲目。
シューベルトの
「即興曲作品90の2」
聴いているうちにふっと父の笑顔が浮かんだ。
冗談を言ってはケラケラ笑っていた頃の。
あの頃のままの。
晩年、父から笑顔は消えていった。
ステージでは演奏が続いていた。気がつけば、もう最後の曲だった。
このままアンコールがずっと続けばいいのに。席から離れたくなかった。
コンサートが終わっても、私はまだあの余韻の中にいた。駐車場は渋滞していて、車は少しずつしか進まなかった。
ようやく外へ出て帰り道のファミレスに入った。
注文した料理を待つ間、プログラムを見返した。
ページをめくり、「即興曲作品90−2」をもう一度見つめた。
周りのテーブルからは賑やかなおしゃべりや笑い声が聞こえてくる。
スマホを見ている人もいる。
さっきまで私はあの特別な場所にいたのに。
拍手やピアノの音が少しずつ遠ざかっていくような気がした…
あれほど心待ちにしていたのに、
ああ、もう終わってしまったんだな。
「なんか、よかったね」
夫が言った。
「どの曲が?」
「全部」
「全部?」
「でも、モーツァルトがなかったね」
いつだったか、玄関にあるパンジーを見ながら「何色植えていた?」と聞いたことがある。
「……紫、かな?」
パンジーは白と黄色だった。
夫は通勤の車の中で、『モーツァルト CD100選』を聴いている。
白と黄色も見えていないのに、
モーツァルト。
ファミレスを出て家に帰り着いた。ドアも閉まりきらないうちに、「しまった!シャーペンの芯と付箋を買うの忘れた!」
と言い出した。
「……今から?」
夫は返事もそこそこに慌ててゲオへ行ってしまった。
はぁ〜…
またはじまった。
私はまだ、あのコンサートの中にいるのに…
夫はもう明日が見えている。
それでも、また行きたいと思った。
次はモーツァルトでもいい。
私は隣でシューベルトを聴いていたい。
